090.真実
――――当時の彼は、酷く……酷く不安定な状態にあった。
事故に遭い、引き取り手もおらず、施設に預けられた彼。
私のような子供の言葉なんてなんの意味もなさず、強制的に引き離されて引き取られた総は、虚ろな目をしていた。
きっと本人でさえも漠然としか覚えていないだろう。
しかしあたしには深く刻み込まれた、暗黒の時代。
事故から暫くの時が経ち、奇跡的にも以前と同じ学校に通うことができるようになって見た顔は、笑っていた。
人の話をよく聞き、その内容によっては難しい顔をし、笑い、悲しむ。至って普通の、何の不都合のない表情の変化だった。
けれど決定的に、以前と変わった部分もある。
それが目だ。
目は口ほどに物を言う。彼が戻ってきて、笑い、悲しむその表情は全て、目の奥には何も感じていなかった。
きっと当時のあたしは子供だったから故に、その変化を機敏に感じ取ることができたのだろう。
そして何も、感じ取ったのはあたしだけじゃない。同年代の子たちはみんなその変化に気づいていたのだ。
みんな最初は以前と変わらぬ彼に喜びもしたが、その目を見、気味が悪いと思ったのかどんどんと離れていく。
そして最終的には誰も彼の周りには残らなくなってしまった。
あの時の彼は、あたし自身今思い出しても辛いものだ。
痛々しいあの目。そして養子として来た後も、夜になると聞こえてくるすすり泣く音。
今こんなにも回復してくれたのは本人の心の強さのお陰だろう。そこにほんのちょっとでもあたしの力も入っていると、嬉しいな。
ようやく…………ようやく全てを乗り越えて解決したと思っていた。
あたしの知らないところで家を出て店を構え、あまつさえ女の子を何人も侍らせているのは非常に腹立たしいが、今は関係ない話。
そこまで立ち直ってくれたことは、嬉しかった。そして今、最高に楽しかった。
なのに、また掘り起こしてくるなんて…………。
「どういう……ことですか……?」
どういうことか問い返すように彼は再度説明を求めてくる。
しかしその内容は、あまりにも衝撃が大きかったようだ。彼の目は見開き、数歩後ろに下がっていく。
「…………私は20年ほど前から、とある会社の社長をしている。建築関係の会社だ」
あたしたちの正面に座る人物は、その場に座しながら軽く手を組んで説明を始める。
それは、ここに来る途中で聞いていたから知っていた。彼も同様だろう。戸惑いながらも理解しているようで頷くのを目の端で捉える。
「…………君がどれだけ事故のことを知っているかわからないが、あの時車に飛び出した……対向車線から飛び出した運転手は、当時私の従業員だった」
当時、だった――――。
その言葉だけで今は違うということを表しているのだろう。
しかしそんなのはどうでもいい。相手もわかっているようで彼の返事を待たず話を続ける。
「当時請け負ったのは炎上している遠くの現場で、忙しい事はわかっていた。けれど炎上の規模を見誤り、最低人員だけを送り込んだ」
一泊。その人物は一息つく。
「けれど、それが間違いだった。炎上した現場はほかにも波及し、少ない人員で対応。次第には過労で倒れる者も出たそうだ。当然送られた者も忙殺され、その帰り道に……」
「そう……ですか…………」
なんとか絞り出すような声が聞こえてくる。
見るとキャパシティが限界を越えたのか、それっきり顔を伏せたままになってしまった。
その理屈なら、間接的にではあるものの原因と言うのもわかる気がする。
好かれた人の親が、事故を起こした原因の人なんて……そんな辛いこと……。
でも、ならば何故、もっと早くに……?
「ちょっといい?」
「……君は?」
「あたしは大牧 優佳。総の姉よ」
「姉……? そんな子は……あぁ、大牧の家に元々居た子か」
なんだか面倒な言い方が気になったが、間違ってもないしスルーする。
あたしは彼の盾になるよう間に立ち、彼の代わりに問いかける。
「なんでもっと早くに気づかなかったの?そこの……お母さんは前から知り合いだったのよね?プールの日も会ったし」
「私は…………その時、事故があったことは知ってました。ですが葬儀には出席しておりませんし、ご家族については何も……」
「総君の顔を知っていたのは私だけだ。もしも名前が変わっていなければもっと早くに気づいたかもしれないが」
「ふぅん……」
結局、そこの人が総と会わないとわからなかったのね。
遥ちゃんは…………いいえ、当時園児だったでしょうし、わかるはずもないわ。
「ますたぁ……その…………」
ふとその声に気づくと、遥ちゃんが総に呼びかけようとしたものの手を引っ込める姿が目に入る。
あぁ……そうね。
彼女はきっと、どうすればいいのかわからないんだわ。
励ましたいけど、けれど事故の原因である娘。それをあのやり取りで理解したのでしょう。
……まったくもう。変わったって思ってたけど、あの時から総は何も変わらないわ。
ここは、お姉ちゃんの出番ね。
「遥ちゃん、ちょっと来て」
「えっ? うん……」
あたしは顔を上げて立ち位置のわからない遥ちゃんを呼びかけると、その手をギュッと握って肩を抱く。
まずは、不安げな遥ちゃんをどうにかしなきゃ。コイツならきっとまずそうするでしょうし。
「大丈夫よ。総はちょっと混乱してるだけだから、今はそっとしておいてくれる?」
「う、うん……」
「それと…………。ねぇ、ちょっといい?」
「……なんだい?」
あたしはほんの少し肩の力が抜けた彼女の頭を撫でながら、もう一度目の前の人に問いかける。
「総の代わりに聞くけど、結局今日はなんで呼び出したの? この事を伝える……のはありえないわよね?」
「あぁ。この件は私も思いもしていなかったことだ。 本来の目的は軽い挨拶のつもりだったよ。もう1つ、娘を任せられるか見定める目的もあったが……」
2つ目の目的は、こんな状況じゃどうしようも無いわね。
それじゃあ呼び出した目的はほぼ達成されたことになる。
「そ。じゃあ、今日のところはこれくらいでいいかしら? 総も突然のことで混乱してるし、気持ちの整理が必要みたいだから」
「もちろんだ。 ……すまない。突然こんな話をして」
「そういうのはちゃんと後日、本人に言って頂戴。 それじゃ、総。帰るわよ」
「…………」
すれ違いざまにその手を引っ張ると、彼は思った以上に素直に付いてきてくれる。
……懐かしいわね。総が養子に来る前も、こうやって毎回あたしが前に立って色々してきたっけ。
こんな時は姉であり妻であるあたしがちゃんと、支えていかなきゃ。
「あと遥ちゃんと、お母さんもお願いできる?あたしだけじゃ玄関に行くのに迷いそうだわ」
「う……うんっ! ごめんねパパ!ちょっと行ってくるっ!!」
あたしの一言でようやく動き出した母娘をよそに、先に廊下に出て玄関の方へと向かっていく。
2人で飛び出した廊下。引っ張られながらも付いてくる彼の瞳は、あの日のように虚ろの目をしていた――――。




