052.アイツ
「マスター、お店前のお掃除と水打ち、終わりました」
「おお、お疲れ様」
夏の日差しがてっぺんを越え、段々と遠くの山々に消えていってしまいそうな、とある夕方の日。
俺はいつものごとく喫茶店業に勤しみ、新顔の来ないいつもどおりボーッとする日常を過ごしていた。
ふと俺が店の床掃除をしていると、扉が開いて伶実ちゃんがヒョコッと顔を出してくる。
今現在の彼女はアルバイト中、そして店頭のゴミ拾い及び水打ちをしてもらっていた。
店内に入ってきたその手にはバケツと、もう片方には回収したであろう草枝が見えている。
店内はこまめに掃除をしていたが、外に関しては殆ど無頓着だったからな。
こういう時に一気に掃除しないと後々大変なことになる。
「んしょっ……。それじゃあ、裏のゴミ捨て場に置いてきますね」
「あぁ、いいよいいよ、俺が持ってく。 暑い中頑張ってたんだし伶実ちゃんはゆっくりしてて」
彼女が横を通り抜けて店の奥に進もうとしたところで、俺はゴミが入ったビニール袋を持つ手を止める。
頑張ってくれるのはありがたいが、いかんせん毎日張り切りすぎだ。もうちょっと気を緩めてもいいのに。それが彼女の良いところでもあるのだが。
「…………? 伶実ちゃん?」
「……………………」
俺が彼女の手に触れた途端、伶実ちゃんは足を止めその手に視線をやったはいいものの離す気配を見せない。
もしかしてまずかった?でも、嫌がる気配も無いし……このまま持っていっていいのかな?
「伶実ちゃん……? 持ってくよ……?」
「…………」
明らかに聞こえる声量ではあるのだが、一切反応を見せてくれない。
俺は了承だと都合よく受け止めて袋を握っていた指を一本一本ほどきながら受け取ると、ズシンと来るゴミの重さ。
おそらく10キロ近くあるだろう。もちろん持てないことはないのだが、少し軽く見ていた。
「うぉ……!重っ!」
「ぁっ…………。 ま、マスターすみません!大丈夫ですか!?」
その手からゴミが無くなった途端、突然スイッチが入ったかのように慌てて心配してくれる。
ちょっとびっくりしたけど……この重さならまだ…………。
「…………ま、まぁ大丈夫だから、伶実ちゃんは座ってて」
「は、はい……。お願いします……」
心配かけないように片手で持って見せて笑顔を作るも、彼女は小さな声を出して空になった手を見つめるだけに留める。
さっきまでずっと手を見てボーッとしてたけど、なんだったんだろう。
暑い中頑張ってくれたし、少し疲れてるのだろうか。
後で彼女にレモネードでも作ってあげよう。はちみつたっぷりの。きっと喜ぶぞ。
それじゃあ早いところゴミ捨てて…………あれ、床掃除終わったら次何しようと思ったんだっけ。
何か大事な仕事が――――あぁ、思い出した。
「そうそう伶実ちゃん」
「! なっ……なんでしょう!?」
「ちょっとコーヒー豆も切れかけてるから裏から取ってくるね。 時間かかるけど任せていいかな?」
「あっ、はい。わかりました。 お任せください」
突然話しかけられたことで少し驚いた様子を見せる彼女に思い出したことを伝えると、柔和な微笑みで送り出してくれる。
そうだったそうだった。豆が切れかけだったから持ってこないとだった。
今日はちょっと調子悪そうだけど、本当に伶実ちゃんがバイトに来てくれて助かった。
もはや料理以外はほぼ全て任せてしまっても構わないかもしれない。
それだったらバイトではなく卒業後に正社員として雇っても…………いや、それは向こうが拒否するか。安月給だし。
それにしても、伶実ちゃんは夏休みで時間ができたからと、普段より少し早く来てくれるようになった。
だからこうやってたまに大掃除ができる。ホント、彼女様様だ。
…………そういえばさっき彼女が手を見ながらボーッとしてたのって、もしかして俺の手が触れてたからじゃないだろうか。
何も考えずにゴミを奪っちゃったけど、相手は多感な高校生。そういうのにも敏感だろう。
汚らわしいとか言われて嫌な顔されてなければ良いんだけど……。
「……さすがにそれはないか」
流石に、これまで長いこと一緒に働いてきた彼女だ。そこまでの悪感情は持ち合わせていないだろう。
でも俺も油断しすぎたな。もう一度距離感を考えないと。
「それもこれも、あの子の距離感がきっかけかもなぁ……」
ゴミを捨て、コーヒーを取りに向かいながら思い出すのは以前の病院。おじいさんが倒れ、急いで向かった日のこと。
あの日、奈々未ちゃんを迎えに行ってからはずっと俺たちは手を握っていた。
俺のことを好きだと言ってくれたあの子。
手を握るという行為が彼女にとって日常なのかは知らないが、少なくとも俺にとって距離感というものをバグらせることについては大いに役立った。
そうでなくとも参観日の日に灯に引っ張られて教室のど真ん中まで行ったというのに……手をつなぐという行為にここまで気にする俺が女々しいだけなのだろうか。
そんな自らの恋愛経験値の低さを嘆いていると、ふとポケットのスマホが震えていることに気がついた。
この振動パターンはメッセージか。相手は…………母さん。
「…………うぇぇ……まじか」
その文面を見て、思わず苦い顔になってしまう。
なんでこんな時にそんなの送ってくるかなぁ…………。いや、母さんは全く悪くないんだけど……
スマホの見慣れたメッセージアプリに書かれていたのは、アイツが近いうちに店に来るというリーク情報だった。
なんでアイツが…………前連絡来た時、懇切丁寧に拒否したと言うのに。 言い逃げみたいな感じだった?知らない。
でも、来られると面倒だ。アイツがやって来るという日までになんとか連絡取って考えを改めてもらわないと――――
「マスターさんっ!マスターさんっ!!」
母さんにはお礼を言い、メッセージの相手をアイツに切り替えてから考えるのは、改めて来るなという趣旨の文面。
どうやったら考え直してくれるか、どうやったら来ても追い払えるか。そう考えていたところ、ドタバタという慌てる音とともに伶実ちゃんの呼ぶ声が聞こえてきた。
「伶実ちゃん?」
「マスター!大変です!! お客様が…………!」
「お客さん!? どうしたの!?」
「お客様が……いらっしゃいました!」
肩で息をしながら告げる言葉に思わず拍子抜けしてしまう。
何事かと思ったけど、お客さんが来ただけか。普通に接客して注文を取ってくれるだけでよかったのに。
でもまぁ、料理するのなら俺がしなきゃだし、あんまり待たせるわけにもいかないもんね。そこまで考えてくれてたのか。
「了解。すぐに行くね」
「はい…………その…………」
「? どうかした?」
しゃがんでいた腰を上げ、いざ向かおうとすると、すれ違った拍子にふと服が引っ張られる感覚を覚えた。
何事かと視線を下げれば彼女が指先でつまみながらその顔を伏せている。
「……いえ、何でもありません」
「…………? 調子悪いなら休んでていいよ。後は俺が対応するから」
俺は返事を待つこと無く、彼女を置いて一足先に今度こそ向かう。
誰だって体調の悪い日はある。今日はたまたま彼女がその日だったのだろう。そう考えれば少し様子がおかしいのも納得できる。
少し急ぎながら店に向かうと、一人のお客さんがこちらに背を向けて立っていた。
セミロングの、茶髪の女性。俺は彼女に近づきながら笑顔で話しかける。
「すみません、おまたせいたしました。 ご注文は何にいたしま…………しょ…………」
ゆっくりと、ゆっくりと女性が振り返るにつれて、俺の言葉も弱くなる。
彼女は…………まさか…………まさかもう…………!?
「――――久しぶりじゃない、総。 元気だった?」
少し余裕のある笑みでこちらを見るは、ここ最近連絡に上がるようになった存在であるアイツだった――――




