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21杯目 人とあやかし

 店に戻ったらまず、自室で眠っている由理子おばさんの確認をする。ちょっと室内が冷えすぎている気がするので、設定温度を一度上げて風量を弱くしておいた。


「……おばさん。紫遠さんって、きっと私には理解できないくらい大きなものを抱えているんだよね」


 豆電球が灯る部屋の中で、梨々花は眠る由理子おばさんにささやきかけた。


「十八年間、いったいどんな思いで生きてきたのかな」


 もちろん、おばさんから返事はない。

 梨々花はもう一度エアコンのリモコンで温度と風量、風向きを確認してそっと由理子おばさんの部屋を後にした。


 一階の居間に降りると、ちょうど紫遠が二人分のアイスコーヒーを手に台所からやってきたところだった。


「どうでしたか?」

「ちょっと寒そうだったから、温度を上げておいた」

「ありがとうございます」


 紫遠が座ったので、梨々花も彼の向かいの席に座る。彼は梨々花の味の好みをもう覚えてくれたようで、梨々花の前に置いたアイスコーヒーには小さなカップ入りのミルクが添えられていた。


 しばらくの間、二人はこれといった会話もなくアイスコーヒーを飲んだ。いつもと同じ濃さのはずなのに、今はやけにコーヒーの苦さが舌に残っているように感じられる。


「……僕はずっと、自分という存在に自信を持てずにいました」


 おもむろに紫遠が語り始めたので、梨々花は面を上げて紫遠の顔を見つめた。

 彼はグラスの外側に張り付いた水滴を指先で拭い、梨々花から視線を逸らしたまま言葉を紡ぐ。


「父が人ならざる者であるということは、幼い頃から知っていました。というのも、僕は物心付く前からあやかしたちに世話をされてきましたし、もちろん彼らの姿を認識できたから。夜彦さんや前にも店に来た千秋は、僕が生まれたときから世話をしてくれたそうです」


 そういえば夜彦も、そんなことを口にしていた。


「小さい頃は、特に何も疑問に感じていませんでした。でも――だんだんと変だ、と思うようになったのです。僕の世話をしてくれる夜彦さんや千秋は、何年経っても姿が変わらない。それなのに僕は、近所の子どもたちと同じように年を取っていく。夜彦さんも千秋も小春姫さんもみんな、僕が子どもの頃から全く見た目が変わらないのです」

「……それは、皆さんの寿命が千年くらいあるから? あ、その、前に夜彦さんが教えてくれて」


 紫遠が目を丸くしたので途中で言い訳をすると、彼はふっと目元をゆるめて寂しそうに微笑んだ。


 ……彼はよく、こうやって笑う。控えめに、優しそうに、寂しそうに笑う。


「……そうです。僕の生きてきた十八年なんて、千秋たちからすれば瞬きする間の出来事です。僕は、あやかしの血を引いている。でも僕の体はあやかしではなく人間として時を刻んでいる。……どうやら両親以外にもあやかしと人間が結婚した例はあるそうですが、生まれた子どもの寿命はたいてい、母親に近しくなるそうです。だから僕はどちらかというと人間に近い。ずっと前に気づいていました」

「……うん」

「僕の生きる世界はあやかしの国じゃない。人の生きる、この世界なんです。……先ほど梨々花さんは僕に、あやかしの国に行かないのかと尋ねられましたね」

「うっ……その、ごめんなさい」

「どうして謝るのですか? あなたからすれば抱いて当然の疑問でしょう。……結論から言うと、行こうと思えば行けます。半分あやかしですし、人間である母が行けるくらいですからね。でも……きっと僕は、あの世界から歓迎されないでしょう」

「それは、あなたがあやかしと人間のハーフだから?」


 梨々花の言葉に、紫遠は長い髪をなびかせて首を横に振る。


「先ほども申しましたように、ハーフの例は過去にもあります。……問題は、父が相当優秀で、将来を期待されたあやかしだったということです。父が千年の命を捨てて母と添い遂げると決心したとき、一部の者たちが猛反対しました。簡単に言うと、父が人間の命を得ることで困る者――父の身内ですね」


 紫遠の言葉で、梨々花の頭の中でいくつかの情報の意図が繋がった。


 由理子おばさんが言っていた、「あやかしの中には紫月があたしと結婚したことを快く思わない者もおる」ということ。


 夜彦が話していた、「由理子さんや倅君を非難する者」の存在。


 確かに紫月の親族の立場からすれば、あやかしの国の国主の右腕となる者が自分たちの一族から輩出されるのは非常に名誉なことなのだろう。そして紫月はもともと力のあるあやかしだったということだから、彼は皆から期待されていたはずだ。


 だがそんな紫月はあろうことか、八十年くらいしか生きられない人間の女性との恋に落ち、千年の寿命を捨て、子どもまで生まれてしまった。その子どもも、あやかしより人間としての特性を濃く受け継いでいる。彼らにとって由理子おばさんや紫遠は受け入れがたい存在なのだろう。


「……でもそんな中、由理子おばさんはあやかしの国に行ったんだよね? 本当に大丈夫なの?」

「母に会ってもよいと許可を下したのは国主様本人です。ですから、今回客人として国に向かった母を害することは決して許されません。今回母が無事国主様との面会を終えられたのなら、母に関しては心配することはないでしょう。国主様に認められた存在なら、他のあやかしが異議を唱えることはできない。これまであやかしと結婚した人間は皆、このようにしてあやかしたちから認められてきたのです」


 紫遠の言葉に、梨々花は頭を殴られたような衝撃を受けた。

 梨々花は、今回由理子おばさんはあやかしの国に遊びに行くくらいの感覚なのだと思っていた。国主に会いに行くとは知っていたが、せいぜい挨拶をするくらいなのだろうと軽く捉えていたのだ。


 だが実際、由理子おばさんは自分を紫月の妻として認めてもらうために――一世一代の勝負をするために旅立ったのだ。ここで失態を犯せば紫月にも迷惑を掛けるし、これから先自分を狙うあやかしが現れても身を守る術がなくなってしまう。


 そして今回の出来事はきっと、実の息子である紫遠を守ることにも繋がるのだ。


「……私、何にも気づけなかった」


 二階で眠っているおばさんが何を背負っているのか、全く理解できていなかった。

 震える声で呟いた梨々花を見、紫遠は眉間に皺を刻んで鋭い声を上げた。


「当たり前です。あなたは僕たちと違い、二週間前にあやかしのことを知ったばかり。そんなあなたにあれこれ想像力を働かせろなんて言えるはずがありません。むしろ、こんなイレギュラーな日々の中で僕たちに協力してくれるあなたに対し、いくら礼を言っても足りないくらいです」

「お礼なんて……」

「だって、あなたが来てくれないと母が留守の間、『たかはし洋菓子店』を続けることは不可能でした。国主様に指定された面会期間は、こちらにとっては絶好の稼ぎ時。小規模営業である以上、六日も営業をやめるのはかなりの痛手なのです。しかしあなたが来てくれたから、母は安心してあやかしの国に出発できました」


 熱がこもっているのか、やや早口になっていた紫遠はいったん口をつぐみ、アイスコーヒーで口内を潤してから続けた。

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