088.雰囲気の怖さ
「うぅぅ………ママったら酷いよぉ……」
シクシクシク…………。
叫んだ後の遥は、まさしくそんな様子だった。
体育座りのように膝を抱え、表情は伺えないもののショックを受けているのは見て取れる。
俺も、かなり驚いた。
確かに実家である以上彼女が居ることは予測していたが、まさか真っ先に、そして事前通告無く部屋に行くだなんて。
何の意図があってこうしたんだろうと思いつつ遥母に目をやると、彼女は表情を崩さないまま遥の前へと足を運ぶ。
「遥、何度も言っているように片付ける習慣を付けなさい。 そうでなくともこの部屋は物が多いんだから」
「そうだけどさぁ………いきなりってことは無いじゃん……」
確かに。人形やら机に転がっている勉強道具とか、ここは道中見た厳かな空間とは打って変わって普通の女の子の部屋だった。
普通……か。まぁ、普段から片付けてる優佳と比べるとアレだが、優佳以外の女の子の部屋なんて知らないものの、きっと普通だろう。
「いきなりだから意味があるんです。それに考えても御覧なさい。いざあなたがこの家を出て大牧さんと暮らすような日がくれば、片付けてくれる子のほうが好まれるでしょう?」
「それは……その……うん」
あぁ、遥母の意図が理解できた。
真っ先にこの部屋に案内したのって遥の教育のためだったか。
きっと再三片付けるように言われてて、でも身につかなかったから強硬手段に出たとかそんな感じだろう。
でも否定が無いってことは、2人の会話の中で俺のとこに遥が来るっていうのは共通認識なんだね……。
その信頼は嬉しいんだけどさ……隣の優佳の眉がピクリと動いたのがちょっと怖い。
「でもでもっ! 習慣はわかったけどアタシの部屋に突然来るのは無いよぉ! 着替えてたらどうするの!?」
「あなたが家から出ない時は一切着替えないことくらいわかってます。現に今だって着替えてないでしょう?それに、見られたところでそのまま押し倒せばいい話では?」
「うぅ………」
ちょっとまって!押し倒すって何言ってるの母親!!遥も反論してっ!!
しかし遥はそれ以上の言葉が見つからなくなったのか、唸り声を出すだけに留めて上げた顔が段々と下がっていってしまう。
「ふぅ……。この子は強硬手段じゃないと身につかないのですから。 さて大牧さん、後はお願いします」
「えっ!? ここでですか!?」
彼女からの突然のキラーパスに、思わずたじろいでしまう。
なんでここまで滅多打ちにしたあとで!?フォローしてくれないの!?
「大丈夫です。この子は芯が強い子なので。 大牧さんの言葉が一番励みになります」
「それは……母であるあなたよりもですか……?」
「もちろんです。それに、そうでないとあなた達の距離が縮まらないじゃないですか。 せっかく水着で押し倒す計画も立てたのに、あの子ったらふいにしちゃって」
「っ――――!!」
その瞬間、俺は彼女の真意にようやく気づくことができた。
さっき理解した、遥の教育のためにここに来たというのは間違いだったのだろう。
確かにその側面は無くもないが、あくまで副次的なもの。その本質は、遥と俺を引き合わせようという計画だ。
きっと、先日のプールから色々と考えを巡らせていたのだろう。
突然更衣室にやってきたのにも驚いたが、ようやく点と点が線で繋がった。
しかし遥が様子がおかしかったから、計画が頓挫したのかもしれない。
…………さすがは遥の母親。妹モードの時といい、その考えを予想するのは困難だ。
「それでは大牧さん、私は少しの間離れますから、よろしくおねがいします」
「ちょっ……!」
「そっと抱きしめてあげたら大丈夫です。 襖を閉めている間はお邪魔しませんので、そのまま3人で『ご休憩』してくださっても構いませんよ?」
「しませんってっ!!」
思わず荒らげてしまう声を流すように、彼女は襖を閉めてこの部屋には3人だけが残される。
抱きしめるって言ったって……。
俺は助けを求めるように腕を組んで様子を伺っている優佳に目を向けると、彼女はちらりとこちらを見るだけに留めて首を横に振られた。
「あたしは何もしないわよ。アンタの役割なんだからなんとかなさい」
「そんな事言ったって……」
「言われたとおり抱きしめたらいいのよ。 でもキスとかそれ以上しようとしたら全力で止めるから」
「そりゃもちろん、しないけどさぁ」
戸惑いつつもその言葉に押されて遥の目の前に立つ。
彼女は膝を抱えて座っており、顔を伏せているせいで感情がうまく読み取れない。
「遥」
「……マスタぁ。 ごめんね?こんなだらしない子で」
「別にそんな事…………。 まぁ、ダラダラするなんて実家じゃ当たり前のことだし、気にしてないよ」
そうだ。別に否定することでもないんだ。
俺だって普段は1人きりだから当然、諸々のことは自身でやっている。
しかし実家に帰ったらソファーに寝転がってご飯やら全部やってもらっている。彼女と何ら変わりないじゃないか。
「でもアタシ、こんなカッコだし……朝起きてから一度も着替えてないし……」
「外に出るわけでもないし、そんなものでしょ。 でもその格好も似合ってるね」
彼女の格好は夏らしく、上下ともグレーのTシャツとショートパンツの組み合わせだ。
寝間着と言われても違和感ないが、別に家だし悪い事のようにも思えない。
俺が彼女に向かって微笑みかけると、その顔が段々上がってきて俺と視線を交差させる。
「ホントにホント……? ますたぁ、こんなアタシでも見捨てないでいてくれる?」
「見捨てるなんて全然。俺も似たようなものだし、それに遥の新しい側面が見れたのは嬉しいことだよ」
今回は不意だったとはいえ、見ることができたのは信頼があってこそだろう。
いつもの元気な彼女が、家ではダラダラとするのはなかなか新鮮で可愛らしい。
そんな思いに駆られていると、ふと伸ばされるのは彼女の手。
気づけば俺の両脇に伸びるよう、遥は腕を伸ばしているようだった。
「遥?」
「んっ。 ギュってして?」
「へっ?」
ギュってって……抱きしめてってことか?
よく見ればその瞳には、寂しさとともに熱も籠もっている。
「ママも言ってたけど……アタシはマスターにギュッとされたらなんでも許しちゃうから……だから、ねっ?」
「…………はいはい」
俺はその要望を応えるよう、華奢な背中に手を回してゆっくりその身体を引き寄せる。
「んっ…………。 えへへ……ありがと……」
緊張からか一瞬だけ身体を震わせたものの、遥は俺に身を委ねてくれた。
優しく、包み込むようなハグ。肩から顔を出し、すぐ近くに見える髪から香る柑橘系のいい香り。
そして胸元で折りたたんでいた腕が、次第に背中に回ってきて彼女も同様に俺をそっと抱きしめた。
「どう? 元気出た?」
「うん。すっごく元気出た。 えへへぇ……マスタぁ、大好きぃ」
すぐそばでそんな甘美な声が俺に耳をくすぐる。
ゾクゾクっとした感覚に思わず俺も身体を震わせると俺たちはどちらからともなく互いに距離を取り、互いの顔を視界に収める。
「マスタぁ……」
「遥……」
雰囲気とは怖いものだ。
その気がなくても流されると普段からはありえない行動を取ってしまう。
もしかしたら深層心理では望んでいたのかもしれないが、真実なんてわからない。
潤んだ瞳に高潮した頬。甘えるような、それでいて甘えさせてくれるような、柔和な笑み。
まっすぐこちらを向いた彼女は、何を言うわけでもなく瞳を閉じる。そしてそのまま、手を回してままこちらに、ゆっくりと距離を縮めていく。
きっと、俺も度重なる感情の変化に呑まれたしまったのだろう。そしてこころなしか突き出した唇に自らの唇を近づけて――――
「はい、そこまで」
「わっ……!」
「キャッ……!」
至って冷静な、その言葉で俺たちは目を覚ました。
俺と彼女の唇が接触する寸前止めたのは、今まで黙ってみていた優佳。
彼女は少し不機嫌な気配を醸し出しながら俺たちを止めた後、閉じられた襖に向かって歩いていく。
「ぁー…………すまん優佳。ちょっと流されかけた」
「別に。アンタがそうなるくらい予測済みだったわ。 でも遥ちゃん、今回は少しだけ見逃したけど、そう簡単に総は渡さないわよ?」
「へっ…………? あっ……!アタシだって! マスターは渡しませんからっ!!」
遥が呆気にとられたのも一瞬だけ。すぐに応戦する遥。
やめてよね。遥のそんな寂しそうな顔。変な気を起こしそうになるじゃないか。
「さて、それじゃあ遥ちゃんも落ち着いたところで、本来の目的と参りましょうか」
「えっ? 優佳、何か知ってるの?」
なにか訳知り顔で話を進める彼女に思わず問いかける。
本来の……目的?
「いいえ? でもここに来る時、最初って言ってたじゃない。つまり次があるってことよ。…………ねぇ、そうでしょう?」
そう言って優佳が手にかけた襖を開けると、遥母が廊下に正座して待ち構えていた。
きっと、ずっと様子を伺っていたのだろう。彼女は表情を崩さず、ゆっくりと頷く。
「はい。大牧さんには新たにお会いしてほしい方がいらっしゃいます」
「それは、どんな人ですか?」
改まった口調で告げる彼女に、俺も自然と姿勢を正す。
そして、一泊呼吸を置いて開いた口からは当然の――しかし、当たってほしくない人物であった。
「大牧さんに会っていただきたいのは私の夫……。同時に遥の父親である、本永 善造でございます」




