18杯目 彼の事情
母親のために小遣いを握りしめて来店した文と、新しい恋人の惚気がしたくて朝から押しかけてきた小春姫で、定休日だというのに「たかはし洋菓子店」は忙しかった。
昼は、由理子おばさんが買い置きしていたそうめんを茹でて食べた。
「そうめんって、氷水に浸ける派? それとも浸けない派?」
「僕は氷水で冷やした後、ざるで水切りして器に盛る派ですね。梨々花さんは?」
「うちは氷水に浸ける派。麺がふやけるしめんつゆが薄まってしまうのも分かってるんだけど、そうしないとほぐすのが面倒だから」
「どちらの問題も解決できる方法があればいいんですけどね」
「まさにそれ」
店舗一階奥の台所。正方形の小さなテーブルで紫遠と向かい合ってそうめんをすする。これだけでは炭水化物オンリーになるので、梨々花がそうめんを茹でている間に紫遠が近所の総菜屋で買ってきた唐揚げとサラダも皿に広げた。
「あ、この唐揚げ好きなタイプだ」
「唐揚げや焼き鳥って同じように見えても、実際は店によって味付けや調理方法が違いますよね」
「そうそう。焼き鳥といえば、北の方にむちゃくちゃおいしい焼鳥屋があるの、知ってる?」
「北の方?」
紫遠が首を傾げると、首筋で結わえた銀髪がさらりと揺れる。
「北と言いますと、新見や高梁の方ですか?」
「いや、津山。国道沿いにある小さな店なんだけど、超人気でね。昔家族で買いに行ったんだけど、冬だったからか雪も深いし路面は滑るし。やっと到着したと思ったら、目当ての焼き鳥は売り切れだったんだよ」
「……そうなんですね」
「紫遠さんは津山、行ったことある?」
めんつゆを追加しつつ梨々花が問うと、紫遠は苦笑して肩を落とした。
「……一度もありません。そもそも僕は、浅口市にある高校への通学以外で倉敷市から出たことがないんです」
「……えっ? 修学旅行とかは?」
「……小学生四年生の時に初めて、宿泊研修に行きました。一日目は元気に過ごせたのですが、その日の夜から一気に体調を崩し――医務室に運ばれ、結局二日目の朝に母に迎えに来てもらって早退することになり、先生たちには迷惑を掛けてしまいました。父に聞いたところ、他の地域のあやかしが存在するところに飛び込んだため、あやかしとしての体が拒否反応を起こしたのだろうということでした」
紫遠の説明に、梨々花は目を丸くする。
そういえば、「諸事情で地元を離れられない」と彼は語っていた。経済的なものや実家の都合のようなものなのだと思っていたが、体調面に問題があったとは。
黙ってしまった梨々花を、紫遠は少しだけ憂いを込めた眼差しで見つめてきていた。
「……父も母も、半分人間なのだから大丈夫だろうと思っていたようでした。体調を崩したのも、きっと僕が幼かったからで、大人になれば大丈夫だろうといわれました。……しかし、それ以降は外泊をしたために体調を崩すのが怖くて――それ以降の宿泊を伴う研修はすべて、家の都合で欠席しました。小学校から中学校、高校へと申し送りが行っていたようで、学校からは特に何も言われなかったのが幸いです。まあ、僕の他にも諸事情で修学旅行を欠席する生徒はいましたからね。変に目立つことはなかったです」
「……体調を崩してしまうから、紫遠さんは遠出ができないのね」
彼の体が、いったいどれくらいの間別の地域で過ごすことで異常を訴えるのかのラインは、彼自身も分かっていないのだろう。
だが、あやかしと人間のハーフであるために彼の行動に制限が掛かってしまったというのは事実だ。普段あやかしの国で過ごしているという紫月と違い、紫遠は現世が行動範囲だ。学生である間はまだしも、これから先も生きていくとなると辛いだろう。
ペンネ入りのサラダをのろのろと取り分けていた梨々花だが、紫遠ははっと気づいたように目を丸くした。
「あ、でもそれほど悲観はしていません。幸い僕にはそれほど旅への好奇心はありませんし、今はネットを使えば様々な地域の情報を得て、動画を見て、知的好奇心を満たすことができます。父も、スマホを操作することはできないのですが、動画サイトを見るのが大好きなのですよ」
「あ、あやかしでも動画を見るの?」
「はい。興味のあるサイトを教えてもらい、僕が操作して見せるのです。ちなみに最近父がお気に入りなのは――」
そう言いながら紫遠はテーブルの端に置いていたスマホを操作し、あるイラストを梨々花に見せた。
それは、昭和三十年頃を舞台とした某有名な国民的アニメのワンシーンだった。
「……これを紫月さんが観ているの? あやかしじゃないけど、物の怪っぽいのが出てきているのに?」
「それがいいそうです。父は、このふわふわの毛並みが大変すばらしいと述べていました」
「……猫科はアウトなのに、これは許容範囲なのね」
「はい。しかし、時折登場するこちらの生物は、猫をモチーフにしているので好きではないと言っています。僕も苦手です」
「あはは、そうかもね!」
スマホを操作して、父親が最近はまっているという映画の説明をする紫遠の表情は生き生きとしている。つい先ほど、「あやかしと人間のハーフであるため長時間外出できない」と語っていたときの物寂しそうな雰囲気がかなり薄まったので、梨々花もほっと胸をなで下ろした。
楽しそうにしゃべる紫遠から、ガラスボウルに盛られたそうめんへと視線を向ける。
紫遠の要望で氷水に浸けていないそうめんはやはり、お互いがくっついてしまっていた。
昼食の後、紫遠と並んで洗い物をしつつ梨々花は声を掛けた。
「……その、紫遠さん。今日、時間はある?」
「え?」
つるん、と彼の手から泡だらけのガラスボウルが落下する。幸い彼の手元の真下には水を張ったプラスチックの桶があったので、派手な水しぶきは上がったが割れることはなかった。
「……はい、今日は夜の営業もありませんし」
「そっか。……あのさ、もしよかったら今日、倉敷を案内してくれないかな?」
蛇口をひねって水を止め、梨々花は顔を上げた。
自分より遙かに背の高い紫遠は、惚けたような顔で梨々花を見下ろしていた。
「紫遠は倉敷で生まれ育ったんでしょ? 前も言ったかもしれないけど、私は岡山育ちだけど隣の倉敷に来たことはあんまりなくって」
「……観光地案内ということですか?」
「うーん……どっちかというと、紫遠さんの行きつけのお店とか好きな場所とか、そういうところを紹介してほしいなぁって」
観光地巡りなら、ガイドを雇うなりすれば有名どころを効率よく回ることができるだろう。
だが今の梨々花は、あえて地元の人間である紫遠にガイドを頼みたいのだ。高名な美術館や歴史ある建造物などの見学もおもしろそうだが、立ち寄った店でアイスを食べたり、車では通れないような狭い道を歩いたりしてみたいのだ。
何よりも――
聡い紫遠は梨々花の意図に気づいたらしく、苦笑して桶からガラスボウルを拾った。
「……気を遣わせてしまったようですね」
「何のこと? ただ、私が行きたいと思っただけだよ。あと、紫遠さんがしたいと思うことがあれば教えてほしいなぁ、ってね」
梨々花は動じることなく、笑顔で流した。体質上長時間倉敷を離れられない紫遠だが、彼には十八年間ここで暮らしただけの経験と思い出がある。それを、梨々花に教えてほしかった。
紫遠は梨々花の思いを汲んでくれたようで、ふっと真面目な顔になった。
「……分かりました。それじゃあ夕方ぐらいに出発しませんか。おいしい蕎麦屋を知っているのです。蕎麦は食べられますか?」
「蕎麦! もちろん、食べられるよ!」
「それはよかった。……あと、前々からやりたいと思っていたことがあるのですが、一人では勇気がなくって」
「うんうん、是非ご一緒させてね!」
「ありがとうございます」
そう言う紫遠の笑顔はまぶしい。
太陽のような笑顔、というのはまさにこういうのを言うのだろうと梨々花は思った。
「津山にある焼き鳥屋」
「浅口市にある高校」
実在のものを参考にしております
紫月のお気に入りのアニメは、「5月」の名前を持っている姉妹が登場する、例のあれです