時間を斬る2
正面から向かってくる薄く長い刃。縁に彩られた波紋模様。
その形状は間違いなく日本刀だった。
時代劇やチャンバラに使う偽物とはまるで異なり、日光を反射して淡い光を纏っている。
それは、音もなくしなやな弧を描き、俺の身体に迫っていた。
頭で考えるより先に、刀身を避けようと、咄嗟に後ろに体重をかける。
刀は服を切り裂き、皮膚に到達する寸前で宙を斬った。
振り下ろされた一撃をギリギリでかわしたが、そのまま後ろに倒れる身体。バランスを取ろうと無意識に右腕を伸ばす。
……ッ、!
右腕を伸ばしきった時、俺の身体はありえない体勢で静止していた。
後ろに向けてバランスを崩したのに、倒れることなくその場に留まっていたのだ。
伸ばした右腕は空中で止まり、まるで、見えない何かに挟まったように動かない。
見えない何かを振りほどくように、全身を使い必死でもがく。
「く、っ……。なんだよこれ!?」
「抗うだけ無駄よ。この空間の時間を斬ったから、あなたはもう抜け出せない」
少女はそう言うと、もう一度刀を振り上げた。
このままじゃ殺される。
いっそう必死に、全身を使って右腕を引っ張る。
その拍子に、破れたポケットの隙間から紅い羽根の箱がこぼれ落ちた。
「…………!」
地面に落ちた小さな透明の箱を見て、少女の動きが何故かビクリと止まる。
と、同時に。
空中に固定されていた右腕が解放され、込めていた力が一気に体重に加わった。そのまま俺の身体は、吹き飛ぶように後ろに倒れ込んだ。
急いで体勢を建て直し、少女の様子をうかがう。
紅い羽根の入った箱を見てから、何故か頭を押さえ込み下を見つめている少女。
その様子から、俺への注意は完全に失われているようだ った。
今の俺には、いきなり切りかかってきた人間に、わざわざ情けの声をかける余裕なんてなかった。
少女から見えないように手を伸ばし、慎重に箱を拾い上げると、全速力でその場から離れていく。
逃げる途中ですれ違った人達はみんな、その場で不自然に立ち尽くしていた。よく見ると、顔色ひとつ変えずにどこか一点だけを見つめている。
間違いない。一昨日と同じく、また時間が止まっている。
全力で走り続け、呼吸が乱れ始めた頃に後ろの様子を再びうかがった。
遠目に見える少女は地面を見つめ、思い出したように俺が逃げた方を向くと、刀を鞘に閉まおうとしていた。
――。
刀が鞘に収まりきる。同時に、周囲の音と共に時間が動き出した。
遠くでその様子を観察していた俺に気づいた少女は、こっちへ向かい走ってきていた。
慌てて俺もさらに距離をとる。何度か同じようなことを繰り返しいるうちにあることに気づく。
どうやら、彼女は走るのが得意ではないらしい。
全速力で走っているのだろうけど、正直言って足は薫流より遅い。
時間を止められる様子だったけど、身体能力に関しては年相応なのかもしれない。
もしそうなら、あの刀さえ奪えば、彼女と優位に交渉出来る可能性がある。
最初に俺に切りかかってきた時に、言っていた言葉。
『 熊田さんを殺したあなたを、逃がしはしない』
俺はこの言葉の意味を知りたかった。
少し離れた距離から間合いを保ちつつ、少女に向けて問いかける。
「おい、お前はなんで俺を狙うんだよ!」
「あなたが熊田さんを殺したからよ。一昨日のバス事故を起こしてまでね!」
フラッシュバック。
少女の一言で、俺の脳裏に凄惨なバス事故の情景が蘇る。
悪い記憶を振り払うように、声を絞り出す。
「……確かに俺はあの事故を体験した。俺は仲間を助けるだけで、他は何もできなかった。でも、人を殺すような真似はしてない!」
何一つ嘘をついていない俺の言葉。
少女は一瞬迷った様子を見せ、
「……私には、あなたの言っている事が本当か判断できない。だから――」
少女は苦い顔を浮かべながらも、腰に当てられた刀を引き抜いた。
その瞬間に、世界は再び時間を失った。
「これ以上犠牲を出さない為にも、あなたには手加減できないの!」
さっきとは比べ物にならない速度で、少女は俺に飛びかかってくる。
このままじゃ逃げきれない。素手で刀を相手にするのも不可能に近い。
こうなったら一か八かだ。
ポケットから紅い羽根が入っていた箱を取り出し、少女の後方に向けて思い切り放り投げる。
箱は予想以上の速度と高度を維持し、空中を飛んでいく。
「あの中には、さっき俺が落とした羽根が入ってる。お前、紅い羽根が欲しいんじゃないか?」
飛んでいる箱を指さす。
こんな見え透いた罠にかかるわけがない。俺自身が一番そう思っていた。
でもあの時、少女は落ちた羽根を見つめ、その場に立ち止まるほどの何かを感じていたように見えた。
俺の思惑通り少女の視線は俺から外れ、ちょうど少女の前方を飛んでいる箱に移っていた。
少女が箱を取りに行く隙に、どこか隠れられる場所を探そうとする。
しかし、少女には箱を取りに行く様子はなく、箱の軌道を確認すると、刀を大振りに空へ向け、弧を描いた。
まさか刀で叩き落とそうとでも考えているのか?
投げた本人が言うのもなんだが、そんなことをすれば羽根が傷つきかねない。
しかし少女は、箱が自分の手前に来るより明らかに早く刀を振り下ろした。
かなり遅れて、箱が少女の上を通り過ぎようとする。
……はずなのに、箱は空中で静止していた。
箱はちょうど刀が空を斬っていた場所で止まり、大きくジャンプした少女の手のひらに掴まれる。
「どういうつもりか分からないけど、この羽根は私が預からせてもらうわよ」
箱を開ける少女。しかしその中身は小さな葉っぱ1枚のみ。
遠目からでも、少女が目を丸くした表情を浮かべたのが分かる。
その一瞬の隙を利用して、俺は近くの茂みに飛び込んだ。
地の利に関しては俺の方が有利だった。
予想外の出来事に、少女は俺を見失っている。
そのまま、周囲の木々を利用し、少女の死角を辿って、手早く公園の管理施設まで隠れていく。
目の前にある木製の扉。子供の頃には簡単に開けられたはずなのに、何故か異様に重くなかなか開かない。
年代物だが、周りを見てもどこも錆びていないし、鍵もかかっていない。
もしかすると、これも時間停止の影響なのか?
そんなことを考えていると、扉は急に勢いよく開き、周りの時間が動き出す。
窓から見ると、少女は刀を鞘に収め、俺の姿を探しているようだった。
さっきのように急に速度を上げられたら、俺にもう一度刀を避ける術はない。
なんとかここにいるうちに作戦をねらないと。
あの刀は、俺の服をいとも簡単に切り裂いていた。相当の重量があるはずだ。
女子高生がそう何度も振り回せるとは思えない。
少女を疲労させ、体力を消耗した隙に刀を奪い取る?
その作戦を実行するにしても、丸腰では何も太刀打ちできない。
改めて管理施設の中を見回した。
管理施設といっても、二階建てのわりに、大人一人がギリギリ住み込みで働いていたほど小さな小屋だ。今は無人になった施設の中を散策し、何か武器になりそうな物を探す。
しばらく散策した後、貯水槽のある屋根に上がり、そこで頑丈そうな枝を見つけた。
これを使って刀に対抗する。
小さい頃はここで枝を見つけると、よくチャンバラ紛いのことをしていた。
真剣相手に勝機はゼロに近いけど、俺の情報がどこまで知られているのかわからない。いつまでも逃げ続けることはできないだろう
。
屋上から公園を見回していると、ちょうど俺を探していた少女と目が会う。彼女は真っ直ぐに、施設へと向かってきていた。
少女の方も、俺が少女を見つけたことに気づいたようで、そのままの姿勢で走りながら刀を引き抜いた。
――。
時間が止まる。
何度か体験しているうちに、この感覚にも慣れてきた。
今から施設の外に逃げようとしても、扉はまた時間停止の影響で異常なまでに重くなっているだろう。少女がここに来るまでに、おそらく外に出るのは間に合わない。
今は時間稼ぎのバリケードを作ることに専念しよう。
少女と対峙する準備を整え、分厚いわりに軽く頼りない枝を握りしめると、屋上で少女を待ち受ける。
しばらくして、施設の中に少女が入ってきた気配を感じる。そしてバリケードが破られ、屋上までたどり着く少女の姿。
バリケードを破るのに体力を使ったのか、心做しか少し息が荒い。
「もうどこにも逃げられないわよ」
少女はすぐに息を整え、鋭い眼光と切っ先を俺に向けた。
こっちも対抗して、枝を少女に向けて突きつける。
「どっからでもかかってこいよ、この俺を倒せるのならな!」
無けなしの気迫。ただの虚勢。声を震わせないのが精一杯なのを。見破られないことだけに集中する。
少女は飛びかかりながら鋭い刃を振りかぶった。
目で追えるギリギリのスピード。
枝で応戦し、なんとか刃先が身体に触れない間合いを維持する。
しかし、少女が刀を振り下ろす度、次第に俺の枝は情けなく欠け、折れ、千切れていく。
果敢に刀を振る少女に対し、俺はいつの間にか、屋上の端のフェンスにまで追い詰められていた。
唯一握りしめた武器である枝は、すでに両手で持てないほど小さく斬られ、武器として使えそうにないので手放した。
「参った、降参だ!紅い羽根が今どこにあるかを教えるから、命までは取らないでくれ」
両手を上げて、これ以上抵抗できないことを体で示す。
「……。油断はしないといったでしょ?」
そう言うと少女は真剣な眼差しで、俺の身体の隙間に刀を何度も差し込んだ。
その度に、段々と差し込まれた付近の関節が動かなくなっていく。
「……な、にを、……したんだ?」
「あなたの身体の周囲に流れる時間を斬ったの。これでもう、あなたは鼻を掻くことさえできないわ」
少女の言葉の通り、腕や足、指先すら動かせない。
「すぐに組織の人がくる。おとなしくして全部正直に話すことね」
そう言うと少女は少し息を切らしながら、鞘を抑えて刀をしまおうとする。
少女が刀を納めきった。また、時間が動き出す。
――その瞬間。
空から大量の水が降り注ぎ、彼女の姿が一瞬にして滝のような水の塊に飲み込まれた。
「ぷっっは、……なんなの、これ……は!!」
突然の出来事に対応できず、水の中でもがき倒れ込む少女。
打って変わって俺のいる位置には水滴1つ降ってこない。
仕掛けておいて良かった水の爆撃。形勢が一気に逆転する。
「お前が時間を止めている間に、貯水槽の水をバケツで汲んで、空に撒いてたんだよ。お前が刀を鞘に閉まった瞬間に全部降ってくるようにな!」
俺が喋っている間も、怒涛の勢いで大量の水を全身に浴びる少女。
最後の一滴が地面に落ちる頃には、少女の意識はすでになかった。
そして上げたまま動かなかった腕に重力を感じ、同時に枷が外れたように身体が動き出す。
「今度からは自分の上も、その刀で斬っとくんだな」
地面に這いつくばり、意識を失っている少女から鞘ごと刀を奪い取る。
しなやかで細い見た目に反し、相当の重量がある。
もしかしたら、俺にはこの刀を少女のように振ることさえできないかもしれない。
この少女はかなりの怪力の持ち主なのだろうか。
横目に少女をとらえながら、恐る恐る鞘から刀を抜こうとする。
しかし、刀は錆びたように引き抜くことはできなかった。
引き抜くにはコツか何かが必要なのかもしれない。
どちらにせよ、こんな物騒なものは早く警察に届けたほうがいいな。
それと、この少女も警察に通報した方がいいのか?
そんなことを考えていると、突然どこかから男の声が聞こえてきた。
「実に見事だ素晴らしい!奥原和人、お前は予想以上だ!!」