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27杯目 これでいい

 文が残してくれた光る道は、梨々花が店まで戻ると同時に消え去った。この不思議な光のおかげで、そこそこの距離を歩いたにもかかわらず梨々花は汗一つ掻かなかった。文は子どもで、人間界に降りると力も弱くなるはずなのだが、すばらしい力を持ったあやかしのようである。何百年かすれば、母親のような柔らかな美貌を持ったあやかしに成長するのだろうか。


 店の前の看板は、「営業中」に変わっており、戸の磨りガラス越しに店内の明かりがうっすらと見えた。時計を見ると、十時三分。


「すみません、遅くなっ――」


 謝罪の言葉と同時に梨々花が戸を開けた、とたん――


 ポン、ポポポン、と目の前で巨大なシャボン玉が弾け、七色の光が店内に降り注ぐ。普段はほんのり暗いはずの店は今、柔らかな光で満ちていた。


「……え?」

「おかえり、梨々花!」


 そう言うなり、ぽかんとその場に立っていた梨々花に飛びついてきたのは、小春姫だった。いつもの着物姿かと思いきや、ウェーブの掛かったマリンブルーの髪は文の母親のようにねじって簪でまとめられており、帯にもぽんぽんのようなものを飾っていた。


「いい感じの時間だったね、本当に!」

「……小春姫さん?」

「おいおい、この年中恋愛女だけじゃねぇだろ」


 そう言って梨々花から小春姫を引っぺがしたのは、赤い髪に金色の瞳の青年。いつも胸元を見せつけるように着物をはだけさせている彼は、ニッと笑って梨々花の頭を撫でてきた。


「お疲れさん、梨々花。ほら、こっちに来なよ」

「千秋さんまで……あの……あれ?」


 小春姫が脇にずれたことでようやく、梨々花は今の店内の状況を知ることができた。

 あやかしの力の一種なのだろうか、天井付近にはキラキラ輝く氷の粒のようなものが浮いており、それぞれが小さなミラーボールのように光を反射していた。


 文が来るまではいつも通りの隠れ屋風の内装だったのが、今は各テーブルに華やかな色のテーブルクロスが掛けられ、大きなシャボン玉があちこちに浮いている。先ほど弾けたものと同じ不思議なシャボン玉のようだ。


 テーブルには、いつも店が提供しているパフェ三種類はもちろんのこと、白桃のコンポートやフルーツサラダ、パイナップルの缶詰を使ったケーキ、色とりどりのゼリーなどの菓子が所狭しと載っていた。店内の様子とテーブルを埋め尽くすほどの甘味の様を見て、立食パーティー、というのが真っ先に梨々花の頭に浮かぶ。


 そして、決して広いとは言えない店内に集まっているのは――


「お疲れ、梨々花ちゃん!」

「今日は梨々花のためのお祝いだからね!」

「りりかちゃん、ありがとう」

「皆さん……!」


 それは、この約一月間に梨々花が接客してきたあやかしたちだった。種族も身長も見た目も髪や肌の色もまちまちなあやかしたちが、ざっと見ても五十人近くは集まっている。


「……驚いたかね?」

「夜彦さん……」


 あやかしたちの中から進み出たのは、いつも同じ燕尾服の胸元に薔薇のコサージュを飾っている夜彦。彼は梨々花の前まで来るとシルクハットのつばをちょっと傾けて挨拶し、ふふっと笑った。


「今日が梨々花さんの勤務最終日だと聞くと、いてもたってもいられなくてな。人間はこういうときにぱーてーを開くものだと紫遠君から聞いた。そこで、常連の皆に声を掛けてひそかに準備をしていたのだよ」

「……私、お仕事をしていたのはほんのわずかな間ですよ?」


 それこそ、長い時を生きるあやかしたちからすれば瞬きする程度の時間だろう。

 だが夜彦は首を横に振り、白手袋のはまった手で梨々花の腕をぽんと優しく叩いた。


「――そうだな。我々と君では、生きる時間は全く違う。だが、我々はただ長寿なだけで、君と共にこの店で過ごした時間に違いはないのだよ」

「あっ……」


 あやかしと人間に違いはない。

 由理子おばさんに教えてもらっていたのに失念していた。


 夜彦は満足そうに頷き、調理場の方を見やって「ほれ」と声を上げた。


「あそこに、君のことを何よりも気遣っていた子がいるだろう」

「えっ――」


 夜彦に促されて視線を上げる。

 調理場の手前には、由理子おばさんと――なんと、紫月の姿があった。このためにわざわざ来てくれたのだろうか。


 だが彼らは梨々花の視線を受けると微笑み、すっと体を横にずらした。

 藍色ののれんの前に立っているのは――


「紫遠さん――」

「……今日は、あなたへの感謝の思いを伝えさせてください」


 ついさっきまで調理場に立っていたらしく、彼のエプロンには水の染みや何かの汁が付いており、シャツも邪魔にならないようおおざっぱに肘のところまで捲っている。簪やコサージュで着飾っている小春姫や夜彦と比べると、華やかさにはかなり欠けていた。


 だが――そんな姿が何よりも、紫遠らしかった。


 紫遠はあやかしたちをかき分けながらカウンターを回り、ぽかんとしている梨々花に大きな手をさしのべた。


「今日は全員がお客です。……こちらへどうぞ、梨々花さん。あなたへの感謝の気持ちと、あなたのこれからの幸福を祈る気持ちを、皆で伝えさせてください」


 梨々花はどこかふわふわしたような気持ちで、紫遠の手を見つめた。


 ――胸が熱い。


「っく……」

「えっ……? あ、あの、梨々花さん? 僕の手を握るのは泣くほど嫌なんですか!?」

「そ、そうじゃないの」


 梨々花はぶんぶんと頭を振り、今にも引っ込められようとしていた紫遠の手をぎゅっと握った。


 ――もしかするとこのシチュエーションではぎゅっと握るのではなく、王子様のエスコートを受けるお姫様のように上品に手を重ねるのが正解だったのかもしれない。


 だが、きっとこれでいいのだ。

 梨々花はお姫様なんかではない。そして実用性第一の服装にエプロンという出で立ちの紫遠だって王子様ではないのだから。


 これでいい。

 梨々花は梨々花でいいのだ。


 紫遠はしばらく惚けたように梨々花の手を見ていたが、やがて頬を赤く染めてふいっと視線を逸らした。


「……またこうして、僕が動揺させられるんですね。最後まで、あなたを負かすことはできなかった」

「あら、そんなことないよ?」


 梨々花はふふっと微笑んだ。二人の周りではあやかしたちが、「早くこっち来なよ!」「アイスもあるぞ!」「溶ける!」と騒いでいる。


 梨々花はぐいっと紫遠の腕を引っ張って長身の彼を屈ませると、その耳元に唇を寄せて囁いた。


 ――私だって今、すごいどきどきしているんだから。


 紫遠の目が限界まで見開かれ、はっ、と唇から吐息が漏れた。


「……そ、その、梨々花さん。その意味って――」

「何だろうね?」


 梨々花は意地悪に笑った後、ぱっと紫遠の腕を放す。そして呆然とする紫遠を残して、やいのやいの騒ぐあやかしたちのもとへ駆け寄った。


「お待たせしました!」

「よし、主役の準備ができたなら、カンパーイするぞ! 由理子さん、飲み物!」

「了解! しっかり冷えてるよ!」

「梨々花はこっちこっち!」


 小春姫に腕を引かれ、その他の女性のあやかしたちも周囲を固めるので紫遠の姿は見えなくなってしまった。ちょっと離れたところから、「梨々花さん!?」「うるせぇな、紫遠! 飲むぞ!」「僕は千秋より梨々花さんと話がしたいんだ!」という青年たちのやり取りが聞こえる気がする。


「はーい! それじゃあ各自飲み物を取って!」


 由理子おばさんの音頭で、それぞれのあやかしがそれぞれ欲しい飲み物を手に取る。梨々花も白桃サワーの入ったグラスを掲げた。


「乾杯しまーす!」

「了解!」

「カンパイってなんだ?」

「とりあえず皆に合わせておけばいいのよ!」

「……かんぱーい!」


 由理子おばさんのかけ声に続き、約五十人分の声が店内にこだました。


 それは皆の梨々花への「今までありがとう」での言葉あり、「これからも頑張ってね」のエールでもあった。

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