22杯目 気づいた感情
「……そういうわけで、今回の母の旅が無事終われば、父の親族も僕たちを非難することはできなくなるでしょう。しかし……それでも僕は、あやかしの国を訪れようという気持ちになれないのです」
「……それは、あなたが人間に近しい存在だから?」
「はい。両親も、無理にあやかしの国に行けとは言いません。人間として生きたいのならばそれでいい、と言ってくれます。……それなのに僕は、人間の世に馴染もうという努力をしなかった」
カラン、と紫遠のグラスで氷が崩れた。
「……倉敷から離れたところで長時間過ごせば体調を崩すと、昼食時に言いましたよね? 実は父曰く、僕ももう大人になったのだから子どもの頃ほど強力な拒否反応は起きないはずだということなのです」
「えっ、じゃあ外出しても大丈夫なの?」
「……たぶん。でも、別にそんなことしなくてもいいと思ってました」
突き放すような、諦めたような台詞。
それなのに、紫遠の眼差しは限りなく寂しそうだ。
「人間の友達ができなくても別にいい。同級生に告白されても、何も感じない。店の客から容姿をほめられても、だからどうしたとしか思わない。……きっと、自分という存在を理解しようとしていなかったのですね。あやかしと人間という二つの血を継ぐ自分を、認められていなかったんです」
「……自分を、認める」
「あやかしの国に行かないのなら、人間として生きればいい。幸い母やあなた以外の人間には、僕の髪や目の色は黒に見えるようですからね。父譲りの体力があるし、生きていくのに十分な力は持っている。……それなのに、僕は選ぼうとしなかった。人間としての自分を認めることができなかったから、人間の世界に対して感情を抱くのが難しかったのだと――最近になって気づけました」
「えっ、最近?」
「あなたに会ってから、僕の世界は変わりました」
それまでどこかぼんやりとしていた紫遠の眼差しが今、真っ直ぐ梨々花に向けられていた。
容姿から想像されるような儚さや普段の柔らかさを消し去った、強い眼差し。
「僕の人間としての面とあやかしとしての姿、両方を見ることのできるあなたが来てくれたから、僕はやっと自分というものを見つめ直すことができました」
「い、いやいやいや! 私はそんなたいそうなこと、していないから!」
梨々花は慌てて紫遠の顔の前で両手を振る。
紫遠の語り口ではまるで、梨々花が彼の人生を変えた救世主であるかのように感じられたのだ。
「私はただ、普通にバイトをしていただけじゃない!」
「はい、その『普通に』行動してくれたことがありがたかったのです」
そう言うと、紫遠はさっと右手を動かして梨々花の左手首を掴んだ。彼の手は強引でもないし込められた力もそれほど強くないが、紫遠の視界をふさぐようにしていた梨々花は、はたと動きを止めてしまう。
「あなたは確かに、特別な行動をしたわけではありません。しかし、あなたと接したという経験が、僕が自分を見つめ直すきっかけを生んでくれたのです。あなたの目に映る僕はあやかしであり、人間でもある。そしてあなたは僕を一人の人間として扱ってくれた。……それは、あなたにとっては当たり前のことなのでしょう。でも自分を認められなかった僕にとっては、その当たり前が――とても嬉しかったのです」
最後の一言をささやいた紫遠は、それまでの真剣な顔から一転、ふわりと柔らかく微笑んだ。
『嬉しくて、つい』
――初めて彼と会った日。
倉敷駅から店まで行くのにタクシーを拾おうと提案し、あまつさえ運賃は自分が払うと言いだした紫遠の手を押さえた梨々花に対して、彼はそう言っていた。
あのときははぐらかされてしまったが、彼は梨々花が、あやかしとしての容姿を見ることができてもなお普通の人間として接したことに驚き、とまどい、そして――嬉しいと感じたのではないか。
あやかしでもない、人間でもない自分の存在に迷っていた彼を両方の存在として認めた、母親以外の初めての人間である梨々花。
そんな梨々花に対して彼が抱いたのが、「嬉しい」という感情。
「あなたは僕に対し、当たり前のことを当たり前にしてくれた。それは、十八年間うじうじしていた僕にとっては衝撃でした。……同時に、今まで僕を育ててくれた両親や、厭世的な僕に対しても積極的に声を掛けようとしてくれた人たちに対して、申し訳ない気持ちになりました。今まで僕は、彼らの好意を無下にしてきたのだと思って――」
「え、そんなことないでしょ」
「……えっ?」
ぱちぱちと瞬きをする紫遠は、十八歳という年齢よりずっと幼く見えた。
梨々花はそれまでずっと手首を握ったままだった彼の手をぽんぽんと叩いて解放してもらい、戸惑ったような表情の彼に微笑みかけた。
「だって、由理子おばさんは紫遠さんのこと大好きだし、美観地区の人たちだって、紫遠さんのことを気に掛けていたでしょ?」
「……え?」
「今日行った蕎麦屋の女将さんも紫遠さんと親しそうにしゃべっていたじゃない。それって、紫遠さんが十八年間で積み上げてきたことの成果なんじゃないかな」
店の売り子たちは、紫遠の正体を知らない。
知らないけれど、きっと彼らは紫遠が普通の青年でないことに気づいているはずだ。気づいていても、彼らは紫遠を同じ地区で暮らす人間として受け入れている。
接客していて、「今日も紫遠君は元気そうだな」と話す地元の人たちや、「今日も店員さんに会えた!」と紫遠に会えて喜ぶ女子中学生の姿を見てきた。
先日の朝、寝坊した紫遠の代わりに梨々花が業者の人の接待をしたときは、「店員のお兄さんは元気なのか?」と心配されたこともある。
そういった、この二週間で梨々花が見聞きしたことを一つ一つ挙げていくうちに、だんだんと紫遠の頬に赤みが増してきた。ついに彼は頭を抱え、美しい銀髪をぐしゃぐしゃにしてしまう。
「……っ、それ以上は勘弁してください」
「なんで? 私がこの二週間で溜めに溜めた『紫遠さんが皆に愛されているエピソード』、まだあるのに」
「聞いているこっちが耐えられなくなります!」
「じゃあ、みんなが紫遠さんのことを気にしてくれているってこと、分かった?」
「う……わ、分かりました。ものすごくよく分かりました!」
「それならばよろしい。今日のところは勘弁してあげようかしら」
梨々花が晴れ晴れとした顔で言うと、顔を上げた紫遠は目元をほんのり赤らめて梨々花をじっと見つめてきた。
「……僕、今になって分かった自分の性格があります」
「へえ、それは?」
「僕は負けず嫌いなんです。やられたらやり返したいし、一度負かされたら絶対に打ち負かしてやりたい」
どこか危険な感じのする濃紺の目に見つめられ、おや、と梨々花は今になって我が身に降りかかりそうな事態を察した。
つい先ほどまでは自分が優位に立っていたはずだが、なぜか今、梨々花は向かいの席で挑戦的な笑みを浮かべる紫遠にじりじりと追いつめられているような気がしていたのだ。
「僕ばかりペースを崩されるのは不平等ですからね。必ずや、梨々花さんを動揺させてみせましょう」
「……お姉さんをからかうものじゃありません」
梨々花は力なく言い返した。
なんだか別の方向に話が持って行きかけた気がするが、何にしても紫遠が前を向けるようになったのは喜ばしいことである。
……ちなみに、「梨々花さんを動揺させてみせましょう」と宣戦布告されたのであるが、先ほどから梨々花は、真剣な眼差しをしたり余裕たっぷりに笑ったりする紫遠に動揺させられっぱなしなのだが――それは、梨々花だけの秘密だ。
攻める年下、かわす年上




