23杯目 千秋と紫遠
翌日は木曜日。
「たかはし洋菓子店」、通常通り開店である。が――
「……なんかさぁ、あのイケメンさん前よりキラキラしてない?」
丸太テーブルを拭いていた梨々花の耳に飛び込んできたのは、女子高校生たちの声だ。
胸元の大きなリボンがかわいらしいあの夏服は確か、市内の県立高校の制服である。壁にトロンボーンらしき細長い楽器ケースを立てかけているので、きっと吹奏楽部に所属しているのだろう。今は夕方四時なので、部活動をした帰りだろうか。
四人組の彼女らが話題にしているのはもちろん、紫遠だ。由理子がいない間も調理場紫遠、ホール梨々花で回しているのだが、ホールが忙しくなったときなどには紫遠もこちらの手伝いをしてくれていた。先ほども、彼が空になった食器を調理場に持って行ったところだ。
「あー、分かる。前はもうちょい、クールな感じだった」
「イケメンの笑顔、神々しいわ」
「うちは、アンニュイな感じがした前の方がタイプかも」
「彼女でもできたのかなぁ」
「まじで?」
気ままに自分の意見を口にする女子高校生たちに隠れ、梨々花はこっそりため息をついた。
朝からこの調子だ。
昨夜をきっかけに、紫遠は変わった。きっと、長らく悩んでいた己の在り方について建設的な考え方ができるようになったからだろう。以前よりも笑顔が多くなり、若い女性客に話しかけられたときも、前よりはにこやかに対応できるようになっていた。梨々花が以前、客から預かった連絡先の紙を渡した頃のように困惑する様子もない。
「なぁなぁ、お兄さん。彼女おるん?」
気が付けば、先ほどの女子高生の一人が紫遠を捕まえ、プライベートなことに切り込んでいた。紫遠はいつの間にホールに出てきていたのだろうか。
反射的に梨々花は紫遠から顔を逸らし、せっせとテーブルを拭いてメニューなどの位置を整える。それでも狭い店内であるため、紫遠たちの声は嫌でも聞こえてきた。
「彼女はおりません」
「えっ、そうなん?」
「お兄さん、モテそうなのにぃ」
「はは、よく言われます」
決して無理をした様子のない紫遠の朗らかな笑い声に、梨々花はお冷やの入った水差しを取り落とすかと思った。
――連絡先の紙の対処に迷っていた紫遠が。
――自分のことがよく分からないと言っていた紫遠が。
あんなにスマートな受け答えができるようになるなんて!
じん、と胸が温かくなり、梨々花は誰も見ていないのをいいことにくすっと小さく鼻をすすった。自分は紫遠の姉でも母でもないので余計なお世話かもしれないが、彼の成長っぷりによってささやかな感動が胸に満ちていた。
「じゃあさ、じゃあさ! どんな人が好み!?」
「あっ、それうちも気になる!」
「そうですね……」
またしてもプライベートなことを突っ込まれても、紫遠の声は動揺していない。梨々花は一人うんうんうなずきながら、カウンター席に置いていた空のグラスを手に調理場へ向かった。
これは、由理子おばさんにもいい報告ができそうだ。
紫遠は、梨々花が調理場へ向かったのを横目で確認してから、女子高校生たちに微笑みかける。
「好きな女性のタイプ……明るくて前向きで、僕をぐいぐい引っ張ってくれるような人がいいですね」
「それじゃあ、年下よりも年上好き?」
「うーん……自分でも気づいていなかったのですが、どちらかというと年上好きみたいだと最近知りました」
ええー、そんなぁ、と明らかに紫遠より年下の女子高校生たちは残念がる。
紫遠は笑顔で彼女らをなだめた後、調理場から戻ってきた梨々花を見、口元をほころばせた。
「おい、紫遠。ちょーっと面貸せや」
午後十時になり、梨々花が表の看板を「営業中」にしたとたん飛び込んできたニホンザルのあやかしは、カウンター席をひらりと飛び越えて紫遠を捕まえた。
背後から襲撃されたため彼にあっさり捕縛されてしまった紫遠は、心底迷惑そうな顔で振り返る。
「……店員に対する暴力で訴えますよ」
「いやおまえ本当に、変化分かりやすすぎだろ。いいから時間をくれ」
「営業妨害です」
「んなこと言わずにさぁ……あ、梨々花! この色男をちょーっと借りるぞ! 後でちゃんと洗って返すから!」
「え、ええ……?」
「いーからいーから!」
赤い髪をなびかせる彼は戸口に立ったまま戸惑っている梨々花にぱちっとウインクを飛ばした後、紫遠をずるずると引っ張って店を出た。紫遠の方が背が高いのだが、純血のあやかしである彼とハーフである紫遠とでは、腕力の差は歴然としていた。
あやかし時間によってぼんやりと怪しげな雰囲気の漂っている、美観地区の大通り。
店から出て戸を閉めるなりぽいっと道に放られた紫遠は、恨みのこもった眼差しで振り返った。
「……いったい何のつもりですか、千秋」
「わりわり。ちょっとおまえとサシで話がしたくってよぉ」
梨々花には悪いけど、と前置きしてから、千秋は店の戸に手のひらを押しつけて数秒瞑目する。
今、彼はあやかしとしての力を使い、簡単な結界を張っているのだ。あやかしたちは自分たちの国ではこういった能力を使って生活している。
今千秋が使用したのは、店内に音が聞こえなくなるような結界だろう。あやかしの国で使用するよりもずっと効果は落ちるだろうが、人間である梨々花相手ならこれくらいで十分だろう。ちなみに、母親に近いハーフである紫遠はこういった術を一切使えない。
結界を張り終えたらしき千秋は振り返り、不機嫌な表情を隠そうともしない紫遠を見てククッと低く笑った。
「おうおう、その顔その顔! いくらおちょくろうとかわいげのなかった紫遠ぼっちゃんが、こんなに嫌そうな顔をするとなはぁ」
「用件があるならさっさと終わらせてくれ」
梨々花に聞こえないのをいいことに、紫遠は敬語を取っ払った低い声で言った。
「いくら開店直後といっても、しばらくすれば客は来る」
「うわ、怖ぇ顔に怖ぇ声。それ、梨々花の前ではやめとけよ」
「千秋」
「はいはい。……俺が今日、速攻で来たのには訳がある」
それまでのちゃらちゃらした雰囲気から一転して真剣な眼差しになった千秋に、紫遠も表情を改めて友人を見つめる。
「おまえ、昨日の今日で何があった?」
「……何、というのは?」
「はぐらかすなよ。昨日の夜更けにこの辺りを散歩しているときから感じていたんだが……なんというか、吹っ切れただろ」
そう問うてくる千秋の声は、思いがけず優しい。
紫遠は一瞬だけ濃紺の目を見開き、観念したように肩を落とした。
「……やはり分かるか」
「おまえは半分といえど俺たちあやかしの血を引いている。あれほど派手に変化が起きれば俺たちにも伝わってくるっての。人間とは違うんだからな」
「いや、実は今日、人間の客からもそのようなことを言われたんだ」
「…………あ、そう。おまえ、そんなに分かりやすい男だったか?」
「僕も、自分自身の変化に驚いている」
紫遠はあごに手をあてがい、ぬるい風を受けてそよぐ枝垂れ柳を見やった。
「正直、僕は人間として生きるには感情が欠落しているのではないかとさえ思っていた。だが、そうじゃなかったんだな。僕を殺していたのは、僕自身だった」
「……十八年掛けてその答えにたどり着いたってことか?」
「そういうことだ」
紫遠はしっかりとうなずいた。
対する千秋は長い尻尾をゆらゆらさせつつ、胸の前で腕を組んでなにやら考え込んでいる。
あやかしと人間のハーフという存在を忌み嫌うあやかしも多い。また紫遠の父方の親戚のように、自分たちが栄光を喪う原因となった人間を恨む者、その結果生まれた子を憎む者だって存在する。
その分千秋は他の客と同じように、人間に対しても公平な見解を持っている。とりわけ彼や夜彦は、紫遠が生まれた頃から面倒を見てくれた間柄だ。だから、純粋なあやかしである彼らにとっては取るに足らない十八年という歳月を決して軽んじたりはしない。
「……正直に言わせてもらうと、気づくならもっと早く気づけよ、ってところだ」
「すまない。千秋や夜彦さんには幼い頃から心配を掛けていて――」
「そういうことじゃねぇよ。俺たちにとっての十八年とおまえにとっての十八年じゃぁ重みが全く違う。俺たちにとって、待つこと自体は苦じゃねぇ。それよりも、もっと早く気づいていれば――いや、無理にでも気づかせていれば、おまえはもっと若い頃から楽になれていたのかもしれねぇと思っちまうんだよ」
……やはり彼は、公明正大だ。
紫遠がくすっと笑うと、風に揺れる柳の葉を指先で突いていた千秋は金色の目を細めた。
「……んだよ。おまえがハイハイの頃から面倒を見てやってる千秋お兄さんに言いたいことでもあんのか?」
「僕からすればお兄さんというより、千秋おじさんだけどな」
「てめぇそのおきれいな顔を引っ掻いてやろうかあぁん?」
「そうされる前に噛みついてやる」
「……。……言うようになったな」
「皆のおかげだよ」
紫遠はふっと笑い、頭上を見上げた。
今日はいい天気だ。梨々花がいる間は台風が上陸してくることもなく、晴れが続いてくれそうだ。
夜空に瞬く星の中にひとつだけオレンジ色に輝くものを見つけ、紫遠は目を細めた。
「……あれは、金星かな」
「きんせぇ?」
「太陽には二番目に近く、地球からの距離も比較的近いけれど表面温度が五百度にも達する惑星です」
「わくせぇ?」
「理科で習いました」
「……人間って、そんなものを学んで何に使うんだ?」
「さあ」
紫遠は微笑み、店へときびすを返す。千秋もやれやれとばかりに肩を落とした後、戸に掛けていた結界を解除して一緒に店に戻るのだった。




