9.彼女 誤解を招いて走り出す
深沙央さんは俺とメグさんに見てほしいものがあるらしい。
そうして案内されたのは駐在所の浴場の手前にある廊下の一角。ここにシーカとエリット、それに椅子に座らされた少女が一人。
少女は昨日、元魔王の側近が置いていった子だ。エリットや他の女の子の証言から、側近に連れていかれた少女だとわかった。
問題は昨日から一言も話さないということだ。目は宙を見つめたまま。食事を与えれば少しくらいは食べてくれるので死ぬことはないだろうけど、これは異常だ。
エリットの話では、彼女はニセ魔王に監禁されているあいだも、こんな状態だったという。さらに不思議なのは、唯一、血を吸われていなかったということだ。
「この子に変化はあったのか?」
俺が聞くとシーカは言った。
「いいえ。昨日から何も。名前や家がわからなければ親元に帰すことも、迎えを呼ぶこともできません。保護した38人の少女のうち11人はこの村や近隣の村の出身だったため、既に親元に戻っています。ほかの子については今日から迎えが来ます。ですが、この子の場合は、どうしていいものか」
シーカは眉間にしわを寄せた。
「保護した少女の十名ほどが、ここに留まることを望んでいます。怖い思いをしたので、強い勇者様の近くにいたいのです。私の妹も血を吸われたショックから立ち直っていません。この子がこうして自我を喪失しているのは、酷い目に遭ったからなんだと思います」
ニセ魔王を倒したからといって、全てが元に戻るというわけではないんだな。
「深沙央さん、俺に見せたいものって何なんだ?」
俺が聞くとシーカは、ちょっとだけ顔を赤くした。
「深沙央様、どうして男である康史様を連れてきたのですか?」
「だってスゴイ魔力の持ち主だから、何かの役に立つかなって。大丈夫よ。康史君には私がいるもの。ほかの子に発情なんてしないわ」
「発情……そうですか。なら安心ですけど」
会話の意味がわからず深沙央さんの顔を見る。深沙央さんは頷いた。
「今朝、この子をお風呂に入れてあげようとしたの。そうしたら妙なものが身体に張り付いていたのよ」
「妙なもの?」
そのあいだにも、シーカは女の子の上着のボタンを上から外していた。無抵抗な子になんてことを……ン?
その子のブラが少しだけ見えるところでシーカは手を止めた。理由は簡単。女の子の胸元には平べったい赤い宝石が張りついていたのだ。
これを見せるためにシーカは、少女による少女の上着のボタンを外していたんだな。
「この宝石は?」
俺が聞くと深沙央さんは溜息をついた。
「私にも分からない。分かるのは宝石の中に強い魔力が込められていることくらいよ。取ろうとしても取れなかった。康史君、宝石から感じとれることはない?」
う~ん。女の子の胸元を凝視しても、分からない。
エリットから少女の事情を聞いていたメグさんがやってきた。
「私の回復魔法でも、心の問題までは治せません。この宝石も初めて見ました。上等なマジックアイテムだと思われますが、対処法は分かりません」
魔法使いでも無理なのか。俺は少女の胸元の宝石に手を伸ばし、触れた。
そのとき宝石から、紋章が浮かび上がった。
「この紋章、魔杖に刻んであった紋章と同じよ」
深沙央さんが気付く。さらに宝石の色が青に変わった。紋章は消え、そして何も起こらなかった。
「何だったんだろう」
そう言いながら、みんなに顔を向けると侮蔑の視線を送られていた。
「よく躊躇もなく胸元の宝石を触れましたね」
シーカが怯えた目をしている。だって、こういう状況になったら触るじゃんかよ。
「あ……う」
そのとき少女が初めて声を出した。
「喋ったぞ」「喋ったわ」「喋りましたね」
少女は俺に手を伸ばしてきた。俺は皆を代表する形で少女に聞いた。
「きみ、名前は?」
「あ……うん。マーヤ」
「そうか、マーヤか」
俺はなんだか嬉しくなった。今日から少しずつでも喋ってくれればいい。
マーヤは立ち上がると俺に抱きついた。
「この、おっきな、魔力は……私の、婚約者さま……」
「なんだって?」
俺は混乱した。アハハ、誰と間違えているんだうね。深沙央さんに助けを求めようとしたら……
「康史君のバカ! ほかの女と寝ていたのは事故だわ。でも婚約なんて酷過ぎる。婚約者がいるのに私に告白したの? 告白して三日目で破局なんて!」
涙目で怒っている。この怒りは本物だ。でも間違いなんだ。俺はこの世界に来て三日目だ。誰かと婚約する暇なんて無かった。
「深沙央さん、聞いてくれ」
「聞かないもん。康史君はメグさんの胸をチラチラ見てるし。私のことなんて!」
違うんだ深沙央さん。深沙央さんは走って出ていってしまった。まずは誤解を解こうとメグさんに話しかけようとするが、メグさん、頬を紅潮させている。
「私は康史さんのことを可愛い年下男子だと考えておりました。でも康史さんが男女の仲を御所望するのなら考えを改めます。そのための時間をください」
違うんだメグさん。メグさんは走って出ていってしまった。こうなったら周囲の協力が必要だと感じ、シーカに話しかけようとするが、シーカ、目をグルグル回している。
「や、やっぱり、女の子たちの、噂は本当だった……ひゃあ、これが修羅場。男の発情期……ひゃうっ」
違うんだシーカ。俺はシーカの肩をつかんだ。すると「ひゃうんん!? わ、私にはまだ、そういうの早いですから!」と走って出ていってしまった。
俺は叫ぶ。
「なんなんだ朝から! この身に余る不幸は!」
するとエリットは手で顔を覆い、手をどけて変な顔を披露した。
「いないいない、ばぁ~。いないいない、ばぁ~」
「エリット、それは?」
「はい。身に降りかかる不幸を、いないことにする呪文です。私には魔力がないので効果はありませんが気休めにはなるかと。さぁ御一緒に」
だから違うんだエリット。それは泣く子を癒そうとする大人の気遣いだ。いや、俺はすでに泣きたい気分だ。でも癒されない。大人の気遣いに効果なし。
マーヤは俺に抱きついて離さない。どうなってんだ。
そんなとき、玄関に誰かがやってきた。
「大変だ! ネクスティ要塞が落とされた!」
たしか巡回兵の声だ。今度は何があったんだ。
応接室に俺と深沙央さん、メグさん、シーカが集まった。巡回兵の話を聞くためだ。マーヤはエリットが面倒を見てくれている。
「巡回兵さん、遠方の村に少女奪還の報を伝えに行ったのではなかったのですか?」
シーカの質問に巡回兵は頷いた。
「もちろんだ。その村でネクスティ要塞が吸血魔の軍勢に落とされたって情報を得た」
シーカとメグさんは表情を曇らせる。
「シーカ、ネクスティ要塞って?」
「この国と吸血魔の国の国境線近くにある要塞です。周囲の地形を生かした難攻不落の要塞で、吸血魔は手をこまねいていたはずですが……」
そんな要塞が、このたび陥落したってわけか。シーカは頭を抱えた。
「この要塞が落ちたことは国にとっては痛手です。大がかりな部隊を編成して要塞奪還に向かうでしょう。でも時間を要します。そのことは吸血魔も分かっているので要塞を拠点とし、迎撃に当たると思われます」
「この国の内陸まで侵攻してくるってことは、今のところ無いのね」
深沙央さんの言葉にシーカは頷いた。
「懸念されるのは要塞近隣の村々です。十中八九、吸血魔に襲われます。破壊に略奪。それに……」
「それに?」
俺の質問にシーカは躊躇してから答えた。
「吸血魔はその名のとおり血を吸うこともあるため、人も連れ去ります。とくに若い女性は標的にされます。ニセ魔王のときよりも被害者は多くなるかもしれません。場所からして最初に狙われるのはプリンカ村です」
テーブルの上には既に地図が広げられていて、シーカは要塞とプリンカ村に丸を描いた。
「その村は、私の出身地です」
メグさんだった。顔色は青く、硬直している。深沙央さんは立ち上がった。
「だったら今すぐ行かなくちゃ! 聖式魔鎧装の速度なら!」
深沙央さんは廊下に出ようとしていた。
「待ちな!」
声の主はアラクネだ。紫毛の猫に戻ってる。いつのまに部屋に入りこんだんだ。
「深沙央、聖式魔鎧装で長く早く走るほど、オメぇの体力は消耗する。力を存分に出せない状態で吸血魔と戦う気でいるのか」
「でも!」
「テメぇは9つの異世界を一人で救ってきたつもりでいるのか? いつも仲間がいたから救えたんだろう。仲間と共に戦え。いいな」
アラクネに一喝された深沙央さんは俯いたままテーブルに戻ってきた。
アラクネは巡回兵に聞いた。
「敵の勢力は?」
「え、ああ。敗残兵の話では使い魔のネズミ兵が二百から三百」
「要塞を落とすには、あまり多いとは言えない数だな」
「しかし、それらを率いているのは吸血魔の三大伯爵の一人、ライオラだ」
シーカは再び頭を抱えた。そんなにヤバい奴なのか。シーカは悲壮感漂うメグさんを見て言った。
「戦うとしても、軍と合流してから挑むべきです。しかし数日も待っていられません。襲われるかもしれない村だけでも助けに行きましょう。それが騎士の務めです」
シーカは俺と深沙央さんに向き直った。
「勇者様、今回も力を貸して下さい」
俺はもちろん、深沙央さんは強く頷いた。