075.浮き輪の攻防
「さっ、次は私の番ですねっ!」
スライダーの出口で遥に抱きつかれてから数分後。
柔らかいのと恥ずかしいので色々危なかった俺を助け出してくれたのは、声を聞きつけてやってきた伶実ちゃんだった。
彼女は次は自分の番だからと言ってプールから上がるのを手伝ってくれ、そのまま一緒に階段を登りきった。
一応少し心配だったが、高所恐怖症では無いらしい。階段の頂上で高い景色を見渡した彼女は怖がる気配を見せず俺に滑ろうと促してくる。
そして一緒に滑って何事も無く終わる。そのハズだったが…………。
「ねぇ、伶実ちゃん」
「なんでしょう?」
「これはちょっと……違くない?」
伶実ちゃんは高所恐怖症でもなく何かを抱えて暗い表情もしていない。
それはいいのだが、問題はその滑る体勢にあった。
浮き輪を手にしていた彼女はそれを隅に置き、何故か滑る体勢になっている俺の股に入り込むようにして一緒に滑ろうとしていた。
まさしく俺が後ろから抱きしめる格好。その手は行く宛もなく彼女のお腹の前で軽く握り、胸元には背中が押し付けられるように密着している。
その顔を少し前に移動すれば彼女の頭へあごが乗せられるくらい近くにあり、濡れているのにも関わらずいい香りが脳を刺激する。
更にチラリと視線を下げれば、真上から彼女の身体が眺められてしまう。
遥ほど大きくはないが小さくもない、優佳と同じくらいのサイズのそれは理想的な体型、バランスをしていた。
おそらく、黄金比とやらに近いだろう。そんな身体を密着させる伶実ちゃんは見上げるように首を傾け、そのクリクリっとした目が俺を捉える。
「そうですか? 私はこれ以上無い体勢だと思うのですが……」
「これは普通に危ないから……」
冷静に指摘する俺と、とぼけるように声を上げる伶実ちゃん。
なんだか彼女もいつもと違う……少しテンションの高い感じだ。いつも一歩引いて見守ってくれる彼女がこうも積極的なことで戸惑ってしまう。
「私は別にマスターになら、骨折でも打撲でも……どんな傷を負っても構いませんよ?」
「っ――――」
淀みない目からまっすぐ突きつけられるそれは、信頼。
きっと本気でそう思ってくれているのだろう。俺になら何をされてもいい――――暗にそう言ってくれているようだった。
「ね、マスター。 これで滑りましょう?なんでしたらこっちがいいですか?」
「いやっ……!それは……!!」
これでは俺の要望に叶わなかったというように、体勢を変えた彼女が取ったのは、俺と向き合う形だった。
太ももの上に腰を下ろし、まっすぐ俺と目を合わせるような体勢で抱きしめ合う格好。
更に最後の締めと言わんばかりにバッと俺に手を向けて引き寄せるように促してくる。
「これなら、何があってもマスターが守ってくれますよね?」
「逆に伶実ちゃんを盾にしちゃいそうで怖いんだけど……」
「私はそれでも構いませんよ? マスターを守れるのでしたら本望ですっ!」
まだかまだかとウキウキの様子を隠すこと無く抱きつこうとする伶実ちゃんと、肩を掴んで抑える俺。
テンションが上がってるにしては随分と積極的だな。そう未だに戸惑っていると、今度はにこやかにしていた表情に段々と怒りが混じってくる。
「むぅ……。マスター!そのままギュッとしてくださいよぉ!」
「いやだって、怪我させたくないし」
信頼してくれるのは嬉しいが、怪我なんてさせたら親御さんに申し訳が立たない。ここは大人として安易に流されずマズイことにはマズイと言わないと。
…………もう随分流され切ってるのは知らない。
「怪我……怪我…………ですね」
「……? 伶実ちゃん?」
さてどう切り抜けようかと嬉し恥ずかしの中考えていると、彼女はそっと向けていた手を胸元に添え、真っ直ぐだった視線が下る。
突然どうしたのだろう……。落ち込んで……いるのか?
「マスター……私がどうして貴方になら傷を負ってもいいって思うか、わかります?」
「え? いや……」
俺が好きだから……なんて選択肢もあったが、それを言うことはできなかった。
さすがに自意識過剰でそんな空気の読めないことは選べない。
「以前私達に聞かせてくれた昔話……マスターの心の傷をちょっとでも、1%でもわかりたいと思うからです……」
「心の傷って……俺はそう思ってもないよ?」
確かに以前は傷になったが、時の流れがすっかり癒やしてくれた。
時々思い出すことはあったものの、伶実ちゃんと出会って色々と慌ただしくなってからは、それももう少ない。
「マスターはそうかもしれませんが私は…………」
「伶実ちゃんは?」
「…………。いえ、なんでもありません」
「?」
一瞬――――。
一瞬だけ、彼女は顔を上げて何かすがるような表情を見せた気がした。
けれどそれも気のせいだったかのようにもとに戻り、いつもの微笑みを俺に向ける。
「マスター、改めて。あの日は無理言って話してくれて、ありがとうございました」
「無理どころか。むしろ聞けなかったけど、大丈夫だったの?突然帰って」
結局あの後聞けず終いだったものの、突然帰ったことは心配していた。
後ほど遥から問題ないと連絡は来たが、それでも顔も合わせず去っていったことは気になっていた。
「いえ……はい。 心配するようなことはなにも。 むしろ嬉しくて、その顔が相応しくなくて見せられなかったのです」
「嬉しい?」
「あ、いえっ! マスターの不幸を喜ぶようなことでは決して……!」
「それは大丈夫。 伶実ちゃんはそういう子じゃないから」
心優しい伶実ちゃんだ。
人の不幸を楽しむようなことは絶対にしないだろう。
むしろ遥も含め、純粋すぎて心配になるレベル。
彼女はその言葉に「ありがとうございます」と呟き、下げていた視線で見つけた俺の手をそっと握りしめる。
「……信頼してくれたことが……マスターの大切な過去を共有できて、嬉しかったんです」
「伶実ちゃん……」
「それに、覚えていてくれたことが――――」
「……覚える?」
「――――いえ。 なんでも……ありません」
そりゃあ、あんなショッキングな出来事、忘れることもないと思うが。
けれど彼女は優しげに首を横に振り、再度まっすぐ俺を見つめて手を前に出す。
「なのでっ!今日だけはテンションの高い私として、一緒に滑りましょっ! ねっ!」
「嫌だからそれは危ないって!!」
「怪我してもいいんですからぁ~! マスタぁ~!」
遥みたいな唐突のテンションの上下に驚きつつも、またも振り出しに戻った話題に俺は必死で抵抗する。
結局――――。
その攻防は下からかかる「そろそろプール終了なのにまだ降りてこないのか」という催促の声で話は転換し、従来どおり浮き輪をつかうという俺の勝利で幕を閉じるのであった。




