044.絵画のような光景
「おまたせしました。コーヒーです」
シンジョ1学期最後の日に、奈々未ちゃんがやってきて突然のアルバイトを志願してきてから数日の後のこと。
俺はあいも変わらず喫茶店のカウンターに立ち、いつものように喫茶店業務に勤しんでいた。
今はお昼にもなっていない、開店してから数分程度しか経っていない時間帯。
普段昼食時やその後になってやって来る3人娘も、当然ながら来ていない、普段ならボーッと一人で来ることもない客をノンビリと待っている頃だ。
しかし今日は、開店と同時にやってきたお客さんに注文通りのコーヒーを提供する。
暑い夏真っ盛りにはあまり出ることのない、ホットコーヒーだ。
正面のカウンター席には、向かい合うように一人座っている少女の姿が。
彼女は小さな声でお礼を言いながらコーヒーを受け取ると、側に置いたフレッシュやシュガーには目もくれずカップを口に近づける。
「…………ふぅ。 美味しい」
コーヒーを飲むと同時に小さく綻ばせて笑みを浮かべる彼女の姿は、まさしく一枚の絵画のようだった。
今日開店と同時に姿を表したのは、最近来るようになった奈々未ちゃん。
最初はあの3人が目当てだと思って時間をずらすように伝えたものの、どうも本日は純粋にコーヒーを飲みに来たらしい。
俺としてもそれを目当てにしてくれるのは本望だ。一人で居づらいからか、店頭で視線をしきりに動かす彼女に中に入るよう促し、今に至る。
そんな彼女が飲む、絵画のような光景。
アンティーク家具を背景に窓から差し込む光。
明るさと暗さが両立するこの空間で、誰しもの目を惹く真っ白で綺麗な髪と整った容姿が、ふぅ……と憂いの表情から微笑みに変わっていく。
さすがはアイドルといったところだろう。ちょっとした動作でも完璧な絵のようだ。
「コーヒー、好きなの?」
「ぇ……あ、うん。 おじいちゃんもおばあちゃんも……大好きだから」
自慢にもならいないが、ここで出すコーヒーは自らの趣味が大きく出た、かなり苦いもの。
酸味など邪道、苦味特化で選んだ豆から作られるコーヒーは、今日になってもたまにチャレンジする遥が涙を流してしまうほどだ。
そして一人分としても豆を多く使って濃く作っているものだから、あの3人が好んで飲むことはない。
けれどそんな苦すぎるコーヒーを、奈々未ちゃんは平気な顔で飲んで、更に美味しいと言ってくれるのだ。
俺は内心飛んで喜びたい気持ちを抑えつつ、自らも近くの椅子に腰を下ろす。
「2人とも……お酒は飲まないけどコーヒーだけはすっごく大好きで……。私とも一緒に飲みたいからってちっちゃな時から……」
「それは…………2人とも嬉しいだろうね」
俺だって同じクチだ。
親が好きで、毎朝飲んでるのを見て俺も一緒に…………。
今はもう一緒に飲むことなんて無くなったが、それでもコーヒー好きはしっかり受け継がれている。
そんな遠い昔の事を思い出していると、ふと彼女が何か思い出したかのように「あのっ!」と普段より大きい声量で話しかけてきた。
「どうしたの?奈々未ちゃん」
「その……マスターさんは……私がアイドルを辞めること……反対?」
「反対ってわけじゃないけど賛成といえるかは……。 おじいさんたちとはまだ話してないんだよね?」
俺の問いかけに彼女は小さく縦に振る。
反対か賛成か……ううん…………
「……俺もさ、初めて奈々未ちゃんがここに来た日にライブの映像見たんだよね」
「ぇ? ……うん。ありがとう……ございます」
唐突な話題の変更に不意をつかれたのか、彼女の頭には疑問符が浮かぶ。
あの、テストの終わった日。奈々未ちゃんが来た日。
俺は店を閉めた後で遥が見たがっていたと言われるライブ映像を一人で見ていた。
その時感じたのが、勇気、悲しみ……そして嬉しさ。
彼女はその声質からしてアップテンポの曲は殆どない。大半がバラード調のものばかりだった。
しかしそれでも訴えかけて来るものは曲によって違う。ある曲は勇気を、ある曲は悲しみを。それぞれ曲に乗せて聞く者の心に訴えかけてくるのだ。
その感情の源泉は親がいないものなのか……なんなのかはわからない。けれど見た目もさることながら歌の実力も相当のものだ。あれは遥がハマるのも分かる気がする。
「俺もライブで元気を貰ってね……。あんな凄い曲を歌える人がやめちゃうのは、寂しいかな」
「そう……」
彼女としては二つ返事で迎え入れてほしかっただろう。
アイドルを辞めてでもここで働いて欲しい。そう言ってもらいたかったのかもしれない。
それは俺も同じだ。ここで働いてもらったらあの3人も喜ぶだろう。客入りは…………まぁ二の次だ。
しかし1ファンとして、今まで積み上げてきたアイドルを手放すのも、また惜しいとも感じていた。
奈々未ちゃんはほんの少し顔を隠すように視線を下げたと思ったら、すぐに顔を上げてその席から立ち上がる。
「……うん、ありがと。 ごちそうさま」
「あんまり良い返事ができなくって、ごめんね?」
彼女は立ったまま残ったコーヒーを一気飲みし、踵を返すように出口へと向かっていく。
機嫌、損ねちゃったかな……。
「美味しかった…………また、来るね?」
そう言って静かに扉を開けて店を出ていってしまう。
彼女は結局、さっきの事を聞きにわざわざ来てくれたのだろうか。
しかしその真意などわからない。
俺もそんな思いは棚に上げて空っぽになったカップを片そうとすると、今度は大きな音で鈴を鳴らして店に入ってくる人物が現れた。
「いらっしゃいま…………って、奈々未ちゃん?どうしたの?」
また誰か……音的に遥が来たのかとおもったものの、そこに立っていたのは奈々未ちゃんだった。
まだ店を出て1分も経っていない。忘れ物……は見当たらない。
「…………ぬが…………」
「えっ?」
「犬が…………そこに…………」
……なんだって?犬?
肩を上下させて指差すのは、さっき入ってきた扉。
何事かと思ってほんの少しだけ開いて外の様子を伺うと、そこには平均より少し小さめの柴犬が辺りをキョロキョロと見渡していた。
「奈々未ちゃんの犬じゃ……なさそうだね。 苦手なの?」
「その……昔……噛まれちゃって……トラウマに……」
あぁ、噛まれちゃったのか。
俺も昔、猫に顔やられたなぁ……今は平気だけど、当時はしばらく近づけなかった覚えが。
「首輪は……あるみたいだし、ちょっと行ってくる」
「ご……ごめんなさい。お願いします…………」
「悪いけど店、お願いね? 誰も来ないだろうけど」
俺は彼女に店を任せて一人扉から外に出る。
大事なところには普段から鍵をかけてるし貴重品の心配はしていない。
あとはこの犬がどこから来たのかだが……俺も犬って飼ったこと無いから扱いわかんないんだよね。
「ほら、おいでおいで~」
とりあえず適当に手を広げて迎え入れるポーズを見せると、案外人懐っこいのかテクテクと素直に近づいてきた。
よし、そのまま足に手を伸ばして抱っこを――――
「いっ――――!」
犬がすぐ近くに寄って来てくれたことで抱っこして送ろうと思っていたら、突然俊敏な動きで飛び跳ねて、手を噛まれてしまう。
反射で手を引っ込めたのが幸いしたのか、慌てて自らの手のひらを確認すると、そこにはジンワリと出てくる赤い血が。
しまったな。抱っこは嫌いだったか。
ウゥゥ…………と、俺の突然の行動に警戒してくる柴犬。
しかし、すぐに警戒を解いたのか、俺の手に近寄ってきて患部を舐めてきた。
「大丈夫大丈夫。 ありがと」
そう柴犬に告げるものの、おそらく言葉の意味などわからないだろう。
今度は持ち上げることなく首元をよくよく見ると、リードがあったであろう箇所には曲がってしまった金具が。
おそらく散歩しているところでリードが外れ、その結果ここまで走ってきたのだろう。なら適当に大通りまで行けばどうにかなるかな?
「じゃあ……行こうか。 着いてきて」
――――ワンッ!!
立ち上がって進行方向を指差すと、今度は意味を理解したのか小さく吠えて着いてきてくれる。
利口だ。これならリードが無くてもどうにかなるかもしれない。
俺は大通りに向けて柴犬とともに足を動かす。
それから5分と経たず、俺は目当ての人物を見つけ出すことに成功する。
一人と一匹、ともに始めた飼い主を探すミッションは、案外早く達成するのであった。
そして、無事に戻ってきた喫茶店で――――
「おかえり…………って、マスターさん!?ち……血が……!すぐにお薬を…………!!」
ちょこんと座っていた奈々未ちゃんが、俺の手から垂れる赤い液体を見てパニックになる。
心配してくれるのは嬉しいけど……今欲しいのは薬じゃなくて消毒かなぁ……。




