068.宿題のおわり
「やぁっ…………たぁ~~~!!!」
お盆も終えて長期休暇ももう終わりに近いとある夏の日。
社会人に……特に飲食業にとっては夏休みなんて都市伝説でしかないものを羨ましく思いながら、いつものようにカウンターで喫茶店業に勤しんでいると、客席の一角でやり遂げたような声が聞こえてくる。
突然の声にチラリとそちらに目を配ってみると、手を大きく広げてうんと伸びをしつつ、その後バタンとテーブルに倒れ込む遥の姿があった。
「やぁっと宿題おわったよ~!! うぅ…………長かった~~!!!」
また何か彼女が妙な事を思いつきでもしたのかと思ったが、どうやら夏休みの宿題が終わったようだ。
倒れ込む遥に、相席で勉強をしていた伶実ちゃんと灯の2人もねぎらいの言葉をおくっている。
「お疲れ様でした。思ったよりも本当に……随分と早かったですね」
「だってレミミンもあかニャンも、とっくに終わったって言うんだもん~! アタシだってちょっとは追いつかなきゃって~!」
夏休みが始まった当初は相当多いと思われた量。
あの量を余裕を持って終わらせた遥はすごいが、伶実ちゃんと灯はそれより1~2週間も早くに終わらせていた。
遥も最近勉強を頑張っているのだが、こういうところで地力が出てくるのだろう。それでも2人は遥を応援するかのように、なおかつ邪魔しないよう2学期の勉強に移行するのは友達思いだと実感させられる。
「でもっ!これで大手を振って遊べるねっ!! ママにも胸を張って遊びに行けるって言えるもんっ!!」
そう言って物理的に胸を張る遥。と、同時に強調される大きなそれ。
一瞬だけ同席している2人が肩を震わせたが本人に気づかれることなく一瞬だけ張り詰めた空気が、目撃した俺にだけ寒気が伝わってくる。
「…………ねぇ、マスターさん」
「うん?」
一瞬ではあるものの思わぬプレッシャーに視線を逸らして自らの作業に意識を向けると、ふと正面から声をかけられていることに気づいた。
それは真っ白な肌に真っ白な髪、そして蒼色の瞳を惜しげもなく晒している少女、奈々未ちゃんだ。
彼女はお盆以降、仕事の合間を見つけてはこうやって頻繁に店に来てくれるようになった。
建物に入るまではいつもの肌と正体を守るコートなどを着用しているが、ひとたび脱げば今大人気のアイドル、”ナナ”に早変わり。
けれど彼女は奈々未としてアイドルとはまた違う顔を、かなりリラックスした表情を、コーヒーを飲みながら見せてくれる。
「何を食べたら……どうやったら遥みたいに胸おっきくなれるかな?」
「………………」
彼女の定位置は、俺の目の前。
カウンター席のど真ん中。だからこそこうやって向かい合って話すこともあるのだが、今日のそれは随分と話しにくい内容だった。
何をどう答えていいかもわからず黙って難を逃れようとするも、彼女の蒼い目がジッとこちらを見つめて来ていて逃してくれる気配がない。
「…………マスターにはさすがにわからないよね、男の子だし」
「う……うん。 ごめんね?」
「だから別の話題を。 マスターは胸のおっきい女の子……好き?」
別の話題って変わってなくない!?
せっかく助かったと思ったのに!もっと返事しにくくなったじゃないか!!
「ねね、マスター、どうなの?」
「えっ……えっとね…………それは…………」
これはなんと答えるのが正解なんだ……。
俺はチラリと彼女の顔から視線を下げ、それを見る。
無くはないものの、遥には遠く及ばず伶実ちゃんにも届かない。灯と同じかそれよりも……ってところだろう。
俺が答えを決めかねていると、彼女はズイッと身体を乗り出して俺との距離を詰めてくる。
「ちなみにね、マスター」
そう言って口元に手を当て、こちらに小さく手招きする奈々未ちゃん。
それは……耳を貸してということだろうか。俺は顔を近づけて耳を寄せる。
「大きさには自信ないけど……触らないとわからないなら、マスターなら……いいよ?」
「っ――――!!」
突然耳元に届く甘美なささやき声に、思わず俺は顔を真っ赤にして後退りする。
何人もの人を魅了する歌声を届ける”ナナ”の口から発せられる、あまりにも艶やかな声。
思わずその耳に手を触れながら彼女を見ると、その顔は口元に手を当てながらフフッと小さく微笑んだ。
「私は待ってるから、その気になったら声かけてね?」
「…………」
結局――――
俺は彼女の告白への返事はしていない。
奈々未ちゃんも、伶実ちゃんも、遥や灯だって。
あまりにも同時期に、そして4人という大勢からの言葉に、彼女らが返事を受け取るのを断ったのだ。
まだマスターには時間が足りていない。もっと自分たちの事を知ってもらってから、その上で答えを出してほしいと。
正直年上としての面目が立たないが、それはかなり助かる言葉だった。
それから彼女たちはいつもと変わらずこうして店に遊びに来てくれている。たまに攻めてくるのは心臓に悪いが…………。
「ねぇねぇ!マスターにナミルンはどう思う!?」
「……えっ?」
「うん?」
さっき火照った顔をなんとか鎮めていると、突然こちらに駆け寄リながら聞いてくる遥の姿が目に入る。
どう思うって……何話してた?
「遥……ごめん。 聞いてなかった……」
「そお?席離れてるもんねっ! それでね、さっき3人で話してたんだけど、みんなでプール行かない!?」
「プール……?」
プールっていうとアレか。
人がごった返しになる中ウォータースライダーで滑ったり飛び込みをして監視員に怒られるっていう、アレのことか。
「ねっ!どう!?」
「どうって言っても遥、さすがに奈々未ちゃんが無理あるだろ。 コートで身を隠せないから肌も焼けるし、何より目立って泳ぐどころじゃ無くなるぞ」
そうだ。彼女は日光に弱い上、アイドルなのだ。
ただでさえ白い髪をしているから目立つし、アイドルということで顔が広く知れ渡っているから人が大変なことになるだろう。
「大丈夫大丈夫!屋内プールだし、なによりアタシたちしか居ないから!」
「俺たちしか居ない……?」
それはどういうことだろう。
俺にプールを貸し切れって?いくら掛かるのそれ?
「ママの知り合いがちょっとだけならプールを貸してくれるって! ママがマスターにはお世話になってるから是非って!!」
「あぁ…………」
そういえば、遥の家って名士というやつだったっけな。それなら顔も広いだろう。
俺が奈々未ちゃんにどうかという意味を込めて目配せすると、彼女は大きく頷いてくれる。
「大丈夫みたいだ。遥、頼めるか?」
「うん!まっかせて! レミミーン!あかニャーン! 大丈夫だって~!」
俺たちが了承するやいなやスマホを持ってもといたテーブルへ戻っていく遥。
プールを貸切か……スケールの大きいことをするものだ。
「ね、マスター?」
「うん?」
納品の関係もあって、どこを休み入れれるだろうとスケジュールを確認していると、ふと奈々未ちゃんが声を掛けてくる。
それはニヤリとした笑顔で、ほんの少し色っぽい視線を込めながら、小さな口を開く。
「プール、楽しみにしてて。 マスターを悩殺しちゃうから」
「…………そういうのは、もっと大人になってから言いなさい」
「はーい。 ふふっ」
俺の精一杯の強がりも彼女には効かず、小さく微笑まれるだけに留められる。
小さな身体で俺に大きな動揺を与えた彼女は、楽しげに席を降りてプールについて話す3人のもとへ駆け寄って行くのであった。
…………プールは楽しみだけど、遥の母親が噛んでるのか………………何が起こるのやら。




