8杯目 あやかし接客の下準備
「たかはし洋菓子店」、二十時に閉店。
表に出ていた看板を「本日閉店」に変えた紫遠が戻ってきた。
「お疲れ様です、梨々花さん。一日目の勤務はどうでしたか?」
「久しぶりに立ち仕事をしたからか、ちょっとだけ足が痛いかも」
紫遠が作ってくれた夕食をカウンター席で食べていた梨々花は、正直に答えた。ちなみに本日の夕食は、夏野菜カレーだった。野菜は由理子おばさんのこだわりでどれも地産地消で、ざっくり切られたかぼちゃ、トマト、オクラなどが盛りだくさんである。ルゥ本体よりも、野菜の方が量が多そうだ。
「これはキュウリ?」
「ズッキーニですね。安く買えたんだそうです」
「……そういえば紫遠さんは、高校で調理師免許を取ったの?」
自分のカレーをよそってはす向かいの席に座った紫遠に尋ねると、彼はゆっくりうなずいた。
「はい。僕は調理科のある私立高校に通っていました。中学生の頃から料理には興味があったし、母も常々店を持ちたいと言っていましたので進学を決めました。僕が今年の春に卒業したその私立高校は、母の母校でもあるんですよ」
「ああ、そういえば由理子おばさんは製菓科卒業って言ってたっけ」
父の雄三に聞いた話だと、もともと由理子おばさんはパティシエを目指していたそうだ。高校卒業後は倉敷市内のケーキ屋でフルタイム勤務をしていたとか。そして紫遠が言うには、由理子おばさんは紫遠を生むまでそこそこ稼いでいたらしく、紫遠が大きくなるまでは別のケーキ屋でパートをしながら生活を稼いでいたという。
紫遠が作った夏野菜カレーは、濃い色の割に甘口だった。紫遠曰く、「僕、辛いの苦手なんです」とのことである。梨々花も辛いのは嫌いなので、ちょうどいい。
カレーを食べ終えた頃、二階で休んでいた由理子おばさんが階段を下りてくる音がした。おばさんは調理場で鼻歌を歌いながらなにやら作業していたようだが、しばらくするとのれんをぱっと払いのけてホールに現れた。
「それじゃ、夜の部開始前にお夜食よー」
「母さん、夜の甘味はデブの素って言ってるくせに」
「デブ言うな。あたしもこれからもう一働きするんだから、適切な糖分補給と言いんさい」
「はいはい」
あきれる紫遠をよそに、由理子おばさんはカウンターに三つ、パフェを置いた。
昼間客に提供したものよりも、グラスが小さい。だがブドウや桃はふんだんに盛られており、メロンシャーベットの代わりにホイップクリームが飾られている。ホイップクリームには果肉の粒がはっきり見えるルビー色のソースが掛かっている。色からしてイチゴだろうか。
「はい、由理子おばさんの特製ミニフルーツパフェでーす! 生クリームは甘さ控えめにしております」
「あ、ありがとうございます!」
梨々花は身を乗り出し、感嘆の眼差しで目の前のパフェを見つめた。
昨日と今日はばたばたしていて自分がパフェを食べる時間がなかったが、梨々花は元々ここのパフェを食べるだけでも食べてみたいと思って倉敷を訪れたのだった。
岡山県産の清水白桃とシャインマスカット、ニューピオーネ。白桃に関しては、他県で購入する贈答用のものだと、ひと玉で目玉が飛び出るような値段を誇っている。それが地元だと、贈答用ではないから多少の傷みや渋みがあったとしてもかなりの安価で入手できるのだ。
パフェ用の柄の長いスプーンをもらい、そっとパフェに差し込む。ホイップクリームの下はサイコロのように小さくカットしたマンゴーと缶詰の白桃。最下部はコーンフレークだ。まさに、店のメニューである
「季節のフルーツパフェ」に少しアレンジを加えミニサイズにしたものである。
「っ……甘い、おいしい!」
「でしょでしょ!? あー、紫遠は試食させまくったけぇ、なかなかおいしいって言ってくれんくなったんよねぇ」
「仕方ないだろ。母さんだって、意見があるなら何でも言え、って言ってるじゃないか」
「それはそうじゃけどなぁ」
ぽんぽんと会話する親子の姿を、梨々花は目を細めて見守っていた。
こうしてみると――紫遠の髪や目の色、異様に白い肌や美貌を除けば、ごく普通の親子のようである。他人には紫遠の髪も目も黒色に見えるようだから、彼があやかしの血を引いているなんて誰も思わないだろう。
三人でパフェを食べ――今気づいたが、紫遠のパフェだけ少しサイズが小さかった――時計の針が九時三十分を指した頃、由理子おばさんが立ち上がった。
「さてさて、そろそろあやかしのお客に向けた準備をしないとね」
「私には何かできませんか?」
梨々花は調理師免許を持っていないし、パフェを作った経験もない。正直なところ、そこまで手先は器用でないし料理も苦手な方なのだ。梨々花がパフェの制作を手伝おうにも、白桃やブドウをあの絶妙な角度で配置することは不可能である。
空になったグラスを回収していた由理子おばさんが振り返り、ひょいっと眉を上げた。
「昼と同じで、リリちゃんには接客だけお願いするわ。……紫遠、あたしは準備をしてるから、リリちゃんにあやかしのお客様について教えてあげて」
「了解」
カウンターを拭いていた紫遠は、カウンターの下からスケッチブックを取り出した。
「これ、うちの常連さんの情報をメモしているのです。まずは見てください」
「う、うん」
梨々花は緊張しつつ、紫遠からスケッチブックを受け取る。
いよいよあやかし相手の接客業が始まるのだ。
――ふと、両肩に大きな手のひらが載ったため、梨々花は顔を上げた。
そこには、柔らかな微笑みを浮かべて梨々花を見つめる紫遠が。
「そう緊張しなくていいですよ。店に来るあやかしたちは、人間界のことを理解しようという姿勢を持っています。だからもっと肩の力を抜いてください。彼らは見た目こそちょっとだけ僕たちとは違いますが、人間の客と同じように接してくれれば大丈夫ですから」
どうやら、スケッチブックの表紙を見つめる梨々花の肩には、相当力がこもっていたようだ。自分より年下の紫遠にやんわりとなだめられたと知り、梨々花はさっと視線を逸らしてしまう。
「……う、うん。ありがとう、紫遠さん」
「どういたしまして」
紫遠の手が離れていく。
髪や肌の色からどことなく冷たい印象を受ける紫遠だが手のひらは温かく、離れていくと一気に寂しいような気持ちになった。
そわそわと自分の肩に触れる梨々花に気づかないのか、紫遠は梨々花が持っていたスケッチブックの表紙を開いた。
「母も言っていたかもしれませんが、あやかしたちの写真を撮ることはできません。また自分たちの似顔絵を描かれるのを好まない方が多いです。だから顔写真などを貼り付ける代わりに、見目の特徴や嗜好、性格などを記しているのですよ」
「……へぇ」
梨々花も興味を惹かれ、スケッチブックを覗き込んだ。
B4サイズの画用紙はまず、一面を油性ペンで四分割されており、それぞれの欄に鉛筆であやかしたちの特徴がメモされていた。二人分の文字が混ざっているので、由理子おばさんと紫遠がそれぞれ書き込んだのだろう。
「赤い髪、紅葉のあやかし。辛いものが好き。パフェにでもタバスコを掛けようとするので注意――」
読み上げつつ、梨々花は頭の中でそのあやかしの姿を描いてみる。
赤い髪の、紅葉のあやかし。
「漫画に出てくる妖怪みたいなのを考えないでくださいね。彼らは人間界に降りるときは、たとえ多くの人に自分たちの姿が認識されないにしろ、皆に刺激を与えないよう人に限りなく近い形を取っていますので」
「う、うん」
紫遠の穏やかな声による指摘に、梨々花は頭の中で思い描いていたご当地キャラのような紅葉あやかし像をささっと削除した。
「……青い髪、鯖のあやかし。両腕と足に鱗あり、塩味が好きなので、ホイップクリームには塩を入れる。……鯖のあやかしとかもいるんですか」
「いろいろいます。ちなみに僕の父親は、白いオオカミのあやかしだそうです」
「なんか分かるかも」
梨々花は次々にスケッチブックをめくっていく。髪の色や容姿、何のあやかしなのか、そして味の好みや接客する上での注意事項が細かく書かれていた。ざっと見ただけだが、かなりの人数分のデータがある。二十四枚綴りのスケッチブックのほぼすべてが埋まっているので、二百人分くらいあるだろうか。
「……正直、覚えられる自信がないわ」
「全部を丸暗記する必要はありません。それに、少々接客に戸惑ったとしてもとやかく言う客はいませんよ。この店をあやかし向けに開店すると決めた際、父があやかしたちに念押ししてくれたのです。まあ、簡単に言うと営業妨害行為や従業員へのセクハラ、そのほか客として不適切な行為の禁止ですね」
「セクハラとかあるの?」
「あやかしの中には父のように、人間に興味津々の者もいます。母も何度も口説かれて、そのたびに僕が客を追い払ってきましたので」
そこで紫遠はすっと目を細め、梨々花を見つめてきた。
「……母の場合、強力なあやかしである父の妻ということで遠慮する者がほとんどです。しかしあなたは若く、独身です。いくら父から注意を受けているとはいえ、あなたを口説いてくる者だって出てくるかもしれません」
「……まさかぁ」
「本当です。もちろん、そういった輩は僕が責任を持って追い払いますし、あまりにも過ぎた行為をすれば必ず父に話が行きます。そうなれば二度と人間界に降りることはできなくなるでしょうね」
「……由理子おばさん、すごい人と結婚したのね」
「僕も思います。……まあ、とにかく困ったことや接客に悩むことがあれば、すぐに僕や母に言ってください。従業員を守るのも経営者のつとめ。梨々花さんがバイトをしてくれる期間中、嫌な思いをすることのないよう尽力しますので、頼ってくださいね」
「……うん。ありがとう、紫遠さん」
自分を真っ直ぐ見つめて宣言する紫遠の顔がまぶしく、梨々花はほんの少し目を逸らしてうなずいた。
美形の真面目な顔は本当に、心臓に悪かった。