085.何十年後か
「ハァ…………」
店のカウンターで俺は、大きく後悔するようなため息をつく。
1つため息をつけば思い出される朝の光景。
朝目の前で微笑まれる奈々未ちゃんの可愛らしい笑顔が呼び起こされる。
「なんであんなに油断してたんだろ…………」
そうつぶやくも、結局理由なんてわかりきってる。
あのシチュエーションだ。
昨夜奈々未ちゃんを寝かせて俺はベッドで夢の世界に旅立ち、あんなことがあって顔を洗って帰ってきたら、テーブルの上には美味しそうな朝食が並んでいた。
ご飯に味噌汁、卵焼きなどのスタンダードな和食。
朝起きたら朝食が出来上がっているという、その光景には一人暮らしながらグッときたものだ。
もちろん味は文句のつけようがなく、美味しかった。けれどだからだろう。あんな夢を見てしまったのは。
漂ってくる味噌の香りに、奈々未ちゃんによって撫でられる頭。
それはあの事故が起こる以前の、かつて見た光景だった。その時の情景を掘り起こされつい昔に戻ってしまったのはわかる。
けれど奈々未ちゃんの前で戻ってしまうなんて…………年上の威厳丸つぶれだ。
確かに彼女にとっては問題視していないようだったが、俺としては後悔するに値するもの。
もはや朝食を食べて彼女が家に帰るまで、その目を直視できないほどだった。
「ハァ…………」
「な~にずっとうなだれてんのよ」
散々朝のことを思い出してため息を積み重ねていると、呆れたように正面から声がかかる。
誰か来ていたなんて気づかなかった……。
ゆっくりと顔を上げて見えるのは、我が姉である優佳。彼女はロングスカートにダボッとしたシャツをインし、帽子を軽くかぶるという、少なくとも以前来たような仕事着ではなく、完全に私服だ。
少なくとも家では見たことがない。きっと最近買ったのだろう。
「……いつの間に来た?」
「アンタがう~う~唸ってた時からよ。何?変なクレーマーでも来た?」
なるほどさっき。
そのまま目の前のカウンター席に腰を下ろしてメニューを広げるのを見るに、今日は客として来たようだ
クレーマーは幸いにも、この店に来たこと無いんだけどね……。
「……今朝、昔の夢を……母親が生きてる時の夢を見てさ」
「――そう。小学生の頃の……」
彼女の視線はメニューから外れはしないが、ふっと返答をする声が柔らかくなった気がした。
優佳も、母親のことが大好きだったからな……。
「朝ごはんを作ってくれてる夢だったんだけど、目が覚めたら朝ごはん作ってくれてた奈々未ちゃんが目の前にいてさ。母親の代わりに」
「そう……あの人の代わりに”ナナ”が…………って、ん?」
「それで完全に夢に入り込んでたものだったから、寝ぼけながら奈々未ちゃんに向かって『ママ』って言っちゃって…………もう泣きたい」
「ちょ、ちょっとまって! なんで”ナナ”が総のご飯を作ってるのよ!?ていうか朝!?いつから居たの!?」
何やら彼女に思うところがあったのか、落としていた視線を急に上げて声を上げた。
まさにマシンガンと言えるような怒涛の問いかけ。俺はそんな彼女をなだめつつ、「あ~」だの「え~」だの言って言葉を探す。
「まぁ、色々あってさ……。あれから奈々未ちゃんがウチに一泊したというかなんというか……」
「一泊!? あたしたちが帰った後に!?」
「も、もちろん何もなかったよ!! 俺はソファーで寝てたし、ご飯食べてすぐ帰ったからっ!!」
そう。彼女はご飯を食べてすぐ急遽仕事が入ったとのことで早々に家に帰っていってしまった。
夜も早くに寝たし、文字通りなにもない。
「……。 アンタが言うならそうなんでしょうけど……本当になにもないんでしょうね?」
その説明に納得いかないのを視線で答えるように、彼女は鋭い目つきで俺を射抜く。
本当になにもない。もはや俺に残された行動は首を縦に振るのみだ。
ブンブンと大ぶりで彼女の問いかけに肯定していると、一応は信じてくれたのか徐々に落ち着きを取り戻しつつゆっくりと座り直してくれた。
しかし疑うような視線はそのままで。
「あのあとすぐ、か。 あの子に風邪移しちゃってても知らないわよ?」
「それは……うん。 後で謝っとく」
「あと、刺されても知らないわよ?」
「…………うん」
最初はお見舞いというテイだったが、俺がすっかり治ったお陰で風邪を引いていたことを忘れていた。
もしかして優佳は昨日の今日だから、心配して来てくれたのだろうか。
「でもま、アンタの風邪が治ったようで何よりだわ。 ……で、伶実ちゃんは?」
「あぁ、伶実ちゃんは……というかシンジョのみんなは来ないよ。最終日だから準備もあるし」
サッと話を変える彼女に、俺も心を切り替えて返答する。
そのことに関しては、今朝早い時間に連絡があった。明日から始まる2学期の授業。その準備に向けてバイトも、ここに立ち寄るのも今日はおやすみだ。
俺としては来なくて寂しいものだが、優佳がお金を落としに来てくれたから問題はない。
「ふぅん。 ま、いいわ。とりあえずこのホットドッグ頂戴」
「ん。 飲み物は?」
「紅茶があるなら頼むわ。コーヒーは却下ね」
「……水ね。了解」
とりあえず注文を受けたからにはこれまでの後悔は脇に置いて仕事をしなければならない。
俺は手早く準備に取り掛かる。紅茶は……残念ながらウチにはない。アレ、出そうとも思ったけどコーヒーと同じく奥深くて断念したのよね。
パンをトーストに掛け、千切りにしたキャベツやウインナーを焼いていき、挟んでいく。
ウチのメニューの中でもサッとできるものだ。手早く工程を踏みながらホットドッグを作っていると、目の前の彼女からホゥと感嘆の声が上がる。
「随分料理がうまくなったのね。見違えたわ」
「……いつの頃の話をしてるの。しかもホットドッグくらい、焼いて挟むだけじゃん」
これくらいなら、中学に上がった俺でも簡単にできる。
見違えるって、さっき夢の話をしたからその頃に引っ張られてない?
「いやね、小学の頃を思い出したのはもちろんだけれど、昨日のお粥、伶実ちゃんと一緒に作ったのよ」
「あぁ……、アレか。美味しかったよ」
あのお粥は美味しかった。
伶実ちゃんの手料理なんて初めて食べたからその補正が掛かっているのかもしれないが、それでも美味しいものは美味しい。
きっとレシピ通りに作ったのだろうが、優しさが籠もっている気がした。俺を心配する、純粋な思い。だから昨日の風邪もすぐ治ったのかもしれないな。
「ありがと。 それでだけどね、あの子……メニューを完全遵守するタイプみたい。書かれてないアドリブに弱かったのを思い出したらつい、ね」
そういえばあの子、料理は苦手って自己申告してたなぁ。
だからこそお粥作ると言ったときには驚いたものだが、そういう理屈だったか。
でも、メニューを遵守するということは決して料理ができないわけではないということ。やはり才能自体は眠っているのだろう。
「それならお菓子作りはできそうだね。今度教えてみようかな」
「そうね。アレは正確にやることが大切だから…………ってアンタ、言うようになったわね」
「?」
ホットドッグも完成間近ということでお皿に盛り付けていると、ふとそんな声がニヤニヤとした笑みをしながら聞こえてきた。
何のことかと不思議に思うと、彼女は補足するように言葉を重ねてくる。
「総に料理教えたのはあたしだっていうのに、もう店まで構えて人に教えるなんてねぇ……」
「それも随分昔だな……。 はい、ホットドッグおまちど」
「ありがと」
そういえばそうだった。
俺が料理をするようになったのは……教えてもらったのは優佳からだったな。
最初は油をひくのもおっかなびっくりで優佳に泣きついていたけど、今では店を構えるくらいまで。自分のことながら成長したんだなと実感する。
「……ん? じゃあ、優佳にとって伶実ちゃんは孫弟子?」
「いやよ。この歳でおばあちゃんだなんて」
「ははっ!そりゃそうだ!」
ふと思いついた問いかけに、フンっ!と鼻を鳴らす優佳。
決して孫弟子だからと言って、おじいちゃんおばあちゃんになるわけではないくらい、わかっている。
けれどそう抗議したくなる気持ちもよくわかる。4つ下が孫だなんて優佳も複雑だろう。
「…………でも、それも悪くないかもしれないわね?」
「えっ?」
ふと、彼女はホットドックを口に入れようと手に持ったはいいが、そう呟いて一度お皿に戻す。
悪くない?おばあちゃんが?
「あんたと一緒なら……一緒におじいちゃん、おばあちゃんになるのなら、あたしはおばあちゃんになってもいいって思ったのよ」
「優佳…………」
「だから総。アンタはもう私のもとから離れないでよね。 勝手に店を出ていって……家から居なくなって……寂しかったんだから」
「…………あぁ」
俺は彼女と視線を合わせず、窓から外を見ながらそう小さく返事をする。
きっと彼女にとっては俺が突然出ていったように見えたのだろう。そのいつもより小さく感じる優佳を、俺は二度と悲しませないと今一度誓うのであった。




