093.忘れ物
「んん…………」
――――いつもの朝を迎える音がする。
毎日定時に起きるようセットした、スマホのアラームの音だ。
ピピピピ…………と、無機質な音がこれまでの快眠を邪魔しに来て、さっさと起きろと知らせてくる。
毎日毎日。偶に1限サボったりしていた学生時代とは違い、仕事のために一定の時間で起きるようになった時間。およそ7時。
前日に動画サイトなどにハマって夜ふかししてしまうと起きるのが辛くなったりするが、それでも10分程度うだうだすればベッドから出られるようになった。
朝起きてやることといえば、朝食や身支度など当然のことに加え、店の準備などが待ち構えている。
そして何より欠かせないのが朝のコーヒーだ。
もはや好きが高じて喫茶店を開くほど。毎日のコーヒーがなければ一日を始めることができない。
だから、まずやることといえばお湯を沸かすことから………………
……いや、今日はなんだか起きる気力が湧かない。
なんだろう。昨日夜ふかしした記憶……というより寝る直前の記憶が曖昧だけど、それでも動画に夢中になった覚えはない。
更に普段より心地の良い寝心地。普段のベッドがこれほど気持ちよく感じるなんて、そんなに昨日は疲れたのだろうか。
仕方ない。朝の準備は10分後の俺に任せて、スヌーズ機能に期待してもう一眠りでも――――
「ひゃんっ!」
「…………?」
寝ようと身をうずめた途端、何やら普段聞かないような音が聞こえたような……。
スマホの広告でも誤タップして変な動画でも開いたか?そんな、妙に色っぽい声がした気が。
「ますたぁ……そこはダメだよぉ……くすぐったい……」
「…………へっ?」
ここに居るはずのない、ありえない声によって微睡んでいた意識が覚醒されていく。
ぱっと目を開けば、そこは暗闇の中。布団か何か布状のものが目の前にあることを即座に理解し、少し後ろに下がりつつ声のした上の方へと視線を向けると、何故か頭のすぐ上にくすぐったそうに顔を歪めている遥の顔があった。
「あ、マスター。 おはよぉ」
「えっ…………あれっ!?なんで!?」
思わずガバっと起き上がると、俺と同じくベッドに横になっていた遥が「あっ」と声を上げつつ笑みを浮かべる。
さっき目を開けた時に見たのは彼女の服だろう。彼女の体勢は俺が無理やり離れた時と変わっておらず、その腕の中には人ひとり分入れそうな空間がポッカリと空いている。
「マスター、よく眠れた?」
「な……なんで遥がここに…………」
「も~! 忘れちゃったのぉ?昨日、抱き合ったまま寝ちゃったじゃんっ!」
「!?!?」
その言葉に思わず胸元までかかっていた掛け布団をめくりあげると、寝た時のシワは見えるものの両者の服が乱れている気配はない。どうもそういう意味ではなさそうだ。
よく見れば、俺も彼女も互いに私服のまま。少なくとも眠る格好ではない。つまり、抱きしめあったまま眠った……言葉通りの意味みたいだ。
…………そういえば段々思い出してきたぞ。
昨日遥の家に行って、父親からとんでもないことを聞かされて……。
それでフラフラの状態で帰ってきた俺をずっと見ててくれたのか。
「あー……遥、すまん。迷惑掛けた」
「ん~んっ! アタシは嬉しかったよ。頼ってくれて。 アタシこそごめんね?不安にさせるようなこと言っちゃって」
「いや、それは全然……。俺も、嬉しかった」
彼女が言ったのは、あくまで俺を思ってのことだ。むしろ4つも下の子に心配させるなんて……もっとしっかりしないとな。
1人心の内で自らを激励していると、ふとこれまで横になっていた彼女が身体を起こしてこちらに身を乗り出してきた。
そして頬に手を当て、心配そうな表情が目に映る。
「それでマスター、もう大丈夫そ?」
「ん。 大丈夫だ。ありがとな」
「えへへ……」
ようやく安心したのか、ふにゃりと破顔させる彼女に俺も心が暖かくなる。
そんな彼女の頭に手を乗せて撫でようとしたところで、ピピピ……とスマホが騒がしく鳴り立てる。さっきちゃんと切らなかったからスヌーズが発動したのか。
時間を見れば10分経過した7時10分。
俺としてはまだまだ余裕はあるが彼女は学校。そろそろ起きないと支障が…………
「あっ……?」
「どったの?まだ眠い? それなら今度はお膝でど~ぞっ!またマスターの寝顔見てるからっ!」
そう正座に体勢を変える彼女の身をもう一度確認する。
それは、昨日見たのと同じ、彼女の私服。明らかに寝間着ではないだろう。
「遥、今日から2学期だろ?そろそろ起きないとマズくないか?」
「ふぇ? ん~っと……大丈夫だよっ!ここからなら8時に出たら間に合うしっ!」
「いや、でも服が……遥、昨日からお風呂入ってないだろ?」
「お風呂……? あ~~!! そうだったっ!!」
ガバッ!と、これまで正座をしていた体勢からベッドの上でジャンプして見事、下に着地をする遥。
その身体能力に惚れ惚れしていると、今度は近くのバッグを漁りだす。
「マスターごめんっ! 先にシャワー借りていい!?」
「おぉ……もちろん。俺は朝ごはん作ってるから……」
「ありがとっ! それじゃ、行ってきます!!」
漁り終わったその腕の中には、今日着る用の制服などの着替え一式。ついでもタオルも見受けられる。母親の準備はバッチリだ。
そう言い残して慌てた様子でお風呂まで駆けていく忙しい遥。
でも、急いでて日頃の癖が出たのか、手にする着替えの一番上に上下ピンクの下着を置くのは勘弁してほしいなぁ…………。
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「よしっ!準備完了! マスター!朝ごはんとシャワーありがとっ!」
慌ただしくシャワー出ていってからおよそ1時間弱。
8時頃になったタイミングで、彼女は学校に向かうため荷物一式を持って玄関までやってきていた。
その身はちゃんとアイロンまでかかった、ピシッとした制服。俺は慌ただしい準備をなんとか越えられたことに心からホッとする。
「おう。忘れ物ないよな?」
「んと、スマホにお財布に……うんっ!全部あるよ」
「そうか。よかった」
ここに来る前部屋を見て回った限り忘れ物がなかったし、キチンと全部身につけただろう。
彼女の靴を履き終えて再び荷物を手にした姿を見てホッとする。
「あっ! 一個忘れてた!」
「ん? なんだ?取ってこようか?」
「ありがとついでにヘアピン落としちゃったから取ってもらえる?」
「……これか」
ガサゴソと再びバッグを漁る彼女を横目に、俺は足元に転がっているヘアピンを取ろうと身をかがめる。
全く。朝からおっちょこちょいだな遥は。これが毎日だと母親も大変だろう――――
「んっ……」
「えっ…………」
身をかがめた途端に触れる頬への感触に一瞬だけ声が漏れたが、その正体に気づいて勢いよく顔を上げる。
目の前の彼女は、してやったりというような、イタズラが決まったような笑顔をこちらに向けていた。
やられた…………!
「えへへ……朝ののチュウ忘れてただけっ! それじゃ、行ってきます!」
「あ!遥っ! …………まったく」
まさに言い逃げという形で、俺が反応するのを待たず出ていってしまう遥。
確かに昨日いくらでもって言ってたけどさぁ…………不意打ちはズルいよ。




