009.右上の数字
彼女らのテストが始まって、3日の時が過ぎ去った。
遥がやってきた朝から2人の姿はここに現れること無く、客も来ない一人の時間を送っていた。
来るのは発注していた物を持ってくる業者くらい。その人と以外一切会話をする機会が一切ない日々を送っている。
来ないことは事前に聞いていたため不思議でもなんでもないのだが、開店当初から彼女たちが居たからここ数日は妙に静かだと感じる。
1人の時間はこれまで度々あったけど、ここまで静かだったかな……?なんだか時間の進みも遅く感じる。
俺、こんなに寂しがりだったかなぁ…………。
理想と現実。喫茶店を開く前と後とで変わる1人の時間という印象が変わっていることに疑問を持ちつつも、テーブルに乗せた腕に力を込めていく。
ボーッとテーブルにへばりついていた頬を気力で剥がして、今日何杯目かわからなくなったコーヒーを入れるために豆を挽き始めた。
ガリガリ……ガリガリ……と、ほんの10数グラムの豆を挽いている僅かな時間だけが退屈を紛らわせてくれる。
そんな至福の時間も段々とハンドルの抵抗が無くなり、もう終わりかと粉になった豆を取り出そうとしたところで、扉のほうからカランカランと鈴の音が聞こえてきた。
「マスター、いらっしゃいますか?」
「深浦さん! おかえり!……じゃなかった。いらっしゃい!」
たかが数日だが久しぶりとも思える彼女の姿に、思わず「おかえり」という言葉が出てしまった。
違う違うと首を横に振りつつも彼女を迎え入れると、当の彼女はフフッと小さく微笑みながらカウンター越しに俺の前へとたどり着く。
「はい。ただいまです。 無事テストも終わりましたよ」
テスト開始から3日間。それが彼女らの学校の中間テスト期間だ。
最初の2日で基礎5教科を終わらせて残りは選択科目。そういう日程が組まれていることは聞いていた。だから毎回、最終日には5教科のテストは帰ってくるらしい。俺は深浦さんの微笑みを見て結果は問題なかったのだと確信する。
「テスト、どうだった?」
「ちょっと難しいところもありましたけど……概ねできましたよ。結果もまずまずです」
「そう。 よかった」
彼女基準のまずまずはどのくらいかわからないが、元々成績はいいらしいのだし問題は無かったのだろう。
カウンター席に座ったのを確認して、俺も新たに豆を取り出す。
「じゃあ深浦さんの分のコーヒーも………って、一人だけ?」
「本……は、遥さんのことですか? 学校で会ったのですが友達と話してたようで。 先に行っててと言われました……迷わないでしょうか……」
「大丈夫でしょ。 何度も来てるんだし」
どうやら遥は有言実行。学校で会った時だろうか、呼び方が変わっていた。
それに、いくら迷いやすい道とはいえ遥に対しては全く心配していない。だってテスト初日の朝、1人でここに来た実績があるのだから。
俺はさっきとは全く心持ちが変わっていることを自覚しながら豆を更に挽いていく。
なるほど、あれが孤独というものか。実際に自らなって、そしてこうして解消されたことで実感した。人は孤独に弱いのだと。
「そうですか…………。 ところでマスター」
「うん?」
「私達が来なくて……寂しかったですか?」
「…………まぁ、話し相手が居なくて退屈ではあったかな?」
人は孤独に弱いのだと認めても、それを悟られるわけにはいくまい。俺は精一杯の強がりでごまかす。
年上の男としての、ちょっとしたプライド。しかし彼女は何を思ったのか、席から立ち上がって俺の横へとぐるりと回ってくる。
「深浦さん?」
「私は……寂しかったですよ? 毎日マスターとおしゃべりしてましたから、1人で勉強するようになって」
「………っ」
隣からチョコンと袖をつまみ、上目遣いになってくる彼女に思わず息を呑んでしまう。
普段から可愛らしいと思っていた少女の、甘えてくる姿。本当に寂しかったのか、目の端には涙が潤んでいるように見えてしまう。
大人しくて可愛らしい、そしてしっかりとした彼女が甘えてくるギャップに庇護欲を感じさせつつ、これ以上はマズイと思った俺は、背を向けてから口を開く。
「ま、まぁ……。 ずっと3人で居たからね。あの明るいアイツが居なくて物足りなくなっちゃったんでしょ」
「…………えぇ、そうですね。 ふふっ」
段々と遠くなっていく声にごまかせたか……そう思ってゆっくり振り返ると、元の場所に戻っていく彼女の姿が目に映った。
なんとか助かったと、高鳴る鼓動を抑えつつ出来上がったコーヒーを渡すと、心なしか妖艶な瞳で笑いかけられた。
「2人きりですね、マスター」
「お、おぉ……そうだね……」
「なにしましょう?」
「なにって……テストの復習とか?」
なんだか普段と様子の違う深浦さん。
それはコーヒーを飲む姿も、何故か色っぽく感じてその口元から目が離せない。
グロスでも塗っているのか、いつもよりもぷるんとした唇に目を奪われつつも悟られないように必死で抗っていると、彼女はその膝下にバッグを乗せて中を漁りだす。
「そうですね。 マスターも是非一緒に復習しましょ?私の隣で――――――――あっ」
「ん…………?」
テスト用紙を取り出す際にバッグから漏れ出たのは、なにかの冊子。
それは雑誌か何かのオマケでありそうな、手のひらサイズに収まる小さくて薄いものだった。
冊子がバッグから飛び出した先は、コーヒーメーカーを広げている俺のすぐ近く。偶然ではあるが、まさしく俺がすぐ読めるように着地して開かれたのは、その冊子の1ページだった。
随分と読み込んだようで、そこだけノリが剥がれて簡単に開くページ。何が書かれてるかとそれを覗き込むと、これまでの疑問が一気に解消された。
「待ってくださいマスター! 読まない――――!!」
「えぇと……『これで相手はノックアウト! 男子を魅了する小悪魔ムーブ』?」
「あぁぁぁぁ…………」
小さくうめき声を上げながら崩れ落ちる深浦さん。
そのページの中身は、さっきまで彼女が行った行動のどれも当てはまっていた。
これはそうか…………そういうことか。
「マスター! これはその……違うんですよ!」
「あぁ、大丈夫大丈夫。 ちゃんと分かってるから」
「マスター……?」
「これってアレでしょ? 意中の男子にやるための予行演習だったんでしょ?」
そうだ。きっとそうに違いない。
確かにまた別の考えもありえなくはないが、考えたくない。信じたくない。怖い。傷つきたくない。
俺は笑顔のままで転がってきたそれを渡すと、彼女は呆然としながら受け取ってくれた。
「は……はい。 そうです。そうなんですよぉ…………はぁ…………」
いつもより1段ほどテンションの低くなった彼女は、その場で小さく縮こまってコーヒーカップを口につける。
ちびちび、ちびちびと。ほんの少しずつ味わう姿は何か心に抱えているようだった。
俺も続くようにコーヒーに口をつけようとしたところで、突然勢いよく扉が開く。
カランカランと鳴る鈴の音も置き去りにして、その姿は駆け込んできた。
「あ、遥さん。 結果はどうでし―――――」
「……………っ!」
「――――た…………か?」
店に駆け込んできた少女はその勢いを殺すこと無く、俊敏な動きでテーブルや椅子を避けていってカウンターまでやってくる。
そこで急停止すると思いきや、更に加速してグルリと一周するように内側にいる俺へと飛び込んできた。
「……………マスターっ!!」
「遥さん!? 何を…………!?」
「えっ…………えぇっ…………!?」
全力ダッシュで俺の胸に飛び込んできたのは、遥その人だった。
彼女は驚きで埋め尽くされる深浦さんを気にしないように、俺の胸に自らの顔をうずめていく。
「遥……? 何があった…………?」
「…………。 ――――」
「これ? 見ていいのか?」
「…………」
俺が彼女に問いかけると、手渡されるのはスクールバッグ。
うずめながらもゆっくりと頷くその姿を見て俺はチャックを開けていく。
「中は……筆箱に……ファイル。 テスト結果か」
中身はシンプルなものだった。
テストで使うだろう筆箱と紙が数枚挟まったファイル。きっと教科書は学校に置いてきたのだろう。
そんな中でテスト結果と思しき数枚の紙をファイルから取り出して順に開いていく。
「えっと……国語43点に化学48点、数学62点…………数学凄いじゃんっ!」
「62点!! 平均点が60点でしたのに! 遥さんっ!頑張りましたね!」
あれだけわからないわからない嘆いていた数学が、今となっては62点という平均をも超えた数字に目を丸くする。
しかし深浦さんからも称賛が送られるが反応はない。
問題はまた別にあるのか……。俺は続いて残りの2枚の紙を取り出していく。
「歴史が38点で英語が…………32点」
「えっ…………」
深浦さんの息を呑む音と、遥の胸に埋まる力が一層強くなる。
彼女らの学校の赤点ラインは35点。そして赤点を割ってしまったら退学。
その右上に書かれた数字は、ただただ無情に現実を突きつけているのであった――――。