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第一章 1-1

※残酷描写があります

「しばらくの辛抱だよ」


 まだ日も昇らぬ薄闇の中で。


「帰って来たら、僕達の出会った大広間で婚儀を挙げよう」


 そんな不吉な台詞を大真面目に囁いて笑う婚約者に、ミーティスは嗚咽を堪えて鼻を赤くする。

 しかし彼は歩みを止めてくれなかった。

 外套のフードをミーティスの目の下まで深く被らせると、その手を引いて裏手から宮殿の外に連れ出す。


 空は鉛を張ったような曇天でひどく寒かった。

 正門の方から、剣がぶつかり合う音や断末魔のような叫び声が絶え間なく聞こえてきて、ミーティスは思わず耳を塞ぐ。

 宮殿の裏には、一台の質素な馬車が停められていた。


「さあ乗って」

「い、嫌よ! イヴァンまで死んでしまったら、わたくしは……!」


 ミーティスは縋りつくように彼の腕を掴む。

 翠の瞳からぽろぽろと雫が溢れて手の甲に落ちた。

 けれどその手も優しく振り解かれてしまう。


「大丈夫だよミーティス。宰相殿の話では、農奴反乱の波は帝都を中心に起きているみたいなんだ。しばらく我がエローヒン領で身を隠しているといい。父上が守ってくれるはずだよ」

「ならばイヴァンも一緒に!」

「それは無理だよ。赤痘病のせいで、まともに戦える兵士が少ないんだ。剣術の覚えがある者は全員宮殿に残らないと。……そんな顔しないでミーティス。相手は戦い方も知らぬ農奴だよ? 帝国軍が負けるわけないだろう」

「でも」


 イヴァンは泣き止まないミーティスの手を取り、そっと口づけた。

 彼の袖口でエメラルドのカフスボタンがキラリと輝いて、幸せだった半年前のデビュタントの光景がふと蘇る。


「あの日もそのボタンをつけていたわ」

「我が家に代々伝わる幸運のお守りなんだ。これをつけていたから、あの日ミーティスと出会えたのかもしれないね」


 その時。

 表からドゴォン、と砲撃の轟音が鳴り響いた。

 忽ち火薬の焦げ臭い匂いが立ち込める。


「ごめんミーティス。もう時間がない」

「ひやっ」


 イヴァンはとんっと優しくミーティスの肩を押すと、自分は乗らずに馬車の扉を閉めた。


「出してくれ」

「イヴァン、待って、イヴァン――!」


 御者が鞭を打ち、馬車は猛スピードで動き始める。

 窓から身を乗り出して後方を見ると、いつもと変わらない濡れたような漆黒の瞳と目が合って。


 けれどすぐに、視界は森に囲まれた。



 ***



「あぁ、どうしてこんなことになってしまったの!」


 舌を噛みそうなほど揺れる馬車の中で、ミーティスは独り泣き崩れる。

 虚空に問いかけたものの、その答えはわかっていた。

 何もしなかったからだ。

 ひたひたと迫る危機に気づいていなかったわけではない。

 戦争も疫病も飢饉も、頭の切れる統治者が早くから手を打っていれば、ここまでの被害を防げたはずだ。

 例えばそう、父のような。


「……お父様、何故死んでしまったのですか」


 ちょうど今朝と同じような二年前の凍てつく冬の朝。

 父であり偉大なる石帝と呼ばれた前皇帝マクシミリアン・ソーン・アイズベルグが崩御した。

 そこから全てが狂っていったのだ。


 アイズベルグ帝国唯一の帝位継承者であったミーティスは、その場で次期皇帝となることが決定してしまった。

 しかしミーティスは、生まれ持った美貌以外は何の取り柄もない残念皇女なのだ。

 父の存在を恐れていた諸外国は、ミーティスがへっぽこであると知るや否や、ここぞとばかりに次々と侵攻してきた。

 結果、数多の戦争が勃発し国力はじりじりと削がれていった。

 さらに、無秩序に侵入した外国人からもたらされたと思われる新種の疫病、赤痘病の蔓延。

 追い打ちをかけたのは、冷夏による大飢饉だった。


 一体どれくらいの民が亡くなったのだろう。

 もはや犠牲者を数える余裕すらこの国にはなかった。

 ただ、宮殿から見える限りの枯れた農地が、日を追うごとに急ごしらえの墓標が立てられて針山のようになっていくのをみるに、その数は尋常なものではなかったはずだ。

 無能な皇帝に、人々は激怒した。

 特に農民兵として戦地に駆り出されながら、飢饉や疫病に晒され続けた農奴達の怒りは凄まじく、脱走農民兵や行き場を失った農奴達による反乱が相次いだ。

 その火の手は、今朝ついに宮殿にまで到達したのだ。


 こうして帝国は外部と内部から瓦解した。 

 わからないから。

 出来ないから。

 そうやって学ぼうともせずに危機を無視し続けた女帝ミーティスのせいで、今頃宮殿は火の海だろう。


「全部、全部――わたくしが、皇帝になんてなったからよ!」


 どれだけ涙を溢しても、傍観していた罪は無くならないし、亡くなった人は戻らない。


 お父様が亡くならなければ。

 自分が皇帝に即位しなければ。

 もっと家庭教師の話をちゃんと聞いていれば。

 全てをもう一度やり直せたなら――。


 ミーティスが空に三角を描き、帝国正教会に伝わる三柱みはしらの神々に祈りを捧げた時だった。


「っ!?」


 突然の激しい揺れ。

 馬のいななきと御者の叫び声が聞こえたと思ったら、ミーティスの視界に火花が散った。

 馬車が横転し、壁にしこたま頭を打ちつけたのだ。

 口の中に錆の味が広がり、こめかみから垂れた血がぬるりと頬を伝わった。

 意識が揺らぎ、脈打つような頭痛に顔をしかめると、突如ダンッと馬車の扉が蹴破られた。


「いたぞヴォルコフ! お前さんの予想通りだ!」


 粗野な男のしゃがれ声が響く。


 ――ヴォルコフ……? あぁ、農奴反乱を導いているという青年のことね。


 確かイヴァンが言っていた。

 各地でゲリラ的に起きていた農奴反乱だが、数ヶ月前に突然現れたルカ・ヴォルコフという青年に主導されるようになってから、まるで一国の軍隊のように統率の取れた動きをするようになったのだとか。

 帝国軍も相当手を焼いていたらしい。


 しかし、なぜその反乱の首謀者たるルカが宮殿での戦闘を離れてここにいるのか。

 既に自分が逃走したという情報が流れていたのかしら、とミーティスはやけに平静と考える。

 もはや動く気力もないし、自分を守ってくれる人達も皆死んでしまった。

 きっと……今頃はイヴァンも。


 ――わたくしはここで殺されるのね。


 不思議と恐怖は無かった。

 死んでも償いきれない罪を背負って生きていくことほど、辛いことはない。

 これはきっと、神が与えた救いなのだろう。

 ミーティスは運命を受け入れて、再び宙に三角を描く。


「うるさい、黙れ」


 若い男の声。

 彼がルカ・ヴォルコフだろうか。

 血が通っていないような冷淡な言い種に、ぞっと身の毛がよだつ。

 しかし嗄れ声の男には慣れっこなのか、まるで気にした様子もなくミーティスを舐めるように見つめて言う。


「ほぅ、こりゃあ噂に違わぬ美人だ。ちょいと遊んでから始末してもばちは当たらねぇだろ」

「ふぇっ?」


 覚悟を決めたはずのミーティスだが、思わず目を見開いた。


 ――殺されるのは甘んじて受け入れるけれど、犯されるなんて聞いてないわ!


 まだイヴァンとも、キスさえしたことないのに。


「この外道……!」


 唯一の自慢である美貌が仇となるだなんて。

 ミーティスは男を忌々しく睨み付けて絞り出すように言う。しかし、男はまるで怯まずに厭らしい笑みを深くした。


「お、やっと目が合ったな女帝さんよぉ。怯えた顔も悪くねぇ」

「嫌よ、離して!」


 男はミーティスの腕を乱暴に掴んで馬車から引きずり出した。

 ミーティスは地面にしがみついて必死に抵抗する。


「しっかし、俺たちゃこんな嬢ちゃんのために今まで地代を納めてたのかと思うと情けなくなってくるぜ。なぁヴォルコフ?」

「……黙れと言ったはずだ」


 ドスッと言う鈍い音。

 次の瞬間には、嗄れ声の男が地面に伸びていた。


 ミーティスはひゅっと息を呑む。

 唇が戦慄いて叫び声すらあげられなかった。

 出来ることと言えば、宙に三角を描いて神に救いを求めることだけ。


「神様なんていないぞ」


 凍てつくような声に恐る恐る顔を上げると、狼の如く金色に輝く双眸と目が合った。


 ――この目、どこかで……。


 世にも珍しい瞳なのに、なぜか既視感に襲われて目が離せない。

 それになぜこの青年は――殺されるのはこちらの方なのに――こんなにも苦しそうな顔をしているのだろう。


「じゃあな、()()()


 彼はそう言うと、およそ戦闘向きとは思えない農作業用の鎌形短剣ファルシオンを胸の前に構えた。

 ギラリ、とその切っ先が光った途端、ミーティスの脳裏にある少年の顔が浮かびかけた。

 と同時に。


「――かはっ」


 頸動脈から噴き出す大量の血飛沫。

 一秒遅れて、焼けるような首の痛みに気がついて。


 さらに一秒後には。


 何も見えなくなっていた。

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