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26杯目 イチョウの親娘

 八月三十日。

 梨々花のバイト最終日だ。


 日中の人間の客はもともと固定客が少ない上、これといって自己紹介などもしていないので梨々花は最後の接客をごく自然に終わらせた。


 二十時に閉店し、二時間の休憩の後に夜の部が始まる――のだが。


 閉店三十分ほど前に、店の戸がノックされた。


「……まだ開店には時間があるけど」


 梨々花のつぶやきに、紫遠も首をひねった。


「そうですね……何か事情でもあるのかもしれません。一応、応対してくれていいですか」

「分かった」


 梨々花は戸に向かった。そして引き戸を開くとそこには、小さな金色の光があった。

 いや、それは光ではなく、つやつやの髪だ。


「こ、こんばんは」

「あら……文ちゃんじゃない!」


 梨々花は思わず声を上げ、その場にしゃがみ込んだ。

 イチョウのあやかしである文が、病弱な母親のためにパフェを注文しに来てから一週間。今日の彼女も金髪のおかっぱに、茶色の着物を着ている。


 文はうなずき、腹の前で手を重ねて深々とお辞儀をした。


「このまえは、おかあさんのためにぱーふぇをつくってくれて、ありがとうございました」

「あら、いいのよ。お母さんは元気になった?」

「うん。おかあさん、おねえちゃんにおれいをいいたいって」

「私にお礼?」


 自分の顔を指さして梨々花が問うと、文はこっくりうなずいた。


「おにいちゃんは、まだここにいるけど、おねえちゃんはもうすぐ、おうちにかえっちゃうんだよね? だから、そのまえにあいたいって」


 文にその話はしていないから、きっと彼女は夜彦や小春姫のような常連から聞いたのだろう。


「……ってことだけど、どうしようか、紫遠さん」

「開店までまだ時間がありますし、会いに行かれてはどうでしょうか」


 調理場から顔を出した紫遠は、左手に白桃の缶詰、右手に缶切りを持っている。どうやら缶詰を開ける途中だったようだ。


「文ちゃん、お母さんと梨々花さんはどこでお話をすればいいのかな?」

「おかあさんは、イチョウのきのちかくになら、でてこられるの。ここからちょっとあるいたさきにあるの」

「方向は?」


 文が指さした方角を見、紫遠はうなずいた。


「……南東か。そういえばそっちには、大型の複合ホテルがあって、正面の道はイチョウ並木になっていますね」

「そこに行けば文ちゃんのお母さんに会えるってこと?」

「植物のあやかしは自分のルーツになっている植物の近くならば、人間界に降りるのにも比較的体力を使わずに済むと言います。文ちゃんのお母さんは体が強くないそうなので、梨々花さんが会いに行かれるのが一番でしょう。準備は僕と母で行いますので、よかったら会いに行ってあげてください」

「……うん、分かった。じゃあちょっと行ってくるね」

「はい、ごゆっくり」


 梨々花はスニーカーからサンダルに履き替え、文と一緒に店を出た。

 既にあやかしの時間になっているからか、大通りに人間の気配はない。それでも夏の風はむわっとした熱気を孕んでおり、すかさずのどの近くを汗が流れた。


 文が振り返り、手の甲でのど元を拭った梨々花を見て小首を傾げた。


「……おねえちゃん、あつい?」

「う、うん。文ちゃんは大丈夫なの?」

「文はへいき。……ちょっとまってね」


 そう言うと文はその場にしゃがみ、アスファルトの地面に手のひらを押し当てた。

 すると、彼女を中心とした約半径一メートルの道路が淡い光を放ち始めた。そこだけ懐中電灯で照らされたかのようで、梨々花は目を丸くする。


「……これは、文ちゃんの力?」

「文、ちょっとならちからをつかえるの。おねえちゃんは、文のあとをついてきて」


 そう言って文は歩き出した。丸い光は文を中心に照らしているのかと思ったら、彼女が歩いた場所をマークしているかのように光の道ができていく。慌てて梨々花がその光に足を踏み込むと――


「あ、涼しい」

「あんまりながくはつづかないけど、おねえちゃんがおみせにかえるまでなら、だいじょうぶだとおもう」

「これは快適ね……ありがとう、文ちゃん」


 梨々花が礼を言うと、文は俯いてこっくりうなずいた。切りそろえられた金髪の隙間から見える耳は、ほんのり赤く染まっていた。


 そうして梨々花は文の案内の下、光る道を歩いていった。まずは川沿いに大通りを南下し、信号のある交差点に差し掛かったら左折する。あやかし時間だからか人っ子一人おらず、信号も故障中かのように明かりがついていなかった。


 この先は片側一車線道路で、歩道は足下をきれいに煉瓦で舗装されているがかなり狭かった。自転車二台がすれ違うのも難しいかもしれない。


 まもなく左手側は、赤茶色の煉瓦塀の道が続くようになった。きっとここが先ほど紫遠の言っていた複合ホテルだろう。

 赤煉瓦塀に沿うようにして緩やかな坂道を上り、次の信号を左に曲がった先。左手には、このホテルの名前にもなっている蔦植物でびっしりと覆われた壁が。そして右手には――


「おかあさん」


 梨々花のすぐ前方を歩いていた文がたたっと駆けだしたため、慌てて梨々花もその小さな背中を追う。

 道路沿いに立ち並ぶイチョウの木。今は夏なので、青々としたイチョウの葉が茂っている。その木の下に、一人の女性の姿があった。


 文とおそろいの茶色の着物を着ており、長い金髪はトンボ玉の付いた簪でまとめている。背は梨々花よりも低いがすらりとした体型で、陶器のように真っ白でなめらかな顔と上品そうな美貌が魅力的だ。

 辺りを見回していた女性はこちらを見ると、駆けてきた文を抱き留めた。


「おかあさん、おねえちゃんをつれてきたよ!」

「ええ。……あなたが梨々花さんですね」


 文を抱きしめつつ問うてきた女性声は、ほんの少しかすれたか細いソプラノボイスだった。

 梨々花は先ほど文が店内でしたのと同じように、腹の前で両手を重ねてお辞儀をした。


「初めまして。『たかはし洋菓子店』の臨時店員で、高橋由理子の親戚の高橋梨々花です」

「ええ、初めまして。……あなたたちが作ってくださった甘味、おいしくいただきました。営業時間外に娘がお邪魔したというのに快く受け入れてくださったこと、なんと感謝とお詫びを申し上げればよろしいのか……」

「あ、いえ。文ちゃんもお母様のためを思って頑張って来たようでしたし、お口にあったようで何よりです」


 目の前にいる文の母親は見るからに病弱そうで、風が吹けばふっと飛んでいってしまいそうなほど儚い。文は幼い身でありながらそんな母のために単身人間界に降り、人間たちもうろつく朝に店を訪ねてきた。彼女の「おつかい」がよい形で実を結んだようで、梨々花も嬉しい。


 文の母親は微笑むと白魚のような手を伸ばし、イチョウの幹に触れた。すると、頭上からまだ青いイチョウの葉が一枚、ひらりと落ちてきて梨々花の目の高さで空中停止した。


「……私のためにおいしい甘味を作ってくださったこと、そして何よりも――文を気遣い、声を掛けてくださったことに感謝いたします。どうかお受け取りください」

「えっ……これを、ですか?」


 これ、とはもちろん梨々花の目の高さで浮遊している緑色の葉っぱである。

 文の母親はうなずくとその葉を手に取り、梨々花の髪に差し込んだ。


「たいしたものではなくて恐縮ですが……その葉は永久に枯れることがありません。秋になれば私たちの髪と同じ色に黄葉し、冬になれば色はくすみ、春になればまた新緑の色に染まります。あとは……そうですね。ここに来られるまでに文が使った力を見る限り、あなたたち人間は夏の暑さに弱く、そして冬の寒さにも弱いのでしょう。これを身につけていれば少しだけですが、気温の変化にも強くなれるはずです」

「……あ、本当だ。少しひんやりする。……こんなにすごいものを、本当にもらってもいいのですか?」

「はい。とはいえ、いかんせんこの地に暮らす私の力で作ったものなので、あなたが遠い地に帰った際の効果は弱まり、ただの色変化する葉になってしまかもしれませんが……」

「いえ! とてもありがたいし、見ているだけでもとってもきれいです!」


 髪に挿されたイチョウの葉をいったん手のひらに載せ、梨々花は熱を込めて言う。

 手のひらに載るイチョウの葉は手触りこそ普通の葉っぱと変わらないのに、ひんやりと冷たい。これなら夏を快適に過ごせそうだし、もしこの効果が切れたとしても、枯れることなく四季の変化に応じて色を変えるイチョウの葉というのも幻想的だ。


「これ、私にしか見えないのでしょうか」

「そうですね……あなたや店長の由理子さんとおっしゃる方なら見えるでしょうが、他の人間からはただの葉にしか見えないでしょう」

「そうなのですね。ありがとうございます。大切にします」


 礼を言って梨々花はもう一度、イチョウの葉を髪に飾った。

 文の母親はふふっと微笑み、イチョウの木の幹に寄り掛かった。


「……人間界に来るのは、やはり体力を消耗しますね。申し訳ありません、梨々花さん。私はそろそろおいとまさせていただきます」

「いえ、こちらこそ。お体が辛いのにお時間を取ってくださり、ありがとうございました」

「……店長さんや店員さんにもどうぞよろしくお伝えください。もしいつか私の元気になりましたらそのときは、文と一緒にお伺いしますね」

「はい! 由理子おばさんと紫遠さんにも伝えておきます!」


 梨々花が元気よく言うと、文の母親は娘の手を取って静かに目を閉じた。

 母に手をつながれた文は振り返り、大きく手を振る。


「ばいばい、おねえちゃん。もし、またここにくることがあったら、文たちにあいにきてね。文たち、ここにいるから」

「……ええ! またね、文ちゃん!」

「またね」


 次第に文と母親の姿がぼやけ、やがてかき消えていった。


 梨々花はふっと肩を落とし、振り返った。文はあやかしの国に帰ったようだが、幸いあのきらきら光る道はちゃんと残っている。帰り道も、暑い思いをせずに済みそうだ。


 梨々花は腕時計を見た。

 午後九時五十分。早足で帰れば開店までには間に合うだろう。

実在する建物とイチョウの木です

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