053.優佳
「マスター、今日はちょっと外のお掃除してきていいですか?」
とある夏の日。
私はいつもどおりマスターと2人きりでのアルバイトという至福の時間を楽しみながら、ふと考えていた事を口にしました。
彼は何やら先程届いたバケツや柄杓を片付ける場所に苦心していましたが、ふと私の言葉にゆっくりと振り返ります。
「外? そんなに汚かったっけ?」
「地面に落ちている草枝や、あと見えないところに落ちてたゴミも気になりまして。 そろそろ夕方ですし水打ちもやろうかなぁって」
私は彼が手にしている道具に視線を移すと、つられたように私を見ていた視線が下に下がり、「あぁ」と納得した声を発します。
きっとそれを見て思いついたのだと理解したのでしょう。半分正解です。もう半分は常々掃除したいなと思っていたことですが。
でも、バケツと柄杓ってそのために用意したんじゃないでしょうか?
「今日も誰も来ないし、お客さんが来てもすぐ対応できる程度に掃除しよっか。 あと使う道具はっと…………」
「あ、私が持ってくるので大丈夫ですよ!マスターはゆっくりしてください!」
少しゆっくりとした動作で立ち上がろうとする彼を私は慌てて止めます。
立ち上がる時少し苦い顔をしたのは、どうも筋肉痛だそうです。
聞くとどうやら先日店を休みにした時、街中を散策していたとか。
そんな絶好のチャンス!どうして私を誘ってくれないかと思いましたが、きっとマスターも一人で気楽に過ごす時間だって必要ですものね。
私がいないのは残念ですが、数少ない休日ですしゆっくり羽根を伸ばしてほしいです。
それに、掃除に関しては今やマスターより私のほうが詳しくなっちゃってます。
これも一緒に働いていた成果でしょうか。彼に任せてもらえるものが増えると嬉しいものですね。
「掃除と言っても開店中ですし、トングや柄杓だけで十分ですから」
「そ、そう? じゃあ先に外で待ってるよ」
「いえ、マスターは店内をお願いしていいですか?」
いくら外とはいえ、ここは人通りの少なく広くもないですし、2人が一緒に出ても過剰になるだけです。
「い、いや……流石に暑い中伶実ちゃんに任せるのは……」
「少なくともマスターより暑さに強いのでへっちゃらですよ。むしろマスターが外に出て熱中症にならないかが心配です」
「グッ…………」
まさしく図星を突かれたように、何も言えなくなってしまう彼が可愛くてつい笑みがこぼれてしまいます。
マスターは店に籠もって出不精過ぎるんですよ。まだ登下校や体育の授業をしている私達のほうが体力あります。
……でもやっぱり、その心配してくれる言葉。その私だけを見て私の名前を呼んでくれる響き。
どれもが胸の内をキュンキュンさせてくれます。その声で、名前を呼ばれながら求められるだけで私はすべてを捧げますのに……。
「じゃあ行ってきますね、マスター。 何かありましたらすぐ駆け込んできますので」
「うん。 悪いけど……お願いします」
少しバツの悪そうに、敬語になった彼に苦笑しつつ、私は道具一式を持って外に一歩踏み出します。
出ると同時に襲うのは、うだるような夏の暑さ。
もう8月に入ってしばらくたちました。お盆も遠くないですし、この暑さにも納得です。
でも、納得しても慣れる事はできません。特にさっきまで涼しい冷房の中にいたものですからその落差で、ほんの少しやる気に影が差してきます。
「…………よぉしっ!」
やる気にかかった陰りを振り払うかのように、私は一人鼓舞して店頭の掃除を開始します。
こういう地道な活動が、彼の、そして店の為になるのだと確信しながら――――
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「マスター、お店前のお掃除と水打ち、終わりました」
掃除を始めてしばらくが経過し、私が扉を少しだけ開けて中の様子を伺うと、彼はモップを手に店内を綺麗に掃除してくれてました。
その顔がこちらを向くと少し安心したような優しい笑顔に変わり、ねぎらいの言葉をかけてくれます。
「んしょ……。それじゃあ、裏のゴミ捨て場に置いてきますね」
最初は軽くの予定でしたが、思ったより力が入ってしまいました。
掃除の範囲も段々と広がっていき、その手にある袋の中は想像以上に重いものに。これ、持っていけるか不安ですね……
「あぁ、いいよいいよ。俺が持ってく」
私が店の奥まで持っていくのに苦心していると、彼の手がスッと伸びてきて私の手に。
きっと頑張って掃除してくれていたのでしょう。少し湿り気があり、冷たくなったその両手。
何度か、これまでに無意識を装って彼の手に触れに行くということはやってきました。
私の手とは違う、大きくてゴツゴツとした手。きっと彼は気にも止めなかったと思いますが、私はそのちょっとした触れ合いが何よりも大切でした。
それが、まさか彼の方から触れに来るなんて。
こんなことは初めてです。それに気づけば一本一本私の指を吟味するように触れてくるじゃないですか!
もしかして、指輪をはめる指がわからないでしょうか?お茶目さんですねぇ。そんなの左手の薬指に決まっていますのに。
その、思いもよらなかった彼からの接触がこんなにも嬉しいものだと打ち震えていると、ふと自らの腕が軽くなった感覚に襲われます。
私が軽く…………?いや、これは手にしていた物が取られたみたいです。気がつくとその手の中にゴミ袋はなく、彼の手元に移動してました。
「ぁっ…………。 ま、マスターすみません!大丈夫ですか!?」
ようやく意識を取り戻した私は慌てて彼のもとへ向かうも、彼はなんともないように袋を持って店の奥まで行ってしまいます。
あぁ……またトリップ……。やってしまいました。変な子だと思われちゃったでしょうか…………。
「はぁ…………」
一人になって椅子に座り、思い返すのは彼のこと。
大牧 総さん――――。
愛おしい人の、愛おしい名前。
愛おしいからこそ、この名を独り占めしようと、大好きな友達にはマスターと呼ばせるように誘導してしまう、自分の幼稚さが嫌になる。
けれどそれほどまでに好きなのだ。 あの日、一目惚れしたあの時から…………。
チリンチリン――――。
自らの幼稚さに辟易していると、ふと気づけば店の扉が開いて現れる一人のお客さん。
「い、いらっしゃいませ!」
後悔するよりまず仕事。仕事で失敗を取り返そうとお客さんのもとへ駆けて行くと、サングラスを掛けた女性が一人店内を見渡していました。
「へぇ~。ここがそうなのねぇ……案外綺麗じゃない」
「えっと……お客様……?」
少し伺うように話しかけると、彼女は「あぁ」と私の存在に気づいたようにこちらに視線を向けてきます。
サングラス越しの、フランクな雰囲気を醸し出す女性。遥さんとは違うベクトルで明るくて、少し私の苦手そうなタイプです。
「お客としても来たつもりだけど最初は違うかな。 定期購入のコーヒー豆、届けに来たよ」
「あ、業者の方だったのですね! でも……いつもの方と違うような…………」
私も納品してくる業者さんとは何度かお会いしたことがあります。
食材の業者さんも、コーヒー豆の業者さんも、どちらも高年の女性だったはずです。目の前の彼女は私より少し年上程度では……。
「うんうん!あのおばあちゃんは免許返納するから変わってもらってね!……それにしてもキミ、アルバイトの子?」
「は、はい……」
女性はサングラスを外して私をジッと見てきます。
染めたような茶色の髪に茶色の瞳。そして大きな瞳と通った鼻筋。
モデルのような、そして女性の憧れのようである足の長さと伸びた背筋。もはや誰がどう見ても美人さんと答える以外ありませんでした。
「キミ……どこかで会ったことあるっけ?」
「い……いえ…………」
彼女はそう問いかけてきますが、少なくとも私に覚えはありません。
女性の羨む女性。いい意味で目立つ彼女と面識があるなら、私も覚えているはずですが……。
「…………ま、いっか! とりあえず、総のやつ呼んできてもらえる? アイツ、開店したのに招待してくれないんだから……一度ビシッと言わなきゃっ!!」
総――――
フランクに、まさしく自然体に、それが当然だと言わんばかりに彼のことを下の名前で呼び捨てにしてきました。
彼女は何者か……。その羨ましさを必死に抑えつつ、私は彼女に向かって口を開きます。
「す……すみませんが、あなたはマスターとは一体……?」
「ん? あぁ、ゴメン。あたしは優佳っていうの。 アイツとは……そうね、恋人ってとこかしら?」
そう言ってウインクする美人のお姉さんに、私はただただ呆気にとられるしかありませんでした。




