夢との混濁、そして……
俺は両親の経営する飲食店の手伝いで、別の棟にある宴会場へ、カラオケのリモコンを持って行く。リモコンの電池を交換した従業員が、戻し忘れたのだ。
コンコン。
「失礼します。カラオケのリモコンをお持ちしました。こちらの不備で申し訳ありません」
俺は宴会場の扉を開けて入ると、頭を下げる。
お客は年配の男女に、二人の女の子と一人の少年の五人組の家族連れだった。
「いやー、お兄ちゃん、悪いね。娘がカラオケをしたいと言い張るから」
「いえ、うちの従業員が戻すのを忘れていたので、すみません」
年配の男性、おそらく父親が近付き、リモコンを受け取る。
リモコンを渡した俺は、本館へ戻ろうとする。だが、その家族にいた可愛い女の子に目が留まり、気になった。一番大人びて見えるその子が長女なのだろう。しかし、俺とは年の差が離れすぎているであろう事が頭をよぎると、バカバカしくなる。
本館に戻り仕事をしていると、宴会場の家族連れが、会計をしにレジへ来る。父親から代金を受け取ると、タクシーの手配を頼まれる。
タクシー会社に、電話をするものの週末の夜間では、時間がかかる事を告げられる。その事を告げ、店の車で送る事を提案した。彼は頭を下げて了承し、悪いからとお土産を追加注文してくれる。
従業員が車を店の横につける。二台あるうちの一台は別のお客を送りに出てしまっていて、一台足りない。俺は従業員に自分の車を持ってくるから、先に送るように指示を出す。彼が返事をすると、自分の車を取りに行く。
車を店の横につけると、俺が気に留めていた女の子が、一人でお土産を抱えて待っていた。俺はすぐに車から降り、彼女の抱えるお土産を受け取り、車の後部シートへと積む。
彼女は、俺のRV車に興味があるのか、車の周囲を回るように観察している。そして、俺に近ずくと、袖を引っ張る。
「どうしましたか?」
「私が運転しちゃダメですか?」
俺は返答に悩む。お客に運転させて送るなんて前代未聞だ。俺が困惑する姿を見た彼女は、自分が無茶な要求をしているのに気付いたのか、しょんぼりとする。その姿を見て、俺の心は揺らいだ。
彼女から自宅の住所を聞いて、ナビに打ち込む。ナビが店から彼女の自宅までの道のりを示す。俺は、その道のりを確認する。車通りも少なく距離も遠いというほどではなかった。あとは、免許と飲酒、そして、運転したい理由を確認してから結論を出そう。
「免許は持ってる?」
「はい!」
彼女は、肩から下げているポーチから免許証を取り出し、俺に見せる。俺は、それを確認すると、彼女の名前が見える。『間宮 結奈』それが、彼女の名前だ。年齢は彼女の生年月日から二一歳だと分かった。
「飲酒はしてないよね?」
「家族と一緒の時は、飲みません。家族は、私が飲める事も知らないと思います」
「そうなのか。あと一つだけ、どうして運転をしたいの?」
「それは、私は家を出て、一人暮らしをしているので、あまり運転をする機会がないのと、家に戻ってきても、運転するときは親が同伴するので、あまり運転している感じがしなくて……」
彼女は上手く言葉に表せられないのか、言葉を詰まらせる。俺もその気持ちは分かる。俺自身も車の運転を始めた頃は、親を乗せるのに抵抗があったものだ。
俺は彼女に、運転をしていいと許可を出す。彼女のはしゃぐように喜ぶ姿を見て、俺はドキドキしている自分に気付く。
彼女が運転席に座り、俺が助手席に座る。
彼女はあちらこちらと確認をしてから、恐る恐る車を動かす。あまりにも慎重な運転に、こちらまで緊張してくる。
一度、車が動き出してしまうと、彼女の運転は普通で、安堵する。最初に緊張していた事が馬鹿らしく思えてくる。
彼女は、しばらく車を走らせていると、キョロキョロとこちらを何度も見返してくる。
「お兄さんは、恋人はいるの? それとも、もう結婚しているの?」
急に質問を投げかけてくる。そんな質問をされるとは思っていなかった俺は、戸惑ってしまう。
「縁がなかったのかな。この歳になってもさっぱりなんだ」
「そんなに、歳がいっているようにも見えないけど、いくつなんですか?」
「今、三一だよ。今年で三二」
「私とちょうど、一〇歳差なんですね」
俺の返事に、彼女はニッコリと微笑み、楽しそうにする。
何気ない会話にも感じるが、この歳まで恋人がいた事もなく、親しい女性の友達もいた事のない俺には、今の会話をどう解釈していいのか分からない。
目の前の信号が赤に変わり、車はゆっくりと停車する。
彼女は、その停車時間を使って、俺の座る助手席に身体を近づけ、こちらを覗き込む。そして、値踏みするように俺を見つめてくる。
彼女の顔が近い。彼女から甘めの石鹸のような香りが漂い、俺の鼻腔をくすぐる。
黒髪でサラサラのショートヘアに目鼻のくっきりした、どことなく少年っぽい彼女は、俺と目が合うと、薄く赤らむ柔らかそうな唇を微笑ませる。
そんな態度を取られると、女性経験皆無な俺はどうしていいのか分からない。
彼女は、俺に興味があるのか? さっきの会話から、俺を誘っているのか? それとも、俺が女性経験皆無と知って、遊んでいるのか? ただ、モテない俺を馬鹿にしているだけなのだろうか? 俺は混乱する。どの結論を取っても、勘違いしていそうで怖い。
その結果、俺は分からない事への恐怖から、彼女の目から視線を逸らす。その視線の先には、彼女の太腿があった。
ベージュ色のショートパンツから伸びる、彼女のきめ細やかで、光るように真っ白な肌の太腿に、俺は息をのむ。その素足の太腿にいざなわれるように手を差出し、触れ、感触を確かめるようにさする。彼女身体がビクッと反応する。
俺の指には、彼女の温もりと、柔らかくも弾力のある肌の感触が伝わってくる。その感触に脳は朦朧とし、心臓は痛いほどに鼓動する。このまま、襲い掛かりたいという衝動を抑え込めている自分の理性に、賞賛を贈りたい。
俺は何をしているんだ! これでは、痴漢や変態だ! と自問自答してしまう。
彼女は一〇歳も歳の離れた女の子だ。そして、お客様だ。こんな事をしてはいけない。見る人によっては、犯罪と捉えられるだろう。そんなリスクは冒せない。
視線を太腿から正面に向ける。信号は青から黄色に変わり、再び、赤になる。後ろに車がいなかった事で、クラクションを鳴らされる事はなかったが、信号が一巡してしまった。
この事が俺に冷静さを取り戻させた。
いまだにさすり続けていた彼女の太腿から、手を離そうとする。名残惜しく感じる自分が恥ずかしい。
彼女は、シフトをパーキングに入れ、サイドブレーキを掛ける。
そして、彼女はハンドルから手を放し、俺が離そうとしている手に手を重ね、太腿に押し付け、上のほうへとずらしていく。さらに、俺の腕へとしがみついてくる。彼女の身体は華奢に見えたが、その身体はしっかりと、俺の腕に女性を主張してくる。
その膨らみの感触と彼女から漂う女性の香りに、俺はおかしくなりそうだった。
しかし、歩行者の信号機が点滅を始めた事が、俺を引き戻してくれた。
俺は恥ずかしくなって、彼女の手を優しくどかして、お互いの身体を遠ざける。そして、信号を指差す。
「そろそろ信号が変わるよ。それに、素足だとシートの縫い目が痛いでしょ」
俺は、何を言っているのだろうか。彼女の足を触った事を誤魔化す言い訳としては、最悪だ。そもそも、そこは言い訳をしなくてもよかったのでは……。女性経験の無いふがいなさと恥ずかしさとともに、自己嫌悪が俺を襲ってくる。
彼女は遠ざけられても、こちらを向いて微笑む。幼さが残る少年のような彼女の顔は可愛い。しかし、彼女の顔をまっすぐに見る勇気は、俺にはなくなっている。
彼女に気を留めた時点で、俺の好みなのだろうが、今の俺は、理性が邪魔をして、それが真実だったのか錯覚だったのかも分からない。
信号が青に変わり、彼女は車を走らせる。
車から古い団地が見えだすと、その道は街灯はあるが、何処か薄暗く寂しい雰囲気へと変わっていく。
不意に彼女は、道路わきの小さなスペースに車を寄せて停める。
「私じゃダメですか?」
彼女の言葉に俺はドキッとしてしまう。俺は、自分の気持ちに問いかけるように、考えを巡らせる。
本心では、彼女を自分ものにしたいと思っているのに、俺の口から出た言葉は違った。
「歳の差を考えると無理だと思う。それに、周囲の人たちは反対をすると思うよ」
自分が情けない。俺は彼女との歳の差を理由に、ただ、周囲の人たちが思うであろう反応を想像し、問い詰められる事を怖れて、言い訳をしただけだ。
そして、それを自分が出した正しい結果として、認めようとしている。
一〇歳以上の歳の差の恋人や夫婦はいっぱいいる。それなのに俺は怖気づいてしまっている。俺は、こんなにも臆病だったのか……。
「今度、一緒に出掛けるだけでも出来ませんか?」
「出掛けるだけなら」
それでも、おしてくる彼女に、愛想のいい返事をしてしまう。
俺は、どうしようもない。キッパリと断る事すら怖れている。そして、彼女からの言葉が嬉しくて、断り切れなかったと、自分に言い訳をしようとしている。
俺は、彼女を見つめる。彼女は真剣な目で、俺を見つめ返す。その表情は、優しく、軽く微笑んでいる。
彼女は、何故、俺にこだわるのだろうか? 俺は、彼女の考えている事が分からない。それとも、分かろうとしていないのだろうか。
「連絡先を交換しよう」
このタイミングで、何故、そんな事を言ってしまったのかは、自分でも分からない。
彼女はその言葉に喜び、スマホを取り出す。自分から言い出した以上、俺もスマホを取り出し、彼女と連絡先を交換する。
そして、彼女は嬉しそうな表情で、車を再び走らせる。
彼女の自宅へと到着する。
玄関先で彼女の父親が腕を組みして待っている。彼の顔からは怒りの表情が見える。車を降りる前から、俺はその姿に恐怖した。やはり、俺は臆病なようだ。
車が停まり、降りると、父親が詰め寄って来る。
「少し遅いんじゃないか? うちの娘に何かしてないだろうな!?」
彼は言いがかりとも思える言葉を感情に任せて浴びせてくる。だが、実際のところは言いがかりでもない。あの時、我慢できずに襲っていれば、多くの時間を費やし、今頃は彼に殴られていた事だろう。
どこかホッとしている自分を情けなく思う。
俺は、彼に頭を下げる。
「彼女からあまり運転をさせてもらえないから、運転させて欲しいと詰め寄られて、少し悩んで、免許など確認するべき事をしていたので、少し時間を費やしてしまいました。すみません」
俺は、再び、彼に頭を下げる。
彼女を持ち出して言い訳をしている。最低だ。これには彼女も減滅した事だろう。そして、その言葉を放った自分を懲らしめたいほどに自己嫌悪をした。俺は、こんなにも最低な人間だったのだ。これでは、今まで女性が相手にしないのも納得だ。
彼女の父親は、彼女と話しをした後、「お店の人に、迷惑をかけてはダメだろう」と彼女を軽くいさめ、俺に頭を下げてくる。
彼は、父親として娘を過敏に心配したのだろう。それに対して、俺は最低な言い訳をしている。人前でなければ、今頃、自己嫌悪で泣き崩れている。
俺は後部シートに積んであったお土産を両手で持って降ろす。すると、そのお土産を彼女が受け取ってくれる。
彼女と目を合わせるのが怖い。
恐る恐る彼女の顔色を窺い、愛想笑いをしてみせる。彼女は、さっきの言い訳を気に留める様子もなく、俺に笑顔を向けてウィンクをする。
俺は、もう、何が何だか分からない。
その時、彼女と俺の手が触れる。ただ、ちょっと触れただけなのに、鼓動が速まり、ドキドキしている。俺は、こんな小さな事にも喜ぶようになっていた。
自分の気持ちに違和感を抱きつつ、俺は彼女がお土産を受け取ると、足早にその場を離れ、車に戻る。
帰り際に、彼女が俺だけに見えるように手を振り、スマホをかざす。まだ、父親も傍らにいるので、俺は頭を下げてから車に乗り込む。
そして、車を走らせると、ルームミラーに彼女一人がいつまでも見送っている姿が映っている。
俺は店へと向かう。
途中、信号待ちのタイミングで彼女からのメールが届く。信号につかまった間に、その内容を見ると、駅前のハンバーガー店で、待ち合わせたいと書かれていた。待ち合わせの日付と時間も確認しようとすると、信号が青に変わり、スマホを助手席に置いて、再び車を走らせる。
早く確認をしたいが、こういう時に限って、スムーズに走れる。しばらく走っていると、細くなった道で車が車庫入れをしているので、手前で車庫入れを終えるのを待つ。
何度も切り返しをして、なかなか車庫に入れられない車を見つめながら、この間に確認
してしまおうとも思ったが、確認するほどの時間はかからないだろうと、待ち続ける。
結局、確認して返信できるくらいの時間を費やされてしまった。
車庫入れを済ませたようなので、再び車を走らせる。
何故、時間がかかったのかが気になり、家の前を通り過ぎる際に覗いてみると、大学生くらいの男性が、車の中で助手席に乗せた女の子といちゃついていた。だた、運転が下手なようだ。
それなら、わざわざ、左ハンドルの外車なんて乗らなければいいのにと思ってしまう。年頃なのか、車体が大きく車高が低いスポーツタイプを乗りたがるのは分かるが、自宅の車庫ぐらいは、スムーズに入れられるようになってから車をエアランで欲しい。
くだらない事で時間を奪われたと思うと、少しイラつく。
その後、順調に車を走らせていると、急に眠気が襲ってくる。瞼を意識して開けていないと、自然と閉じてしまう。
こんな事は初めてだ。緊張して、眠気はおさまった気がする。
しかし、瞼が自然と閉じ、対向車のライトが瞼越しに明るく照らす。意識して目を見開くが、すぐに閉じてしまう。瞬きでもするように、瞼の開閉を繰り返す。
対向車のライトがチカチカと眩しく感じる。
これは、危険だ! 俺は、どこか停められる場所がないかと探すが、瞼がすぐに閉じてしまうの上手く見つけられない。
このまま道路に停車するしかない。俺はハザードを押し、ブレーキをゆっくりと踏み込み、停車させる。そして、手探りでシフトをパーキングに入れ、サイドブレーキを掛ける。
目を押さえ、シートに身体を預ける。
何だろう? 眠気ではないが、夢心地な気分がする。自分でも起きているのか、寝ているのかも分からない感覚。
眠くはないという感覚はあるのに、寝ている気分だ。どうなっているのかが分からず、恐怖だけが襲ってくる。
怖い、怖い、怖い、……。
…………。
………………。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――。
決まった間隔でなる機械音と、目を刺激する眩しさ。何かに引き戻されるような感覚が
する。俺は重く感じる瞼を開く。
ここは何処だ。寝かされている俺を覗き込む数人の……。その姿は医者と看護師か……。
頭が朦朧とする。何故、こんなところにいる。
あの子との約束があるのに……。
約束……。
そんなはずはない。両親が亡くなると、家業を続ける事はできずに店を閉じた。そして、派遣社員として自宅と会社を行き来するだけの生活。独身のまま、ただ、過ごしてきたのが今の俺だ。
あれは、過去の記憶なのか? 『間宮 結奈。二一歳』しっかりと憶えている。しかし、家業を手伝っていた時に、そんな子と知り合った記憶はない。
夢だったのか? それにしては、リアルすぎる。あの子の表情も触れた感覚も、彼女の香りすら鮮明に記憶している。
今は現状を把握しよう。
俺が寝かされているベッドは手術台なのだろうか。天井に大きな照明がある。でも、何でこんなところに寝かされている。
車を停めた後に、衝突でもされたのか? それにしては、身体に痛みはない。瞼が勝手に閉じてしまう病気だったのか? それも違う。今はハッキリと瞼を動かせている。なら、何で俺はここにいる。
そもそも、車を停めたり、瞼が開かなくなったのは夢ではないのか?
現実だとしたら、スマホを確認しなければならない。周囲を見渡しても、俺の持ち物は何処にも置かれていない。医者と看護師が慌ただしく動いているだけだ。
夢だったのか? 現実だったのか? 分からない。
夢なら夢でもいい。もう一度同じ夢を見たい。
さっきから、大丈夫ですか? と医者と看護師が話しかけてくる。大丈夫だと言ってあげたいが疲労感があって、話すのもおっくうだ。それに声が出る気もしない。
少し、眠くなってきた。
もしかしたら、今が夢の中なのかもしれない。何だかそんな気がする。なら、もう寝てもいいだろう。
今が夢なのか? 夢を見ていたのか? もう、どうでもいい。
ただ、あの幸福感を妨げられた事が悔しくてたまらない。何故、あのままにしておいてくれなかったのだろうか……。
俺はもういい。夢でもいいから……あの幸福感の中に帰りたい……。
ピィィィー。
ああー、うるさい。子の機械音を止めてくれ。
少しずつ音が小さくなっていく。
次に起きた時は、あの子との約束の日付に間に合うのだろうか。
閉じた瞼に映る光も徐々に薄くなり、暗くなっていく。そして、何も聞こえなくなった。こういう状態が、無と言うのだろうか。寒くもなく熱くもなく、何も感じない。ただ、無重力の中を浮いている。そんな感じだ。
俺は闇に包まれていく。あとは意識を手放して、眠ればいいだけだ。
……。
…………。
………………。
お読みいただきありがとうございます。
誤字脱字、おかしな文面がありましたらよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。