092.決別
「ただいま……」
「お……お邪魔します…………」
ガチャリと扉が開いて聞こえるのは、疲れたような声と緊張するような声。
自宅に帰ってきた俺と同時にリビングに入ってくるのは、突然この部屋で一晩過ごすようになった少女、遥だった。
普段活発で明るい彼女だが、普段と比べるとかなりオドオドしている。
今日ばかりはさすがに大人しめなようで、俺の後ろにぴったりくっついて部屋に入り、ソファーに座るように促すとチョコンと浅く腰掛ける。
それはまさしく借りてきた猫。店でいつも見る彼女とは打って変わってかなり緊張しているようだ。
俺も普段食事をする椅子に腰を下ろして身体を机に預ける。
「ふぅ……」
…………さて、これからどうしよう。
お店も開けるには遅いし、夕飯といっても食欲はわかない。
やりたいことといえば…………シャワーか。
暑い夏、いくらエアコンが効いたところに長く居たといえども汗はかく。色々な考えが頭の中を占めているし、汗と一緒に思考も流してしまいたい。
でも、それより優先することといえば……
「遥」
「えっ! うんっ!?なに!?」
視線を彼女に向けて呼びかけると、ビクンと身体を震わせて反応するのが見て取れる。
別に何をするわけでもないんだから気負わなくてもいいのに。
「シャワー……」
「へっ!? シャワー!?」
「汗かいてるだろ。シャワー浴びてきたらどうだ?」
その単語に何か大げさに驚くような動作をするが今の俺に指摘する気力がない。
当たり前のことを補足すると彼女は段々と上げた肩をもとに戻して冷静さを取り戻していく。
「あっ……そうだよね。普通に汗流すだけだよね……。 確かに浴びたいけど……マスターも先入りたいんじゃ?」
「俺はその後で入るよ。 寝室行ってるから、出たら呼びに来て」
「あっ……」
俺が立ち上がる瞬間、何か言いたげな様子を見せるものの、俺は気にせずリビングを後にして自室に向かう。
一応、考えることがいっぱいでも彼女を優先するくらいの思考は残っていたようだ。
きっと遥なら遠慮に遠慮を重ねて俺を先に入るよう言ってきそうだったから、言われる前に逃げる。
日中は下のお店、夜はリビングで過ごす都合上、寝室の役割は完全に眠るための部屋となっている。
これといって特別なものなど何もなく、ただベッドで眠るのと、あと着替えるためのタンス等があるくらいだ。
俺はベッドから垂直の方向で、足は放り出したまま膝を曲げて仰向けに倒れ込む。
そして思い出すのは、さっき遥の家で言われた、とんでもない一言。
『遥の父が、あの事故を引き起こした原因――――』
それは俺の中にぐさりと、深く深く突き刺さった。
俺の本当の両親がいなくなった原因。そして、幸せな記憶とその未来と台無しにした原因。
唐突に突きつけられた真実は、今の俺には到底受け入れることができなかった。しかし責める気持ちにもなれない。
アレは遠い過去のことで、事故を起こした人も諸々の禊を済ませた。しかし頭では理解していても感情が納得していないことを自覚する。
遥の父親というものもあるのだろう。悪い人にも見えなかった。むしろ唐突ではあったものの誠実な……。
だからこそもあって責める気持ちと受け入れる気持ち、相反する気持ちが頭の中を反芻して叫びだしたくなる。
もう何をする気にもなれない……このままずっと横になっていたい……。
そう思って瞳を閉じ、自らのベッドの上で眠りにつこうとすると、ふと扉をノックする音で目を開く。
「……マスター、入っていい?」
「…………あぁ」
誰かと考えるまでもない。遥だ。
彼女は伏し目がちに、視線を忙しくさせながらもまっすぐこちらに歩いてきて俺の目の前で立ち止まる。
もうシャワーを浴びたのか……。そう思って見上げるも、そうではなさそうだ。
髪に湿り気は無く、服だって来た時のまま。ちらりと時計を見ると俺が部屋に入ってから5分程度しか経っていないらしい。
「遥?」
「んっとね……横……いい?」
「……おぉ」
彼女の言葉に頷いて見せると、ちょこんとさっきのソファーのように腰掛けてくる。
「マスター、今日はごめんね?」
「いや、泊まるとこくらい別に……ソファーで寝ればいいだけだし」
「ううん、それもだけどそうじゃなくって……パパが……」
「…………」
彼女も俺の脳内で何を思っているのか予想がついているのだろう。
まぁ当然か。俺もわかりやすかったもんな。
きっと、優しい彼女は落ち込んでいる姿を見て慰めに来てくれたのだ。
俺は無理やり笑顔を作り、彼女と目を合わせる。
「大丈夫だよ。確かに聞いた時はビックリしたけど今は全然――――」
「そんなことないっ!!」
「っ…………!」
その空元気は、彼女の張り上げた声によって霧散した。
気づけば隣に座っていた彼女は身体を捻ってこちらに身を乗り出し、眉を吊り上げてまっすぐ俺の目を射抜く。
しばらくそうして見つめ合ったと思いきや、今度はフッと眉が下がって頬へ手を触れてくる。
「そんなことないよ……だってマスター……すっごい辛そうな顔してる…………」
触れたその手は、暖かかった――――
手の温度ではない。その心が、その気持ちが、暖かかった。
ひたすらに、一心に。
心配してくれる心。
それはこれまで占めていた思考を吹き飛ばすには十分だった。
触れている手に自らの手を重ねると、自然と瞳から温かいものが一筋流れていく。
「マスターはずっと、つらい思いしてきたもん。アタシに当たっても、いいんだよ?」
「そんな……当たるなんて、俺は…………」
そんなことはできない。
そう告げようとしたが、彼女は優しげに首を横に振る。
「我慢……してくれてるんだよね。アタシがここに居るから……優佳さんじゃなくて、アタシだから」
「ちが――――!」
「違くないよ。だってマスターの家族を不幸にさせた娘だもん。 だからごめんね。優佳さんじゃなくって……アタシで」
それ以上、否定ができなかった。
彼女もまた辛そうな顔をして、一筋の涙がこぼれていたから。
それはまさしく感情を映す鏡のよう。あぁ……俺はずっとこんな顔をしてたんだな。
「だから……グスッ……ごめん……ね……グス……。もう、今日が終わったらアタシ……アタシ……マスターとは会わな――――」
とめどなく溢れ出る涙をせき止めることができない彼女が必死に絞り出した言葉を、最後まで聞いていられなかった。
自分の意思とは関係なく反射が、心がそれ以上言わせてたまるかと決死の言葉を引き止めた。
俺自身が認識するよりも勝手に体が動き、抱きしめる遥の身体。
その華奢な身体はずっと細く、これ以上力を込めれば折れてしまうと思うほど。
「ま……マスター。ダメだよ……アタシ、マスターを不幸にさせた娘だもん。こんなの……ダメだよ…………」
「……ダメじゃない」
更にギュッと抱きしめる力を込めれば、彼女の身体が大きく震える。
俺の肩を押すように引き離そうとするが、離れるものか。離れたらまた遥が自分を傷つけるようなことを言ってしまう。
「遥……ごめん。 俺、ちょっと驚いたくらいでおかしくなってた。あのときのことはもう終わったことなのに……」
「終わってなんかないっ!だってアタシは…………!」
「終わったよ。もう原因もなにも、俺の中で決着がついてるんだ。だから遥も娘だからとか気にしないでいい」
そうだ。10年という長い期間。
その中で俺は優佳に、母さんと父さんに、そしてみんなと出会って終わらせたんだ。
あの墓参りの日。あの言葉を聞いて、完全に決着がついた。それなのに……。
「だから遥、会わないとか寂しいこと言わないでくれ。俺は、遥に離れていってほしくない」
瞳を閉じれば思い浮かぶ、みんなの笑顔。
遥に優佳、伶実ちゃんや灯、そして奈々未ちゃん。
みんながみんな、俺のことを好きだと言ってくれた。
彼女たちとのつながりを、思いを背負っているのに小さな事でウジウジとして、バカか俺は。
「……いいの? パパに酷いことされたのに……それなのに……いいの?」
「酷いも何も、アレは事故だったし、なにより間接的だよ。もしも直接的な原因だったとしても、関係ない。 遥、俺のそばに居てくれ」
「…………! うん……!」
ギュッと。
背中に彼女の手が回る感覚がして俺たちは強く違いを抱きしめる。
そうして互いに顔を合わせ、瞳を閉じる。それが合図だと思った俺は、彼女の顔に自らの唇を近づけたところで………彼女自身によって止められた。
「遥……?」
「こういうのは、ズルだもん。マスターの心の隙につけ込んだ卑怯な方法だもん。……まだみんなのこともあるんだから、雰囲気に流されちゃダメだよ」
それは明確な一線。
しかしその瞳から流れる涙は止まっており、フッと笑みを浮かべる。
「だからマスター。もしみんなへの思いを決めて、それでもだったら、この続きしよ?」
「…………あぁ。ありがとう」
「でも今は…………こうっ!」
そう言ってグイッと自らの身体を伸ばした遥が目指したのは、俺の頬。
以前と同じように頬へキスをした彼女は「えへへ」と頬をかきつつ以前のような笑みを浮かべる。
「これくらいなら、マスターがしてほしかったらいくらでもやってあげるからねっ! だから…………大好きっ!!」
過去との決別。
想いを行動で表すように抱きついてくる彼女を受け止めると同時に、これまで悩ませていた出来事が、嘘のようにさっぱり消え去っていった―――――。




