24杯目 親になる過程
八月二十八日、朝。
「ただいまぁー! 紫遠、リリちゃん、どこー?」
「母さんだ……」
一階の台所で朝食を摂っていた梨々花と紫遠は、ほぼ真上から聞こえてきたにぎやかな声に顔を見合わせた。
「そっか……あやかしの国への旅行が終わったのね」
「様子を見に行きましょうか。……梨々花さんも行きます?」
「うん……でも、ジュースだけ先に飲んでもいいかな」
「いいと思います。変色する前に飲みましょう」
今日の朝食は、紫遠特製のホットケーキとミックスジュースだった。ミックスジュースの材料は、自宅用に購入した岡山市産の白桃と、バナナ、リンゴだ。
少し朽ちかけた桃は皮を剥き、大きめにカットしたものをフリーザーバッグに入れて冷凍庫で凍らせる。そうして凍ったままの桃とバナナ、リンゴ、牛乳をミキサーに掛ける。冷凍桃がかなり硬いので最初は少し混ざりにくいがやがてとろみがついて、砂糖を入れずとも甘いミックスジュースができるのだ。ただし、桃入りのためあっという間に変色して茶色っぽくなってしまうのが難点である。
ミックスジュースだけ急いで掻き込み、二人は二階に向かった。案の定、由理子おばさんの部屋からきゃっきゃとはしゃいだ声が聞こえていた。
数日間聞いていなかっただけなのに、その元気な声を聞くとほっとした。どうやらそれは紫遠も同じらしく、彼は明らかに安堵したような表情になって母の部屋のふすまを開けた。
「母さん、おはよう。無事に行ってきた?」
「おはようございます、おばさん」
「あら、おはよう……ということは、今は朝なのね」
夕方かと思ったわ、と笑顔で言うのは、目覚めた姿を見るのも五日ぶりな由理子おばさんだった。彼女の隣には当然のように、紫月の姿もある。
紫月は戸口に立つ息子と梨々花を見、口を開く。
「しばらくだった、紫遠、リリ。その様子を見る限り何事もなかったようだな」
「父さんたちこそ、あっちではうまくいったのか?」
梨々花と並んで畳に座った紫遠が問うと、紫月はうなずいた。
「こちらは問題ない。国主様との会談は終始和やかに進み、ユリのことを認めてくださった」
「……っ! よかった、母さん!」
「ありがとう。正直かなり緊張したけれど、国主様はとても寛大なお方で、いろいろなお話をすることができたわ」
そう言う由理子おばさんだが、確かにその顔には少しだけ疲労の色が見える。いくらあやかしの国の国主に認められたとはいえ、慣れない世界で過ごす六日間で彼女もかなり神経をすり減らしてきたことだろう。
挨拶も終えたし、ここは親子の時間を取るべきだろう。
そう思い、梨々花は畳の上で少し後退した。
「私は食器の片づけをしてきますので、ゆっくりお話をなさっていてください」
「梨々花さん、片づけなら僕が――」
「ここは甘えさせてもらいなさい、紫遠。……ありがとう、リリちゃん。ちょっとだけ紫遠を借りるわね」
母親にやんわりと促され、紫遠はそれ以上言い返さずにうなずいた。きっとこの後の話には部外者の梨々花は聞かない方がいいものもあるだろうし、紫遠だって六日間のことを両親に報告したり、相談したりしたいだろう。
梨々花はしずしずとその場を退出し、足取りも軽く階段を下りた。
今回の旅の結果で由理子おばさんや紫遠の立ち位置が決まるということだったので、会談が無事に終わったというのは梨々花にとっても嬉しい知らせだ。夜彦のように、由理子おばさんの立場を心配しているあやかしは結構いる。彼らにもよい報告ができそうだ。
台所には、果実の甘い匂いが漂っていた。ミックスジュースを作るために使用したミキサーも二人が使ったガラスコップもそのままで、残っているジュースは案の定茶色っぽく変色していた。ホットケーキはどちらとも食べかけなので埃を被らないようにラップを掛けた後、グラスとミキサーだけでも洗っておこうと梨々花はシンクに向かった。
「……よい香りがするな」
「ひえっ!?」
いきなり背後から柔らかなテノールボイスが聞こえてきたため、梨々花は悲鳴を上げてミキサーをシンクに落としてしまった。幸いシンクはステンレス製だったので、ガラス製のミキサーを破壊することだけは免れた。
梨々花に不意打ち攻撃を噛ました本人である紫月は、髪と同じ銀色の眉を跳ね上げて首を傾げた。
「……すまぬ。驚かせてしまったか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「そうか。……洗い物ならば、私も手伝うぞ」
「めっそうもないです!」
あやかしの国の国主の右腕候補だったあやかしに洗い物を手伝わせるなんて、とんだ罰当たりの小娘である。
だが紫月は気にした様子もなくすっと梨々花の隣に来ると着物の袖を素早くまとめ、アヒル型の黄色いスポンジを手に取った。
「遠慮せずともよい。私はこれでも、暇なときは洗い場の手伝いをしているので慣れているのだ」
「……うそ」
「最初はユリの力になればと思って始めたのだが、これはなかなかおもしろい。すっぽんじといったか。あやかしの国には、このような素材は存在しないものでな」
そう言って紫月は、慣れた仕草で粉末洗剤を手に取り、アヒルスポンジに振りかけた。
身長百九十センチはあるだろう体躯に、神秘的な長い銀髪と濃紺の目。頭部にはひくひく動くケモ耳あり。人間離れした美しいかんばせは、やや表情に乏しい。そんなあやかしの美丈夫は今、アヒルスポンジを手にミキサーを洗っている。
「リリは、そちらの湯飲みを洗ってくれ」
「ゆの――あ、はい」
紫月の示す湯飲みとはもちろん、ジュースを飲む際に使用したガラスコップである。あやかしはカタカナ言葉に疎いのだろうか。
黙ってコップを洗う梨々花だが、隣に美貌のあやかしがいると思うとどうも、手つきが怪しくなってしまう。同じような容姿の紫遠ならばもう慣れてしまったが、純粋なあやかしである紫月は、側にいるだけで何となく落ち着かない気持ちになる。
「……リリ」
「ひっ!?」
「そのような顔をせずとも、私は君を取って食ったりはしない」
「は、はい……」
「……紫遠のこと、感謝する」
なおも緊張がちがちの梨々花だったが、紫遠の名を耳にしてスポンジを動かす手を止めた。紫月はミキサーの底の刃部分も丁寧に洗いながら、言葉を続ける。
「……今のあの子は、見違えるように輝いている。きっとこの数日間、君と生活することで彼の中で何かが変わったのだろう」
「……あの」
「無理に語らずともよい。私は、根掘り葉掘り聞きたいわけではない。ただ、我々ではできなかったことをしてくれた君に、紫遠の父親として感謝の言葉を述べたい。……ありがとう、梨々花」
最後の言葉では紫月は手を止め、梨々花を真っ直ぐ見下ろして告げた。
紫紺の眼差しに冷たさは一切なく、子を思う親の愛情で満ちていた。
紫遠とそっくりのその色を見ているとだんだん気恥ずかしくなり、梨々花は誤魔化すように勢いよく、コップの中にスポンジを突っ込む。少し下品な音がした。
「……私はただ、思ったことを口にしただけです。その、紫遠さんも同じように私に言っていたんですけど……結局は、紫遠さんを変えたのは紫遠さん自身だと思います」
「ほう」
「私がきっかけになったのは確かなのでしょうが……感謝されるようなことは本当にしていないんです。だから、紫遠さんをほめてあげてください。……あ、いえ! 偉そうなことを言ってしまい――」
「いや、気にするな」
そう言うと紫月は左手を持ち上げ、ぽんと梨々花の頭に手を載せてきた。濡れる、と瞬時に思ったが、紫月の手は乾いていた。あやかしの能力的な何かだろうか。
「君の言うとおりだ。この後、私は紫遠をしっかりほめようと思う」
「……! は、はい! きっと紫遠さんも喜びます!」
「うむ。……そうか。人間とは、こうして親になっていくのだな」
どこかしみじみと呟く紫月の声には、かすかな哀愁が漂っていた。
……もしかすると紫月も、紫遠と同じように「迷って」いたのかもしれない。
あやかしと人間とでは当然、常識も違うだろうし、子と親の関係性にも差があるだろう。普段人間界で暮らす由理子おばさんや紫遠と違い、紫月は普段あやかしの国で暮らしている。息子の近くにずっといられるわけではない彼にも、父親としての悩みがあったのかもしれない。
梨々花はコップからスポンジを引き抜き、蛇口をひねって水を出した。
自分が何か特別なことを成し遂げたとは思っていない。
だが、梨々花の言葉や行動が、紫遠たちを助けることに繋がっていたのなら。
それは、とても誇らしいことだと思えた。




