第一章 1-3
辺りは暗くなり始め、茂みの向こう側が次第に騒がしくなる。
「ミーティス殿下」「姫様」などと自分を呼ぶ声が聞こえる度に、ミーティスは独りひゃっと井戸の陰に身を縮めていた。
……そう。
ミーティスは今、茂みの反対側、農奴達が耕す農地の端にいるのだ。
「待たせたな」
戻ってきた彼は、十四の少年の姿に似つかわしくない大人びた口調で言う。
中身はデビュタントを迎える十六歳なのだから仕方ないが、どうしても違和感が拭えない。
「やっぱりここは二年前の世界で間違いないみたいだ。去年死んだはずの父さんも家にいたし。しばらく出稼ぎにいくことも言ってきた。作戦決行だ」
「その前に、一つ聞いてもいいかしら?」
ミーティスが言うと、彼は「何だ?」と素っ気なく返事をする。
「さっき、あなたも殺されたと言ってたわよね。一体誰に?」
「あー」
途端に青ざめた彼は、ぶるっと身震いしてから言う。
「一瞬しか見えなかったけど……知らない男だったな、見たことないくらい恐い顔した。真っ黒い髪に真っ黒い目の、悪魔みたいな奴だったよ」
「まあ怖い。でも、あなたがわたくしを殺したときの顔も、とーっても怖かったのよ」
「……ああそうかよ。ほら早く行くぞ」
***
遡ること数刻前。
「協力しろって言っても、一体何をするの?」
夏の離宮の庭の隅。
芝生にちょこんと座るミーティスは、ルカを見上げながら首を傾げる。
するとルカは、責めるでもなく淡々とした口調で言った。
「まあ聞け。俺が思うに、この国がおかしくなったのは全部姫さんが皇帝に即位したのが原因だ」
「ええ。同感だわ」
「……ちょっとくらい否定してもいいんだぞ」
呆れ返るルカに、ミーティスは堂々と胸を張って言う。
「だって、わたくしは皇帝になる器ではないもの!」
「…………」
一瞬言葉を失ったルカだが、んんっ、と咳払いをして続ける。
「これから先の二年間で起きる戦争、疫病、飢饉の三重苦さえなければ、農奴達だって反乱を起こさなかったはずだ。そして、それらを防ぐには現皇帝マクシミリアン陛下の力が必要だろ? だから俺達で半年後に起きる皇帝の死を防ぐんだ」
「お父様を……!」
キラキラと翠の瞳を輝かせるミーティスにルカは「そうだ」と続ける。
「巷じゃ陛下の死因は『北方視察中の凍死』ってことになってるけど、それは間違いないのか?」
自分に対しては『おまえ』とか『姫さん』なのに、お父様はきちんと陛下と呼ぶのが若干腑に落ちないが……ミーティスは気を取り直して答える。
「そうね……。凍死には違いないんだけど、実際はすごく寒い冬の朝に自室のベッドで亡くなっていたの。どうも暖炉に火が入っていなかったみたいで」
「はあ? 皇帝にしては随分おっちょこちょいな死に方だな。そりゃあ改竄して公表したくもなるか」
「余計なお世話よ」
アイズベルグの冬は寒い。
まともな暖房器具を持たない農奴などは、屋内でも毎年凍死者が多数出るほどである。
宮殿は民家よりもかなり保温性が高く造られているはずだけど、暖炉を使わずに夜を明かせるほどではないのだ。
「とにかく、それなら話は簡単だ。陛下が死なないようにちゃんと火をくべてやればいい」
「だけど、お父様の寝室にはそう簡単に入れないわよ? わたくしですらお父様が亡くなった日に初めてその場所を知ったくらいだし」
「ま、人間、寝込みを襲われるのが一番弱いっていうからな。陛下もそれなりに気を付けてたんだろ。それより問題はどうやって俺が宮殿に出入り出来るようにするかだな……」
今更ながら、至極冷静にこの状況に対応しているルカにミーティスは違和感を覚える。
何故なら大抵の農奴には教育の機会がなく、読み書きすらも出来ない者がほとんどのはずなのだ。
なのに彼は、かなり頭の回転が速いように見える。
ミーティスが死んだ原因である農奴反乱も、ルカが率いるようになってから破竹の勢いで宮殿にまで攻め込んできたというし……。
そもそもヴォルコフと名乗っているのも不思議だ。
普通、農奴に姓は無いはずなのに。
――ルカ・ヴォルコフ、一体何者なのかしら?
「よし、こうしよう。俺は一旦家に帰って状況を確認してくるから、姫さんは茂みの向こう側でしばらく身を隠しててくれ。日が暮れても姿が見えないとなれば当然騒ぎになるだろうから、頃合いを見て俺と一緒にこっち側に戻るんだ。俺は道に迷った姫さんを助けた恩人として、新しく姫さんの従者に招き入れられる」
「なるほど、あなたをわたくしの従者にね……」
正直全く気は進まないが、こんな状況では同じ境遇の彼と共に行動した方がいいのは確かだ。
そして、農奴である彼と共に行動するには、自分の従者にしてしまうのが手っ取り早いというのもわかる。
まあ……自分を殺した殺人犯を手元に置くなんて、本当の本当に気が進まないけれど。
「わかったわ。あなたの言う通りにしてみましょう」
ミーティスは無能だが、自分が無能であることを知っている。
それは、美しい外見を除くと、唯一の長所であった。
意地を張らずプライドを捨て、臆せずに他人の力を借りる。
高貴な身分になればなるほど意外と難しいものだが、ミーティスは自分一人の力で未来を変えることなど不可能だということをよく理解していた。
「これから宜しくお願い致しますわね、ルカ」
だから、とびきりの笑顔で手の甲を差し出したのだ。
「……は?」
「早くして下さる?」
「何を?」
「何をって、キスに決まっているでしょう」
きょとんと立ち尽くす彼にそう言うと、途端にルカの耳が赤く染まった。
ミーティスはそれを見て、「あらまあ」と少しだけ皇女の威厳を取り戻す。
「知らないのなら教えてあげるわ。従者は主人への忠誠を誓うとき、手の甲に口づけをするものなのよ?」
「バカにすんな。それくらい知ってる」
ふふん、と鼻を鳴らすミーティスに、ルカが悔しそうに顔を顰めて言う。
「だからって、わざわざやる必要はないだろ」
「ルカったら、意外と奥手なのね」
「いっそ今すぐもういっぺん殺してやろうか……」
ギリギリと歯を食いしばりながら言われると、さすがに冗談に聞こえない。
だって前科があるし。
ミーティスはすぐさま「ひいっ」と手を引っ込めたのであった。
***
そして日は暮れていき。
「……ああそうかよ。ほら、早く行くぞ」
「ふぇ?」
ミーティスはルカに手を引かれて、再び茨の茂みを掻き分けていた。
さっきは手の甲にキスするのを拒んだくせに、ためらいなく手を握ってきたルカに不覚にも少しドキリとしてしまう。
究極の箱入り娘であるミーティスは、基本的に殿方への耐性がゼロなのだ。
ミーティスはどぎまぎしながら先を行く彼の頭を見上げる。
よく見れば、彼もほんのりと耳の先を赤く染めていた。
どうやら異性に耐性が無いのはお互い様のようである。
殺人犯と思って身構えていたけど……こう見ると、ただの少年だ。
というか、なかなかの美少年だ。
ミーティスは慌ててぶんぶんと首を振る。
耐性が無いとはいえ、自分を殺した相手に一瞬でもときめいてしまうなんて。
――もしかして、こうやって貴族の令嬢にでも取り入って、あっという間に反乱を広めたのかしら! なんて恐ろしい!
無論、全くそんなことはないのだが……。
勘違いしたミーティスは、勝手に気合いを入れ直してペチペチと頬を叩く。
未来を変えるためには、これからしばらく彼と協力していかなければならないのだ。
いちいち意識していたら身が持たない。
「そうよ。わたくしにはイヴァンという未来の婚約者もいるのだから……」
「あ? 婚約者?」
「いえ、何でもないのよ」
「そうか。もうすぐ抜けるぞ」
ようやく茂みを抜けて離宮の庭に戻ってくると、大勢の使用人逹が提燈を片手に走り回っていた。
「ここだ! ミーティス殿下がいらっしゃったぞ!」
すぐに、そのうちの一人がミーティスの姿を捉え、大声で人を集める。
しばらくして。
「姫様! 心配しましたわ!」
「ご無事で何よりでございます」
駆け寄ってきた二人の侍女の姿に、ミーティスは思わず唇を震わせたのであった。