076.優しい枕
「ふあ……あ…………ぁ…………」
大きな口を開けだらしなく、周りの事を気にすることもない俺は、大きな大きなアクビを思い切りしながらテーブルへ倒れ込む。
背後から忍び寄るように、気配も無く襲われるその眠気は俺の意識を刈り取ろうと一歩、また一歩と。その大きな鎌を喉元に突きつけながら近づいてくる。
眠気……睡眠といえば人間の三大欲求の1つだ。
どれも人間が営むにあたって欠かせない、食欲・性欲に続く第三の欲求。
当然俺もロボットではないから欲求はどれも備わっている。しかしどれが最も強いかと言われてみれば、睡眠と答えるだろう。
あくまで今現在の、ボーッとしながら働かない脳内で考える割合。きっと0.5対0.5対9で、睡眠欲が最も強いはずだ。
つまり、何がいいたいのかというと…………非常に眠い。
俺は眠気がマックスのなか、人目を気にすること無く出たアクビをもう一度出そうと、またもあんぐりと口を広げて息を吐き、そのままテーブルへ突っ伏そうとしたところで――――
「マスター、起きてください。 マスター」
…………こうして眠ることは叶わずに起こされる。
いっそ無視して眠り込んでもいいのだが、何をされるかがわからない。俺は重い頭を持ち上げ目をこすりながら正面の声がした方へ視線を送ると、苦笑いを浮かべている制服姿の伶実ちゃんと目が合った。
「おはよう……伶実ちゃん」
「はい、おはようございます」
「…………そしておやすみなさい」
朝……ではないが寝起きの挨拶をすると、彼女は笑顔でそれに応えてくれる。
そしてやっぱりムリだと悟った俺はまたも机に身体を預けながらおやすみの言葉をすると、目を閉じる間際彼女の驚いた顔が。
「もうっ! 寝ないでくださいよぉ!」
「今日はムリ……。体力の……限界……」
「せめて眠るならお店閉じてからにしてください! ほら、起きて!!」
ぐわんぐわん揺れる身体に無理矢理身体を起こされながら目を上げると、彼女の頬が膨れた顔が目に入る。
あぁ……伶実ちゃんは可愛いし、何より元気だなぁ。昨日の今日なのに…………。
「もうね、年取るとちょっとの運動で翌日に響くんだよ……。ほら、足とか腕とかに」
「マスターってばずっとジャグジーに居たじゃないですか。打たれ過ぎなだけですよ」
うっ……!鋭い。
これ以上はムリだと観念して身体を起こすと、満足したかのようにウンウンとうなずいてくる。
あれから――――みんなでプールに行ってから24時間ほどの時が経過した。
スライダーで滑った後、貸し切りの制限時間が迫ってきたいうことで早々に退散してからの今日。
リフレッシュできたことだし、一層頑張って日々の喫茶店業に勤しむかと朝起きたところ、その異変に気がついた。
身体を捻ってベッドから降りた瞬間脳に届く、ビキビキと鳴るような腕や脚の痛み。
全く予想していなかった痛みに顔を歪めた俺は、1度は立ち上がることもできずに再びベッドに倒れ込んだりもした。
そう…………筋肉痛だ。
朝起きて痛む身体に悲鳴を上げながら鞭打ち迎えた開店の時間。
いつものように伶実ちゃんがやってきて昨日の疲れなんか無いというようにテキパキと作業をこなす傍ら、俺はずっとカウンターに座りながらその痛みと格闘していた。
聞くところに寄ると、どうも遥も灯も今日は筋肉痛でダウンらしい。奈々未ちゃんと優佳は問題なかったが仕事。
2人が来ないということは今日の店は誰も来ることのない。当然のごとく他にお客さんなんて来ることもなく、俺達はいつものように2人きりで気づけば昼下がりになっていた。
心地よい冷房の風、そして静かな空間。
そんな中襲われるのはもちろん、睡魔という名の死神だ。
客の来ない今、ほとんどの仕事を彼女に任せてしまった俺は、ウトウトと夢への船に乗ったり降りたりを何度も繰り返して、今に至る。
…………もう、俺が居なくても伶実ちゃんがいれば店も回るんじゃないかな。今度料理もお願いしてみようかしら。
「伶実ちゃんは平気なの? 眠気とか筋肉痛とか」
「私は特に……。 筋肉痛は体育で慣れてますし、眠気だって毎日の授業で戦ってますので」
いつの間にか掃除をしてくれていたのだろう。
そういって平気なように手にしていた雑巾を片付けた彼女は、やることを終えたようでカウンターを挟んだ正面に立つ。
凄いなぁ……。みんなダウンしてるのに。伶実ちゃんはいいお母さんになるよきっと。
「でも、そうだなぁ……。誰も居ないし業者の予定もない……ホントに閉めちゃおうかなぁ…………」
誰かお客さんがいれば身体に鞭打って働いてもいたが、いないとなるとそんな気力すら沸かなくなってしまう。
料理でミスしてしまってもマズイし、伶実ちゃんには悪いが早く閉めてしまおうかな。
「では、立て札を変えて来ましょうか?」
「うん……。 おねがい……」
よし決めた。今日はもう店を閉めてしまおう。
残念ながら俺が動ける状態じゃない。今日のところは臨時休業だ。
伶実ちゃんも立て札をOPENからCLOSEに変えたら早上がりだ。
一応クロージングの手順は教えてある。
俺がお願いすると、以前教えたとおりに立て札を変え、カーテンを閉めるなどテキパキと動きだしてくれた。
「クロージング作業、終わりました。…………大丈夫ですか?」
「だい……じょうぶ! ……タブン」
重い体を動かして立ち上がり、背筋を伸ばしてみせると色々なところに痛みが走る。
ヤバいなぁ、全然動いてて来なかったツケが今来たか。でも、2日後とかに痛みが来るとかよりかはマシだろう。
「…………マスター、歩けますか? 少しこちらに来てほしいのですが」
「それくらいならなんとか……。 そっちでいいの?」
「はい。こっちです」
痛む身体を押して誘導されるがままに歩みを進めると、たどり着いた先は店の片隅、ソファーのある席だった。
最近では奈々未ちゃんのおじいさんらお気に入りの席となっている大きなソファ。
伶実ちゃんはソファーの隅っこに腰を下ろし、身体を傾けながら真ん中辺りをポンポンと優しく叩く。
「マスター、ここに座ってもらえませんか?」
「ここ…………?」
「あ、もうちょっと右でお願いします」
そう誘導されながら座ったのは、伶実ちゃんと1人分くらいスペースを開けたソファーの真ん中。
なんだろうこの微妙な隙間。さっき座る時も微調整を求められたし、「これが私とあなたの心の距離です」とかそんな事を言うのだろうか。
「ありがとうございます。 では、どうぞ」
「…………?」
何かを促されたものの、何のことかさっぱりわからず首をかしげる。
一方で彼女は膝の上で手を上下に動かしている。…………なんだろう、わからん。
「……どゆこと?」
「マスターは体調が優れないようなので、ゆっくりしてもらおうと思いまして」
「はぁ……」
そう言ってもう一度手を上下に……いや、膝を叩いてるのか?
「なので、膝枕です。 マスター、ゆっくりお休みになってください」
「膝……枕?」
「はい。膝枕です。 時間になったら起こしますので、眠っても構いませんよ?」
そう言ってポンポンと叩く、自らの脚。
彼女はなんと、俺に休んでもらおうと膝枕を提案しているようだ。
1人分空けたのは俺が横になるため。そして視線の先には彼女の優しげな笑みがある。
――――もちろん普段なら、それはムリだと抵抗するだろう。
もしも意味がないとしても、何らかのアクションを起こしたはずだ。
しかし今日は自身でも驚くほど違っていた。
眠気と疲れでいっぱいの身体は休息を求めるように脳の余計な思考を許すことはなく、言われるがままに身体を倒して横向きになりながら柔らかな膝の上に頭を乗せる。
「どうですか? マスター」
「うん……きもちい……」
「ふふっ。それは、よかったです」
柔らかな太ももに加え、漂ってくる心地の良い香り。そして気づけば頭を撫でられる感触が。
全ては俺を休ませるため。もはや限界に近かった俺は抵抗する気も起きず、そのまま動くこと無く目をゆっくり閉じていく。
「それではマスター。 …………おやすみなさい」
優しげな声とともに意識は闇へ……闇へと沈んでいく。
どっぷりと闇に落ちきる直前、頬に何かが触れたような気がした――――。




