034いつかの感覚
「それじゃ! まったね~!マスター!!」
「また明日です。 マスター」
「ほいよ。 気をつけて帰れよー」
チリンチリンという鈴の音とともに、明るい2人の少女の話し声が遠くなっていく。
途端に静かになるのは我が店ではいつものこと。俺は彼女らが座っていたテーブルに置いてある食器をシンクへと運ぶ。
あれから……彼女たち3人娘から計画についての吉報を聞き数時間が経過した。
突然の遥の爆弾発言、期末テストを失念していたことに慌ててからは大急ぎて勉強の進行状況と成績を鑑みて勉強モードへと突入していった。
一応毎日の勉強は欠かしていなかったみたいだから俺はあまり危機感を持っていない。しかし遥の母親に釘を刺されている以上、手を抜くことはできないらしい。
と、いうことで今日も今日とていつもどおりの勉強タイム。いつもの時間になって彼女たちは自らの家へと帰るため、さっき店を出ていった。
ちなみに灯は何か用事があるだかで、一足先に帰った。彼女が一番頑張ったしな、今日は精神的にも疲れただろう。
そして俺は閉店までの残り数時間、いつもどおりの1人での作業。
この時間から客は来たことないのだが、それでも開けるのは様式美というやつだ。
ただのんびりと時間をつぶすだけだし、開けていても閉めていても変わらない。
いつもどおりテーブルを掃除して、使われたコップ等を洗っていると、ふと扉の鈴がまたもチリンチリンと音を鳴らす。
こんな時間に客とは珍しいな。それとも2人が忘れ物でもしたのか……?
「すみません…………。ちょっといいですか?」
「いらしゃ…………って、灯か」
ジワジワとゆっくり扉を開けてヒョコッと顔を出したのは、一足先に帰った灯だった。
彼女は覗き込む影響で髪を横に垂らしながらも、気にしないようにこちらへ目を向けている。
「どうした? あの2人ならついさっき帰ったぞ」
「知ってます。さっきすれ違ったので。 ……お邪魔しますね」
彼女のお目当ては遥では無かったようだ。
ツカツカと淀みない足取りで、さっきまで2人が勉強していたいつものテーブルへ。
「2人が目当てじゃないなら俺か? それとも忘れ物?」
「いえっ……まぁ……。 とりあえず、アイスコーヒーもらえますか?」
チョコンと座った彼女が求めたのはコーヒー。まさかの普通の注文。
けれど注文されたからには提供しなければならない。俺は洗い物の手を止めて豆を挽きはじめる。
「その……遥先輩はどうでしたか? 勉強の様子は……」
「遥? まぁ、いつもどおりかな。なんだかんだ毎日勉強してるみたいだし、期末は赤点回避余裕だと思うぞ」
「そうですか…………」
おそらく次回のテストは問題なく終えることができるだろう。
逆に問題があるとすれば……」
「灯はどうだ? 出席日数……足りそうか?」
「はい。 1学期は少し足りませんが、2学期3学期でちゃんと出席すれば夏の補修は出なくてもいいとのことです」
「そうか……」
「はい」
…………なんだか、しっかり会話してるんだけど話しにくい!簡潔すぎて逆に話しにくい!!
ふと彼女の様子が気になって、お湯を落とす寸前にチラリと目を向けると、何故か彼女はスマホを弄ることなくまっすぐ俺の方を見ていてつい視線が合致してしまう。
「っ……!」
えっ、なにこれ。つい目逸らしてしまったけどすっごいこっち見てくるんだけど。
そんなにまだこの店がいかがわしいって疑ってるの?
「あー……今日は門限、大丈夫か?」
「はい。今日は少し遅れるって伝えてますし、まだ日も明るいですし」
「……そうだな」
もう夏至は過ぎた。しかしあまり日も経っていないおかげでまだまだ太陽は外を明るく照らしている。
日没まではまだ1時間以上あるだろう。それでも暗くなる前には家にたどり着いてほしいが。
「ほい、コーヒー。 ガムシロとかはご自由に」
「ありがとう……ございます。…………んくっ!」
「ちょっ――――!!」
小さな手で受け取った彼女はそのまま何を入れるわけでもなく、ブラックの苦いコーヒーを口元に傾ける。
その苦味から一瞬肩を震わせ眉が中央に寄るも、コップを離すことなく一気に傾けてその真っ黒なコーヒーを飲みきってしまった。
「ぷはっ! ハァ……ハァ……やっぱり苦いですねこれ……」
「そりゃブラックだし。 よく一気できたな」
やはりコーヒーに慣れていなかったのだろう。
飲みきったコップを引き剥がすよう遠くへやった彼女の目にはうっすらと涙が。
なんでそんな無理して飲むんだか……。
俺はそんな彼女の向かいに座るよう椅子に腰掛ける。
「なんであなたはこんな苦いもの毎日飲んでるんですか……」
「そりゃあ慣れとしか……。無理せず甘くすればいいのに」
最初は苦すぎて泣いたっけなぁ。当時はたしか……いや、今はいいや。
俺もついでに入れたコーヒーをちょっとだけ口つける。うん、今日も美味い。
「その…………すみませんでした」
「へ?」
自ら入れたコーヒーを堪能していると、ふと正面の彼女がいきなり謝ってきた。
膝に手を乗せ、綺麗な座り方のまま会釈をする姿は改まっているようで逆に驚いてしまう。突然どうしたんだ……?今日さっさと帰ったこと?
「その……あなたのことを何も考えず、いきなりフィアンセとか言って……すみません」
「……あぁ」
あぁなんだ、そんなことか。気にしなくていいのに。
「いいよ全然。クラスの問題は解決したんだろ?」
「はい……。その、あの子達も謝ってくれました。 あなたのおかげです」
あの子達とはきっと秋日和の面々のことだろう。
無事解決したのなら万々歳だ。あの子達もここに来ないから関係ないだろうし。
あ、でも心配することといえば…………。
「伶実ちゃんに……なにか言われなかったか?」
「っ…………! そ……それは……。はい。あなたの計画を聞いて、その後帰るときに刻々と言われました……。反論の隙もないくらい…………」
やはり言われていたか。あの時『お話』と言ってたからまさかと思ったが。
「それは――――済まなかったな。もっとマイルドに言うべきだった」
「いえ、私が悪いんですし。それに伶実先輩の気持ちもよくわかりましたから」
気持ち?あぁ、伶実ちゃんも灯のことを大切に思ってるってことを実感したのか。
「それでですね、話は変わりますが今日は4人でお昼一緒に食べたんです。 化学の実験も一緒にしたんですよ」
「それはなかなか……」
苦々しい思い出なのか、早々に話を切り替えた彼女は今日のことを口にする。
そうか、上手く付き合えるようになったか。
仲間意識を持つの早過ぎないかと思ったが、よくよく思い出すと秋日和が話していた内容も、言うほど酷いものではなかった。
もしかしたら、元々あの3人は灯のことが気になっていたのかもしれない。
「じゃあ、改めて遥たちに感謝だな。二股疑惑も遥のおかげでどうにかなったんだし」
「ですね。それで、その……つい2人の前でフィアンセだなんて言っちゃいましたが、本当に付き合ってないんですか?あの時の様子はどう見ても……」
「もちろん。 あの時は俺じゃなくて灯に驚いたんだろ。 可愛い後輩が行きつけの店の人と付き合ってるだなんてショッキングだし」
そうだ、そうに違いない。
最近知り合ったばかりの2人が突然フィアンセになっていて、片方は慕ってくれている後輩ときたものだ。狼狽するに決まっている。
「そう、でしょうか……。 では、本当に付き合ってないんですよね?伶実先輩とも?」
「伶実ちゃんは大事な従業員だし、慕ってくれてるけど2人とも兄貴分くらいに思ってくれてるだけだよ。そういう関係じゃ全然」
むしろ遥と付き合ってるなんて言ってしまえば、同じく愛している灯が悪鬼の如く怒り狂うだろう。
伶実ちゃんだと……そうだな……ドン引かれるな、間違いなく。
実際にもそんなことはないんだけどね。俺は相変わらず独り身だ。
「じゃあ……いいんですね…………」
「? なにが――――」
何のことか。
そう問いかけようとしたところで、俺の言葉は途中で止まり溶けて消えてしまった。
パンッ!と大きな音を立てて俺の言葉をかき消すように立ち上がった彼女は、何も言わずに俺の横まで移動して両肩を掴まれる。
「なっ……なに…………?」
「じっとしていてください」
真正面を向き合って目を合わせる、俺と灯。
え、何、何されるの!?今までの恨みとか言って刺されるの!?
「~~~!! やっぱり無理です!恥ずかしいっ!!」
顔を真っ赤にしながら至近距離で目を合わせた彼女は、何を思ったのかグイッと俺を引き寄せて距離を詰める。
刺される――――!!
そう思って目をつむると、同時に頬に触れる柔らかな感触。
この感触は――――初めて遥の家に行った帰りにも――――。
「こっ……これはお礼です!私を助けてくれた!! 決してそういう意味じゃありませんので!私は遥先輩一筋ですのでっ!!!」
そう叫ぶように告げた彼女は、俺の返事を待つことなくお代だけテーブルに置いて逃げるように店から走り去ってしまう。
耳に届くは遠ざかっている彼女の駆ける音。俺はいつかと同じいつかと同じように頬へ触れた柔らかな唇の感触に、しばらく動くことができなかった。




