095.謝罪の気持ち
「またせたね。 今日は、話せるかい?」
「……はい」
彼は昨日と同じ声色で、しかし俺のことを案じているのか前回感じた圧は鳴りを潜めた状態で俺たちと向かい合うように座ってくる。
和服の、俺よりも体格のいい男性。彼は少し横に逸れた遥母の隣に、ゆっくりと座ってくる。
遥の父親であり、あの時の事故を引き起こした原因だという善造さん。
彼は最初からつけている眼鏡の奥からギラリとした目をこちらに向けている。
「昨日はよく眠れたかい?」
「はい。お陰様で……」
確かに昨日はよく眠れた。
けれどそれはきっと、遥の胸の中で眠ったお陰だろう。 さすがに、そんなことは口が裂けても言えないが。
もしも言ってしまえば、きっと父親は激怒した上に家の力とかなんとかでもう生きていけないだろう。
そんなことを考えながら背中に嫌な汗をかいていると、突然遥母が口を開く。
「えぇ。娘も一緒にお泊りしましたし、きっとぐっすり眠れたと思いますよ」
「え!? ちょっ…………!」
隠し通そうと思っていたことが、まさかの方向から知らされるという事態に。
突然この人は何を言ってるの!?
そんな事言えばあらぬ誤解を抱かれるんだけど!! 何もしてないんだけどさっ!!
ドクンドクンといつも以上に早く動く鼓動を感じながら父親の方へ視線を移すと、反応すること無くどっしりと構えていることに思わず目を見開く。
あれ……もしかして知ってたの?
「そういえば大牧さん、娘はアレをお使いになられましたか?」
「…………アレとは、なんでしょう?」
「えぇ。 いざこういう日が来るんじゃないかと思って準備していた、大人向けの下着をバッグに忍ばせていたのですが」
「…………」
この人は…………。
先見の明はあるんだけどね。イマイチその方向性というか目的が普通より斜め上方向というかなんというか。
そんな事ありえないという視線を込めて彼女に向かって首を振ると、小さくため息をついて肩を竦められる。
「母さん、どうだ?」
「残念ながら嘘はついていなさそうです。 シロですね」
善造さんもようやく口開いたと思えば突然何聞いてるの!?
昨日遥の名前出しただけで眉潜めてたよね!?
「諦めてください。総はあたしに10数年も手を出さないほどですから」
「優佳!?」
置いてきぼりになっている俺に続いてかけられるのは、隣に座る優佳の言葉。
手を出すって10年前は俺たち小学生じゃん!
諦めるって……揃いに揃ってみんな、そんなに俺の理性吹き飛んでて欲しかったの?
「そうか。 安心したというか、先が思いやられるというか……」
…………え、何この空気。
まさかの俺が悪い感じ?精一杯耐えたんだよ俺。どっちかと言うと褒められるべきじゃ?
「――――総は何も悪くないわ」
「えっ?」
謎の空気に右往左往していると、そんな心を読んだかのような言葉が聞こえてくる。
きっと以前と同じように、俺の表情がわかりやすかったのだろう。優佳はにっこりと微笑んで自らの胸元を数度叩く。
「ちゃんと自分を抑えて浮気しなかったもの。 あたしに手を出さなかったことは何倍も悪いけどね」
「それは何か違くない?お姉さんや」
「あら、何も違わないわよ。 だって今のあたしは妻だもの」
「…………」
『あたしは妻』――――
あぁ……懐かしいなぁその言葉。学生時代以来か。
当時はからかわれた時、そうやって優佳はスルーしてたっけ。
でも俺が慌てて否定するものだからスルーも台無しになってなぁ……。
ってそうじゃない。なんだか昔のことに触れる機会が多くなって懐古的になってる。
「……さて、少しは気も解れただろうか」
「――!!」
まさしくこれから本題と言うように。
1つ咳払いをした彼はまっすぐ俺を見ていることに気づく。
その視線に、一度居住まいを正して善造さんと向かい合う。
彼も俺の空気を読み取ってくれたのだろう。少し弛んだ空気を張り詰め直し、眼鏡を外したと思ったらその両手を机に付けて――――
「――――すまなかった」
「……えっ?」
彼は自らの額を机にこすりつけるように、突然頭を下げていた。
それもゴンッ!とぶつかる音が部屋に鳴り響いてからも力がこもっているのか身体が小刻みに震えている。
「事故の件と……突然それを言い出したことだ。改めて伝えればよかったものを、すまなかった」
「いっ……いえ! 顔を上げてください! もう気にしてないことですから!!」
その言葉にゆっくりと顔を上げた彼の額は、赤くなっていた。
随分と力を込めていたのだろう。真剣な目で俺を見ていた彼がフッと表情を崩すと同時に隣に座る遥母に視線を送る。
「昨日、母さんにこっぴどく怒られたよ。 あの場で言うべきではなかったことと、事前に伝えてほしかったことをな」
「…………」
「ついでに懇々と言い聞かされたよ。娘がどれだけ君を好きか。それに、私が一瞬不機嫌になったのも、かなり怒られたな」
「それはまた、別問題では……?」
事故の件と、父親として娘の想い人に向ける感情はまた別ではなかろうか。怒られる謂れは無い気がする。
しかしその考えを否定するように、彼は首を横に振った。
「同じことだよ。事故に遭った君が腐らず、まっすぐ生きてこられたのはそれだけで評するに値するものだ。聞いたよ、今は喫茶店を経営してるんだってね」
「それは……はい。 自分でも思います。同時に、全て姉のお陰だったことも」
あの時俺を養子に迎えてくれなければ。
あの時俺を守ってくれなければ。
優佳がいなければ、確実に俺は腐っていただろう。もしかしたら絶望しきって両親の後を追っていたかもしれない。
でもそうならなかったのはひとえに、彼女が必死に俺を支えてくれたお陰だ。
「だが、腐らなかったから解決ってわけではない。 私が事故を引き起こしたのも紛れもない事実。そこについては、いくらでも罵ってくれて構わない。お金という形でしか表せないが、要求するならそれもいいだろう」
「それは…………」
彼の目は、まっすぐと。そして嘘偽りのないものというのはすぐに理解できた。
きっと、彼は不器用なのだ。なんでも言葉で表すのを是とするからどうしても空気が読めなくなってしまう。
俺は彼に言葉に否定を持って応える。
「構いません。謝罪はもう、必要ありません」
「……いいのか?」
「はい。もう乗り越えたことですし、何よりきっと、事故がなければみんなとも会えなかったでしょうから」
もしあの事故がなければ――――
もしかしたら、優佳とはただの友達で終わっていたかもしれない。あの時抱いていた恋心は淡い初恋に終わっていたかも。
そして確実に、店は開いていないだろう。これは原資があったからこそ開けた。つまり遥や伶実ちゃん、灯に奈々未ちゃんとも会えなかったはずだ。
「…………1つ、補足するとね総。この人、もうそういう謝罪は済ませているのよ」
「えっ?」
そう言って彼女が手渡したのは分厚い封筒から取り出した一枚の紙。そこには桁が多い数字や日付が大量に記載されていた。
「これは?」
「事故の直後、この人からアンタに渡ったお金よ。思わなかった?保険にしても手に渡るには額が大きすぎるって」
「…………」
思った。
あの後遺されたのは、何代も余裕で暮らせるほどの額。あの時は価値も知らずに両親が残してくれたと説明されて納得してしまったが、思い返せば確かに多すぎる額だ。
「だから実は、もうこの話はする必要も無いことなのよ。それなのにまだ払おうって言うのだから参ったものね」
「そう……だったのですか?」
「……母さん、手を回したのか?」
善造さんは俺の問いに答えることなく遥母に視線を向けるとゆっくりと頷いたのを見て1つ息を吐く。
きっと彼自身も調べられると思ってなかったのだろう。そのまま困ったような笑みを向ける。
「……ちょっとした脚長おじさんのつもりだ。君が気にすることは無いよ」
「…………はい。ありがとうございました」
あれは彼自身の謝罪の気持ち、それを否定することも、拒絶することもできない。
その上でまっすぐと。彼を見据えて俺は意思を込めてお礼を言う。
それはもう大丈夫だと。もう全て乗り越えたと、そんな思いを込めて。
「そうか……。君も、成長したな」
「……はい」
きっと通じたのだろう。彼も優しく微笑んで俺とまっすぐ向き合ってくれる。
突然あんなことを言い出したのは、彼自身ずっと後悔に苛まれていたのだろう。
そんな時突然やってきた当事者の存在。はやる気持ちを抑えきれずに言ってしまった、突然の真実。
もしかしたら、彼も救われたかったのかもしれない。
俺はようやく見えた夫婦の笑みに、自らも笑顔をもって応えるのであった。




