2杯目 美観地区の洋菓子店
紫遠から建物や地名の説明を受けながら大通りを南下すること、約二十分。
「見えてきましたね。あそこを曲がると美観地区です」
紫遠が示した交差点を左折すると、とたん風景は一変した。
それまでは大通り沿いにコンビニやビルが立ち並んでいるごく普通の駅前、といった様子だったのだが、この通りの両脇を固めるのは専ら二階建ての日本家屋である。
ほとんどの建物は白黒モノトーン調で統一された町屋のようで、ソフトクリームの置物やかき氷ののれんが道行く観光客を誘惑している。この通りに入ったとたん、異世界の扉をくぐったような気持ちになった。
「おお……この辺にもあのシマシマが」
「シマシマ? ……ああ、海鼠壁のことですね」
「なまこかべ?」
紫遠は、手近なところにあった建物の壁の下方を手で示した。そこは煉瓦と漆喰の壁のようだがよく見ると煉瓦ではなく黒い瓦だった。
「四角形の瓦をこのように配置し、漆喰で塗り固めているのです。よくある煉瓦塀と違って、漆喰部分が飛び出ているでしょう。これが海鼠のように見えるというのが名前の由来なのですよ」
「本当だ」
壁に近づいてよく見てみると確かに、煉瓦塀なら煉瓦と煉瓦の隙間を埋めてほぼ平らになるはずの漆喰が、ぽっこりと持ち上がっている。
「あ、それじゃあ駅のプラットホームとかにあった模様もこれ?」
「駅に本物の海鼠壁を作ることはないでしょうが、このデザインは町のいろいろなところで見られますよ。この壁のように漆喰の模様が縦横まっすぐなものと、駅のデザインのように格子模様になっているものの二種類があります」
「なるほどね」
そう話をしながら紫遠と二人、町屋の風景を歩く。道中すれ違った人力車から、観光客の女性らしきはしゃいだ声が聞こえてきた。
緩やかなカーブの道を進むと、やがて青々とした枝垂れ柳が目に入った。柳と桜の木に挟まれているのは、小さな河川。風が吹くと柳が揺れ、涼しげだ。
「おっ、あれは白鳥?」
「かわいいですよね」
柳が風を受けてそよぐ中、緑色に染まった水面を白鳥が悠々と泳ぐ姿に、梨々花は足を止めてじっと見入る。
「まさに、江碧にして鳥いよいよ白く、ね」
「杜甫の絶句ですね」
「……詳しいのね?」
「今年高校を卒業したばかりなので、割と記憶に新しいですね。もともと古文や漢文が得意なので」
梨々花は顔を上げ、その場にしゃがんで白鳥を眺めている紫遠の顔を見つめた。
「……それじゃあ紫遠さんは大学生一年生?」
「いえ、高卒です。専門学校くらいには行けばいいと母には言われたのですが、諸事情で僕は地元から離れられないので」
「……そういえば由理子おばさんは、息子と二人で店をやっているって――」
「はい。いろいろあってうちはあまり他人を雇うことができないので、調理師免許を持つ二人で切り盛りしています。母子家庭ですがさほど生活には苦労していませんし、僕はここで暮らすことに何の不満もありません」
柳の揺れる遊歩道を、紫遠と並んで歩く。途中、道ばたに座敷を広げてアクセサリーを売っている露店をひやかし、雑貨屋の軒先につり下げられた繊細なガラスの風鈴についつい見とれてしまったりしつつ美観地区の町並みを歩くことしばらく。
「着きました。ここです」
石造りの橋を渡った先にたたずむ小さな町屋を手で示し、紫遠が言った。
この川沿いにある他の家屋と似たような日本家屋風の造りだが、大通りに面した壁の一部がガラスのショーケースのようになっている。そこに並んでいるのは、蝋で作られた精巧な食品模型。見たところ、パフェが三種類、飲み物が五種類ほどだ。
板材を荒削りして作ったような看板には、「たかはし洋菓子店」となかなか勇ましい筆文字が書かれていた。ちなみに戸口の前に立てられたボードには、「本日閉店」と記されている。
「パフェ専門店なの?」
「そんなところです。なにしろ実質従業員は僕たちしかいないので、あまりメニュー数を増やすことができないのですよ」
紫遠が鍵を開けて引き戸を開いた先の店内は、真夏の太陽に慣れてしまった目にとってはかなり暗く感じた。それでもすぐに目は暗順応し、木材のような香りに満ちた店の様子が見えてきた。
正面にL字型のカウンター席があり、その先ののれんの隙間から調理場の様子がちらりと見えた。右手側には丸太をどんと据えただけのようなテーブルが三つ、籐を編んで作ったような椅子がそれぞれ四脚ずつ据えられている。
天井からぶら下がる照明に薄い和紙を丸く貼り付けたような覆いが掛けられているからか室内はほんのり暗く、隠れ家のようにひっそり閑とした雰囲気を醸し出していた。正直、由理子おばさんの趣味とはかけ離れた内装である。
「ここまで歩いて疲れたし暑かったでしょう。梨々花さんはそこに座っていてください。……母さん、梨々花さんが来たよ!」
紫遠は梨々花をカウンター席に座らせると、のれんの向こうに呼びかけた。この店の間取りを見た感じ、のれんの向こうには調理場だけでなく普段の生活スペースもあるのだろう。外観からして二階建てだったので、二階に続く階段ものれんの向こうにあるのかもしれない。
「……寝てるかも。まあいいや。先に飲み物でも準備しますね。好きな飲み物はありますか?」
「あ、それじゃあアイスコーヒーを」
「かしこまりました」
すぐさま店員の顔になって微笑む紫遠だが、彼が自分の腰辺りに手をやり、そこに何もないことに気づいてさっと手を引っ込めたのに梨々花は気づいた。きっと普段の仕事中は、あそこに注文書やペンを入れているのだろう。
紫遠が調理場に向かったのを見送り、梨々花は木とニスの香りのするカウンターにぺたっと伏せた。店内はほどよく冷房が効いており、じっとり汗ばんでいた体がすうっと冷えていった。
薄暗い店内ではあるが建物も内装も新しいし、まだ木やニスの香りがする。由理子がこの店を始めてそれほど経っていないのは確かだった。やはりこの数年の間に店を始めたのだろう。
「……すずし」
テーブルにくっついていた梨々花だが、不意にどたどたとにぎやかな音がしたためむっくり体を起こした。
「リリちゃーん? 来てんのー?」
「母さん、また昼寝してたな」
「ええじゃん。あっ、あたしのコーヒーもよろしく」
「はいはい」
そうしてのれんがぱっと巻き上がり、見覚えのある女性が現れた。
身長の割にくりっとした大きな目に、大きな口。着ているのは美観地区を流れる河川のような澄み渡った緑色の浴衣だが、先ほどまで昼寝していたからか裾が少し折れ曲がってしまっていた。年齢は四十代半ばのはずだが、顔立ちや仕草から実年齢マイナス十歳くらいに思われても不思議ではない。というか、子どもの頃からあまり変化がないような気さえする。
女性は梨々花を見ると、にっと愛想よく笑いかけてきた。
「久しぶりじゃなぁ、リリちゃん」
「お久しぶりです、由理子おばさん。……最後に会ったのは、高校の頃でしたっけ?」
「そうそう、高橋家の法事以来ね」
由理子おばさんはカウンターに頬杖をつき、梨々花の顔を優しい眼差しで見つめてきた。
「遙々ここまで来てくれて、ありがと。大学生活はどんな?」
「ん、んー……学校は楽しいけれど、就活がうまくいってなくって」
「内定がもらえんのんか? うちの常連さんで同じような悩みを言っている子がおるんよ。今はどこも景気が悪いわぁ」
ため息をつく由理子おばさんを、梨々花はじっと見つめた。
由理子おばさんと紫遠。
申し訳ないが、全く似ていない。
「……あの、おばさん。紫遠さんって――」
「アイスコーヒーでお待ちのお客様ー」
紫遠のことを尋ねようとしたのだが、ちょうど本人がアイスコーヒーのグラスが三つ載った盆を手に店内に来たため口を閉ざした。
「母さんは砂糖とミルクたっぷり。梨々花さんは?」
「ミルクだけお願い」
「かしこまりました」
そうして由理子おばさんと紫遠の親子が椅子を持ってきて、カウンターを挟んで梨々花の向かいに座る。二人が並ぶと、その身長と顔立ちの差に改めて気づかされた。純日本人顔である由理子おばさんの遺伝子をことごとく塗りつぶした紫遠の父親は、どんな人だったのだろうか。
白鳥かわいいです