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25杯目 収まるべき場所

 紫月はその日、店に泊まっていった。


 由理子おばさんが言うには、紫月が人間界で一晩明かすのはかなり珍しいことらしい。だが今回、由理子おばさんがあやかしの国の国主に認められたことで紫月にも余裕ができたらしく、紫遠の作った冷やし中華を四人で食べ――紫月は思いの外、箸の使い方が上手だった――由理子おばさんの部屋で泊まり、朝食ではおばさんが作ったフルーツサンドを食べ――紫月は、これに関しては食べにくそうにしていた――その後、彼はあやかしの国に帰っていった。


「これからは、以前よりも頻繁にこちらの世界に来られるだろう」と言っていたので、由理子おばさんはもちろん紫遠も嬉しそうだった。


「……紫月さんも言っていたんだけど、紫遠ってキラキラしているね」


 朝の十時半。

 開店準備をしながら梨々花が紫遠に声を掛けると、おしぼりを各テーブルにセットしていた紫遠が不思議そうな顔をした。


「……え、父も言っていたのですか?」

「うん。嬉しそうにされていたよ」

「……そうですか。いえ、実は昨晩、やたら父に頭を撫でられまして」


 余ったおしぼりをカウンター席の引き出しに入れた紫遠は、困ったように笑って頭を掻いた。


「子どもの頃は人間にもあやかしにも頭を撫でられたりしたのですが、見ての通り身長だけは伸びたので、そういうのにもご無沙汰していたところに撫でられまして……」


 つまり、紫月なりの「ほめ方」とはひたすら頭を撫でることなのだ。オオカミのあやかしだという彼のことを考えれば、まあうなずける話である。


「どうだった?」

「……その、嬉しかったですね、やっぱり。なんというか、この年になっていろいろな感情が戻ってきたというか、童心に戻れたというか」

「あら……それじゃあ梨々花お姉さんも、頑張り屋な紫遠君の頭を撫でてあげようか?」


 ふふっと笑って梨々花は手を伸ばした。もちろん、彼と二十センチ近い身長差があるため、彼に屈んでもらわないと撫でることはできないと分かっている。


 紫遠は一瞬、不意を受けたように目を瞬かせた。だがすぐに彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、軽く腰を屈めるととんとんと自分の頬を指でつついた。


「……父からほめられるときは頭を撫でられるだけで十分ですが、梨々花さんにほめられるなら別の方法がいいです」

「…………というのは?」

「分かりません?」


 紫遠は微笑むと、目を閉じた。まぶたを縁取るまつげは長く、髪と同じ透き通るような銀色だった。


 ……それはいいとして。


 梨々花の口の端がひくっと引きつる。


 身を屈め、目を閉じ、意味ありげに自分の頬をつつく紫遠。

 梨々花とてそれなりに恋愛経験があるし、恋愛ドラマを観るし小説も読む。おかげさまで、紫遠の言わんとすることはなんとなく分かる。


『やられたらやり返したいし、一度負かされたら絶対に打ち負かしてやりたい』

『必ずや、梨々花さんを動揺させてみせましょう』


 つまり、これが紫遠なりの「やり返し」なのだ。ここで梨々花がどんな反応をするか――慌てるか、怒るか、困るか。その反応を期待しているのだろう。


 だが、梨々花が動揺したのはほんの数秒のことだった。梨々花はきょろきょろと辺りを見回し、レジ横の小物入れに置いていた「それ」を手にする。


「……はい、それじゃあ頑張り屋さんな紫遠君に、ご褒美でーす」

「っ、梨々花さ――」


 ぽんっ


 紫遠のまぶたが開き、瞳孔の開かれた濃紺の目が露わになる。

 梨々花はそんな紫遠の驚いた顔を満足げに見つめ、手に持っていた「それ」を指先でもてあそぶ。


「……まだ開店まで時間があるから、鏡を見ておいで」

「…………梨々花さん、あなたという人は」

「お姉さんをからかうのは、まだまだ早いってことよ」


 梨々花がふふん、と胸を張ると、紫遠はがっくり肩を落として「……そのようですね」と呟いた。

 彼の頬には、「高橋」という真っ赤な文字がはっきりと浮かんでいた。









 梨々花のバイト最終日は、八月三十日。

 三十一日は定休日で、九月になると夏休みが終わって新学期が始まることもあり、客の入りはぐっと減る。由理子おばさん曰く、土日はそこそこ来客もあるそうだが、平日は割と暇らしい。由理子おばさんも戻ってきたことだし、九月になればひとまずバイトを雇う必要もなくなるのだ。


「リリちゃんは、いつ東京に帰るんじゃっけ?」


 二十九日の夜、梨々花は由理子おばさんと一緒に縁側に出てチューハイを飲んでいた。未成年の紫遠はもちろん欠席で、夜の準備が始まるまで自室でテレビを見ているという。


 桃チューハイを飲んでいた梨々花は由理子おばさんに問われ、左手の人差し指を上下に振りながら日にちをカウントする。


「えーっと……三十一日に実家に帰って、しばらくゆっくり過ごします。最初の土曜日に地元の友達と飲みに行く約束をしているので、東京に帰るのは五日の月曜日ですね」

「友達か、そりゃええな。ゆっくりしていかれぇ」

「そうします。東京あっちに帰ったらまた、卒業後について考える日々が始まるので」

「……ああ、そうよな。リリちゃんは、この仕事をしたい、とかって希望はあるん?」


 おばさんの問いに、梨々花はしばらく考え込んだ。


「……最初は、人と接する仕事がしたいと思っていました」


 去年から始めている就活。最初のうちは、接客や営業のある部署を中心にエントリーシートを出した。我ながら事務は向いていないと思っているのだ。


 だがお祈りメールが届く日々を送るうちに、贅沢を言っている場合ではないと気づいた。そうして就職浪人するくらいならと、大学の事務から紹介された企業やアルバイト情報誌に載っていた会社に履歴書を送りまくった。送ったのはいいし、面接までこぎ着けることもあったが、そこまで。


 あのときは半分自暴自棄になり、お祈りメール専用フォルダなんてむなしいものを作ったりもしたが、冷静になって考えれば、企業から見た梨々花の価値はその程度だったということなのだろう。採用担当者は、

「御社の経営に興味はありませんが、無職にはなりたくないので受けに来ました」という梨々花の本音を見抜いていたのかもしれない。


「私は超エリートの大学に合格したわけでも、すごく頭がいいわけでも、コネがあるわけでもない。武器が少ないなら少ないなりに努力しないといけなかったのに――逃げていたつけが回ってきたんでしょうね」

「どうなんだろうねぇ……ああ、ちなみにあたしもずっと昔に知り合いの会社の面接を受けたんだけど、落ちたことがあって」

「おばさんもなんですか」

「まあね。自分の実力不足なら致し方ないと諦められたんじゃけど、後になってその知り合いに聞いてみたら、あたしが落とされた理由が分かってね」

「熱意不足とかですか?」

「いや、あたしの顔が気に入らなかったかららしい」


 絶句である。

 梨々花の手の中で、チューハイのアルミ缶がぐしゃっと潰れた。中身がほとんど残っていなくてよかった。


「…………そんなので落とされたんですか?」

「らしいよ。……まあ、昔と今、あたしが受けた会社とリリちゃんが受けた会社を同じにしちゃおえんけど、要するに落とされたからって、自分を責めるこたぁないんよ。ああ、この会社とはご縁がなかったんじゃな、以上終わり、でええじゃん。というか、正社員になれんからったら人生おしまいってわけでもあるまいし」


 由理子おばさんの言葉は、さくさくっと梨々花の胸に刺さってきた。

 何が何でも内定を取れ、大学の実績を上げさせろ、非正規雇用なんてとんでもない、馬車馬のごとく働け――とまではいかないだろうが――というのが当たり前のようになっていた。


 由理子おばさんの考えは、必ずしも全ての人間のためになるわけではないだろう。キャリアアップを積み昇格したいと考える人からすると、「とんでもない」理論であるはずだ。


 だが、おばさんの言葉は凝り固まっていた梨々花の心を刺激し、やんわりとほぐしてくれた。

 梨々花の心の変化に気づいたのか、由理子おばさんは梨々花を見て微笑み、レモンチューハイをぐいっとあおった。


「リリちゃんはきっと、考えすぎなんじゃろうなぁ。雄三も、梨々花はああ見えて神経質じゃけぇ心配しとんじゃ、って言っとったし」

「父さん、余計なことを――」

「けどなぁ、あたしもリリちゃんと一緒に生活してみて思ったわ。あんた、緩い人間を装っていて実際はかなり内面に溜め込むタイプじゃろ。なんというか、あんたと紫遠は似とらんようでよう似とるな」

「どこがですか?」

「甘え下手なところ」


 ミンミンミン――とどこからか、活動時間を間違えた蝉の鳴き声が響いてきた。


『梨々花ってさぁ、見た目や名前の割にかわいくないんだよなぁ。性格というか、態度が』


 梨々花に別れを切り出した時、彼氏はそう言っていた。


『もうちょっと甘えるってことを勉強しろよ。そんなんじゃおまえ、この後ずっとお一人様だぞ?』


 うるさい余計なお世話だ二度と顔を見せるなクソ野郎ぶっ飛ばされたいのかと暴言を吐きまくり、ドン引きした元恋人を自宅から蹴り飛ばしたことによって梨々花と彼の関係は終わった。その日は一人で高級ワインを飲みつつ、ああ、これが「かわいくない」ということなのだろうな、と梨々花は悟ったのだった。


 ちなみにそんな元恋人は、一週間以内に新しい彼女を捕まえた。梨々花の大学の後輩で、ふわふわとした愛らしくて甘い砂糖菓子のような女の子だった。


「……私、甘えるの下手なんですね」

「心当たりでもあった?」

「彼氏にフられたときのことを思い出しました」

「そりゃあなんとも罰当たりな男がおるもんじゃなぁ。それをうちの常連さんが聞けば、みんな怒り狂って遙々東京まで呪いを掛けるじゃろうなぁ」

「よ、よその土地に押しかけたりはしないんですよね?」

「たぶんな」

「……たぶんって」

「まあ、ええじゃん。就活にしろ彼氏にしろ、それはリリちゃんにとっての『収まるべき場所』じゃなかっただけじゃって思えばええじゃん」


 収まるべき場所、と梨々花は言葉を口内で転がす。


「……私の収まるべき場所って、あるんでしょうか」

「あるに決まっとる。ただ、それを八十年程度の人生で見つけられるかは人それぞれなんじゃろ。あたしは、ちゃんと見つけられた」


 それはきっと、紫月であり、倉敷にあるこの「たかはし洋菓子店」であり、紫遠であるのだろう。

 由理子おばさんは、実年齢より若く見える顔をほころばせてそっと梨々花の肩を撫でた。


「……リリちゃんにとっての収まるべき場所、ゆっくり見つけられぇ。焦ってもええことにはならん。焦って失敗するよりはじっくり時間を掛けて模索する方がええ。あたしも紫月も雄三も紫遠も――あやかしの客の皆も、それを願っとるよ」


 ぽんぽんとあやすように肩を叩くおばさんの手は、とても小さい。もともと梨々花より小柄なのでそれも当然だろう。

 だが今は、おばさんの手がとても大きくて暖かく感じられる。


 先ほどまでソロで活動していた蝉も、いつの間にかおとなしくなっていた。

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