119.リベンジ
「おかえりなさいマスター。 その……どなたからでしたか?」
「あ、あぁ。 母さんから。重い荷物だったから無事帰れたかって」
ホカホカと身体から湯気を立てながら洗面所を出ると、目の前には伶実ちゃんが立っていた。
その表情は不安げなものに加えて少し不満顔。あれだけ遊んで、まだ遊びたりなかったというのだろうか。
あの、彼女が乱入した結果シャワーの浴びせ対決となってしまったお風呂。
お互いびしょ濡れになりながらも狭い空間で暴れたまくっていたが、突如洗面所から聞こえてくるスマホの着信音でお開きとなった。
なんだかんだ楽しかった浴びせあい。最後の方はなんかシャワーヘッド受け渡しあっていたけど……。まぁ奪い合っていたこととしよう。
そうして俺は防水性のスマホをお風呂場に持ち込み、電話している最中に伶実ちゃんが着替え。
続いて俺がお風呂から出たタイミングで彼女が待っていたというわけだ。
結局背中を洗うのはグダグダでシャワーと一緒に流れてしまったものの、お互いポカポカになったから結果オーライ。
さて、この後は何しようかね。
「伶実ちゃん、これからコーヒー淹れるけど、なにか飲む?」
「あ、でしたら私に淹れさせてもらえませんか?」
「伶実ちゃんが…………?」
思わぬ提案に目を丸くするも、以前練習していたことを思い出して思考を振り払う。
そういえば前は、かなり上達したけどムラとかがあったんだっけ。あれからしばらく経ったし、上手くなっただろうか。
「あれから更に練習を重ねましたが……ダメ……ですか?」
「ううん、いいよ。 それじゃあ頼もうかな」
その了承に、彼女の不安げな表情はパッと明るくなる。
こちらとしても向上心を潰したくない。なら俺は道具だけ出して待たせてもらおうかな。
「道具はこの豆と……そこの棚の一式でできるはずだから。使い方とかは大丈夫だよね?」
「えっと……、はい!お店にあるものと変わらないようなので、問題ありません!」
ウチのコーヒーを淹れる機器は同じものを2つ買っている。店用と、自宅で飲む用の2つ。
どちらも機械に頼ることは最小限に留めてほとんど人力だ。ミルも焙煎も、どちらも手回し式。
だからこそ時間もかかるが美味しさも格別。焙煎したものはちゃんとあるし彼女でも淹れられるだろう。
「それじゃあ……何かあったら呼んで。すぐ来るから」
「はいっ! きっと大丈夫ですので、ゆっくりしていてください。お水も置いてありますので是非」
彼女の微笑みを目に収めながらリビングに行くと、言葉の通り一人用のテーブルにコップが置かれてあるのに気がついた。
氷でキンキンに下げられた、冷たい水。きっとこれがさっき言っていたものだろう。
コップを傾けて喉を潤すと冷たい喉越しとともにほんの少しの酸味が感じられる。
これは……レモンの酸っぱさか。ありがたいな……心遣いが行き届いてる。
「マスター、ミルクとお砂糖はどうしますか?」
「入れないで~!」
「は~いっ!」
基本、俺は何も入れないブラック派。
一応外れの豆を引いた時の為にそれらは常備しているが使うことは殆どない。
それにしても、家でこうやってコーヒーを淹れてもらうのは母親が生きていた時以来か。
母さんや優佳も紅茶派で、向こうの家に居た時は俺が淹れる以外の選択肢がなかったわけだし。
あぁ、コーヒーの香りにお風呂出たばかりの暖かさ。
もうなんだか、何もしたくない……このままゆっくりと、意識を波に委ねていたい――――
「マスター……マスター」
「んっ…………」
ボーッと何もせず揺らめく意識に身を委ねていると、そんな声が隣から掛けられる。
どうやら眠さに負けてウトウトとしていたみたいだ。伶実ちゃんの心配する顔が目に入る。
「コーヒーできましたよ。 飲めますか?」
「あぁ、うん。 ちょっとウトウトちゃってた。ありがと」
彼女の手にはトレイに乗せられたホットコーヒーが2つ乗せられていた。
夏なのにホットはどういう事かと考えられるが、さっき飲んだ冷たい水に冷房の掛かった部屋。
きっと身体を冷やしているだろうといたわってこの選択をしたのだと理解する。
「では……どうぞ」
「うん。 ……いただきます」
飲む前に鼻を近づけて漂ってくるのは、芳醇で香ばしい、穏やかな香り。
深炒りの、俺好みの強い香り。それを楽しみながらそっと口をつけてゆっくり流し込むと、口いっぱいに苦味と、更に奥には風味豊かな美味しさが感じられる。
「おぉ……美味しい……」
「本当ですか!?」
「うん。ちゃんと抽出できてて、俺が渾身入れて作ったのと変わらないくらい……!」
きっと温度も淹れ方も、しっかり学んで実践したのだろう。
それは俺が淹れるのと遜色ない……もしかしたらそれ以上に美味しいものだった。
まさかの腕前に気づけばカップの中は空っぽに。思わず彼女を見上げればホッとしたのか胸を撫で下ろすのが見て取れる。
「よかったぁ……。 家でちゃんと勉強してきたかいがありました」
「ホント美味しいよ。 もう、伶実ちゃんにコーヒー淹れるのを頼んでもいいかもってレベル」
「それはまだ早いですよ! まだまだ手際よくやれませんし……それに私が飲んでほしいのは……」
「…………?」
それに……、なんだろう。
視線を逸した彼女の先には、カーテンで閉められた窓が。
その瞳の奥に何を映しているのか。それを考える間もなく彼女はお盆をテーブルに置きもう1つのカップを手に取る。
「……なんでもありません。 それより私もいいでしょうか?」
「え? あぁごめん。椅子使いたかった?」
「いえ、マスターは座っていてください! 私にもちゃんと座る場所がありますので!」
思わず視線から椅子が空くのを待っているかと思ったが、違うようだ。
ここでないならどこだろうと一瞬思案したものの、他には1つしか無い。ソファーか。
「それじゃあ……失礼します」
「――――へっ?」
きっと彼女はソファーに座ってゆっくり飲むのだろう。
そう思ったが、現実は全く違う答えを導き出した。
彼女は何も間違いなどないかのように、迷うことも一切なく俺の膝の上に腰を降ろす。
軽い……羽のように軽いその体重と、柔らかさ。そして目の間に茶色の髪がふわりと揺れ動いてシャンプーのような香りが鼻孔をくすぐる。
俺と同じシャンプーを使ったハズなのに、なんでこうも香りが違うのだろう。なぜこうもいい香りがするのだろう。
そう思いながらあっけに取られていると彼女は少し身体をひねって俺にイタズラ笑顔を見せつけてくる。
「えへへ……マスターの膝の上、頂いちゃいました! このままでも……いいですよね?」
「……しょうがないな。 コーヒー、こぼさないよう気をつけてね」
「はいっ!」
元気いっぱいの笑顔で前を向き、ゆっくりとカップを傾ける彼女に思わず笑顔が溢れる。
俺は小さな彼女の細い腰回りに手を回して、優しくそのワガママを受け入れるのであった。




