046.病室にて
「おじいちゃんっ!!」
ガラッ!!と大きな音をたて、奈々未ちゃんが病室の扉を開く。
その姿は外用の黒い上着を羽織っているものの、日光を遮り彼女の髪を隠す帽子は来る途中の廊下で落としてしまい、真っ白の髪をあらわにしていた。
俺たちは奈々未ちゃんに来た電話――――彼女のおじいさんが倒れたと聞いて、俺と奈々未ちゃんの2人で病院へと足を運んでいた。
当然こんなときだ。店は早々に閉店。彼女らを連れてタクシーで猛ダッシュ。
伶実ちゃんや遥、灯には悪いが帰ってもらった。今日ばっかりは仕方ない。
そんな時でも彼女は病院でのマナーを弁えていたのだろう。
気持ちは急いて若干競歩気味になっていたものの、走りたい気持ちをグッと堪えていた。
しかしそちらに意識を取られていたからか、最後の階段を登りきった段階でフワリと落下する真っ黒の帽子。
幸いにも道中、他の人に出会うことはなかったものの、彼女はその真っ白な髪が露出していることに気づかぬまま、目当ての病室へとたどり着いた。
「――――あら、奈々未。 来たのね」
「おばあちゃん………。おじいちゃんはっ!?」
入った先は豪華な一人部屋だった。
俺たち全員が入っても問題ないほど広く、そして浴室までもが完備されている、殆どホテルのような空間。
ここからベッドまではカーテンに遮られているせいで見えないが、奈々未ちゃんの呼びかけによっておばあさんが顔を出してくれた。
「シッ。 病院でそんな大声出しちゃいけませんよ」
「ご……ごめんなさい…………。じゃなくって、おじいちゃんは大丈夫なの!?」
おばあさんに窘められた彼女は、今度こそ部屋の外に響かない程度の声量で聞き返す。
そんな慌てる少女に困ったような笑みをしたおばあさんは、何も言わずに手にしていたカーテンを開いてくれた。
「おじいちゃん…………!」
「おぉ……奈々未か。 どうしたんだい?今日は遊びに行くって言ったのに」
「そんなの……。 おじいちゃんが倒れたって聞いて……大丈夫なの?どこか悪いとこでも……」
豪華な部屋の窓際。
窓から外の景色を見ていたのは、これまでに何度か会ったおじいさんだった。
彼はベッドを軽く起こして、背中を預けながら柔和な微笑みをこちらに向ける。
そんなおじいさんのもとへ奈々未ちゃんも駆け寄っていき、膝に置かれていた手をギュッと握りしめた。
「何も心配することは無いよ。 ちょっと急に――――!いっ……たたたた……」
「おじいちゃんっ!?」
彼女の手に重ねようと、おじいさんも身体を起こして座る体勢になろうとするが、それは突然の痛みによって遮られた。
彼は唐突に苦悶の表情を浮かべて腰に手を当てる。
「だ……大丈夫だよ奈々未。 ただのギックリ腰だから……」
「ギックリ……腰…………?」
辛そうな表情を浮かべながら今度こそ奈々未ちゃんの頭に手を乗せて微笑むおじいさんに、彼女は目に大粒の涙を溜めながら小さく復唱する。
ギックリ腰……。なるほど。
「この人ったら、久しぶりのゴルフで気合入れてたものだから思いっきり、ね。 ちゃんと検査も受けて問題なしだったわぁ」
「ギックリ腰…………」
未だにその言葉を咀嚼しているのか、彼女は小さく呟きながらフラフラと数歩後ずさる。
次第に側に置いてあったパイプ椅子に足を引っ掛け、カシャンと小さく揺らすと同時にその場にヘナヘナと座り込んだ。
「よかったぁ…………。 おじいちゃんに何かあったら……私…………」
ようやく大事無いことを理解し、安堵したのだろう。
地べたに座り込んだ彼女からは決壊したように涙が溢れ、その嗚咽の音とともに床をほんの少しだけ濡れさせる。
俺も駆け寄ろうかと逡巡したが、それより早くおばあさんが彼女のもとに座って小さな背中を抱きしめた。
「ごめんなさいねぇ……私が言葉足らずの説明をしたばっかりに」
「ばあさんや、追って大丈夫だって言うことはできなかったのかい?」
「あの時は私も気が動転しててねぇ……携帯をおっきい鞄に入れたまま家に送って貰っちゃったんだよ」
つまり、倒れた時の第一報だけは入れてその後の連絡手段が無かったのか。
なんともまぁ。 でも、大事なさそうでよかった。
「一応ついでに諸々検査もしてもらうから、明日には帰れる予定だよ。 ……心配掛けたね」
「おじいちゃん……」
奈々未ちゃんもようやく落ち着いたのか、ゆっくりと身体を起こしてパイプ椅子に座ると、おじいさんの手が頭に触れる。
しわくちゃになった、けれど色々な事を経験した手。
されるがままだった彼女も、頭に乗っていたその手を取って自らの手で包み込む。
「……? 奈々未?」
「…………うん。やっぱり決めた」
それから数秒。
彼女は身動き一つ取らないまま俯いたのを心配したのか、案じるような口調でその名を呼ぶ。
けれどそれさえも気にしない彼女は、手にしていた彼の手を一層強く握って力強い瞳で立ち上がった。
「……おじいちゃん、おばあちゃん」
「……?」
不思議そうな顔をするおじいさんに、普段と変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべるおばあさん。
そんな2人を彼女はゆっくりと見て、微笑を浮かべるとすぐに力強い瞳に変わった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、聞いてほしい事があるの」
「……なんだい、改まって」
突然のその言葉に、おじいさんの目がほんの少しだけ細くなる。
その視線に一瞬だけ怯んだものの、立ち向かうように彼女は一歩前に出る。
「…………私、アイドルを辞めようと思う」
「あら…………まぁ」
「なっ……! 突然何を……!?」
彼女が発したのは、これまでずっと悩んできた言葉だった。
唐突に間に当たりにした2人は、少しだけ驚いてみせるおばあさんとは対象的に、全く予期していなかった言葉だったのか目を丸くするおじいさん。
彼は驚いたように口にし、彼女の蒼い瞳をジッと見つめる。
「奈々未、突然どうしたんだい?何か理由でもあるの?」
「おばあちゃん……」
とても柔らかく、そして不安そうなおばあさんの言葉に、奈々未ちゃんは少しだけ視線を揺らしてしまう。
しかしそれは決意したこと。それでも言葉を撤回すること無く彼女はその理由を口にする。
「私ね、ずっと考えてたの。 すっごい忙しいのに2人とも私を嫌な顔せず手伝ってくれて、助けてくれて……。 でも、もう2人とも年なんだから自分を大事にしなきゃ。それに、私に付き合ってたら2人とも、好きなことできないし……」
「……奈々未、それはね――――」
「バカ言うんじゃないっ!!」
唐突に。
病室中に声が響き渡った。
おばあさんの言葉を遮って出たのは、初めて奈々未ちゃんが店に来た時に受けたお叱りとは違う、本気の怒鳴り声。
もしかしたら廊下にも……いや、病院中に響いたかもしれないほどの声量だった。
俺も突然のことに目を丸くし、彼女もまさかそう返って来るとは思っても見なかったのか、驚いた表情で彼を見る。
「何をバカな…………そんなことは認められない! そんな理由でアイドルを辞めるなんて…………絶対に許さんっ!!」
まさしく、本気の怒りだった。
外見さえも厭わぬ、感情を吐き出すかのような声。
「でもおじいちゃん!また今日みたいなことがあったら私…………!」
「認めん!何を言い出すかと思えばくだらないことを……そんな中途半端なことをするような育て方をした覚えはない!…………いね!!」
――――彼の言葉は、俺から見ても悪手だった。
言い切った瞬間彼も自らの言葉を自覚したようでハッとするも、その全ては彼女の耳に入り、気づいたときには数歩後ずさりしていた。
「おじいちゃん……私……私…………」
「…………! い、いや……これは…………」
「――――!!」
激情から目の覚めたおじいさんが言葉を続けようとするも、出てこない。ついに彼女はその怒りを受け止めることができなかったのだろう。
さっきは止まった涙がまたも溜まっていき、もう決壊してしまうところで顔を伏せてその足を扉に向けてしまう。
「奈々未っ!!」
おじいさんの呼声なんて聞こえないように。
彼女は逃げ出すように病室から出ていってしまった――――。




