16杯目 小さなお客様
本日は水曜日。「たかはし洋菓子店」は定休日だった。
先週の水曜日は、梨々花一人で倉敷散策に出かけた。紫遠が中学生の頃に使っていたという自転車を借り、起伏の少ない道を選びながらサイクリングに出かけたのである。
「……今日は、何しよっかな」
朝の身支度を調えた梨々花は、昨日のうちに買っていた菓子パンをほおばりつつ呟く。
いつもは紫遠が朝食を作ってくれるのだが、今日は店がお休みなので紫遠も朝寝坊している。我ながら料理がうまいとは思えないし、わざわざ彼をたたき起こして朝食をねだるのはあんまりなので、こういったときは買ってくるなり外で食べるなりしてやりくりすることにしているのだ。
「美観地区、美観地区……猫カフェにでも行ってみようかな」
先日母がメールで、「倉敷の猫カフェ、おすすめだから紫遠君と一緒に行ってみなよ!」と熱弁を振るっていた。猫は梨々花も興味があるが、残念ながらオオカミのあやかしの血を引く紫遠は猫科の動物が好きではないそうだ。彼と一緒に行くことはないだろう。
「……ん?」
スマホで「倉敷 猫カフェ」で検索を掛けようとしていた梨々花は、ふと窓の外の光景を目にして動きを止めた。
ここは、店舗一階の奥にある居間。窓は東を向いており、店の前の通りが見える。
まだ朝も早く、人通りもまばらな小道。
そこにぽつんと佇む、小さな影があった。
その脇を、これから部活動にでも向かうのだろうか、体操服姿の少年たちが走っていく。少年は四人いたが誰一人として、道の真ん中に佇んでいた子どもに注目した様子がない。
「……あやかしだ」
梨々花はすぐさま立ち上がり、土間でサンダルを履いた。そして店の戸の鍵を開け、朝の爽やかな香りが漂う通りへと飛び出した。
先ほど見えた小道に向かうとやはり、道の真ん中に所在なさげに佇む子どもの姿があった。山吹色の髪をおかっぱに切りそろえており、背中に大きなリボンの付いた茶色の着物を着ている。ぱっと見た感じ、金髪の座敷童である。
普通、金髪おかっぱで着物を着た子どもが朝早くに佇んでいれば、声を掛けずとも一瞥くらいはくれるはず。間違いなく、あやかしだ。だが、夜ならばともかくこんな時間帯にあやかしがうろつくものだろうか。
数度深呼吸して気持ちを落ち着けた後、梨々花は思い切って小さなあやかしに声を掛けた。
「おはよう。あなたは何のあやかしかな?」
身長を合わせるためにしゃがみ、なるべく優しい声を努めて話しかけると、さらさらの金髪がびくっと震えてこわごわと梨々花を振り返り見てきた。くっきり二重の大きな目は緑色だ。
「……おねえちゃん、あたしがみえるの?」
「うん、見えるよ。金色の髪に緑色の目のあやかしさんだね。私は梨々花って言うの。あなたは?」
「……文。イチョウのあやかし、です」
「文ちゃんね。こんな朝早くにどうしたのかな?」
もしかすると、親とはぐれたのかもしれない。だが幸い梨々花の側には紫遠がいる。いざとなれば、半分あやかしである彼の手も借りればいいだろう。
文は最初、もじもじしていた。梨々花は、そんな文の言葉を気長に待つ。二人の側を自転車に乗った女子中学生が通っていったが、彼女が梨々花たちに「意識を向ける」ことはなかった。
「……あの、おかあさんが」
「うん、おかあさんが?」
「……ぱーふぇをたべたいって。でもおかあさん、げんきじゃないの。文、ぱーふぇをおかあさんにたべさせて、あげたいの」
か細い声で文が説明したため、なるほどと梨々花は顔を上げる。
この小さなイチョウのあやかしは、体が強くない母親のためにパフェを買いに来たのだ。おそらく、パフェが何物なのかよく分からないまま。
「なるほど……パフェならうちで作れるよ」
「お、おだいきん、もってるの。だから、おかあさんにぱーふぇ、つくってください!」
今にも泣きそうになりながら文は着物の懐をごそごそ探り、小さな――本当に小さな宝石のかけらを差し出してきた。いつも夜彦たちが支払う宝石に比べるとサイズも純度もかなり劣っているのが、素人の梨々花にも分かった。
だが、だからといって「お帰りください」と言えるはずがない。ここは、紫遠に相談だ。
「分かった。それじゃあお店の人に聞いてみるから、こっちにおいで。お店の中で話を聞いてもらおうね」
梨々花が優しい声で提案すると、文はこっくりうなずいた。見た目こそ人間の子どもと違うが、そんな仕草は愛らしく、ついつい梨々花の胸がきゅんとしてしまった。
まずは文を店に招いてお冷やを出し、申し訳ないと思いつつも紫遠を起こしに行く。
店舗二階の三部屋は、紫遠の部屋、由理子おばさんが眠っている部屋、梨々花が借りている部屋という順に並んでいる。由理子おばさんの部屋はクーラーの調節のために頻繁に訪れているが、紫遠の部屋を訪ねるのはこれが初めてだ。
「紫遠さん、起きている? お客様が来たの」
ふすまをノックする――代わりに土壁を叩いて声を掛ける。これで返事があればよかったのだが、あいにくコトリとも物音はしなかった。
梨々花はその場で数十秒待ったが、下には文を待たせている。見た目年齢一桁で、しかも心細そうにしていた文を長時間一人にさせるわけにはいかないだろう。
「ごめん、紫遠さん。入るよ」
一言断った後、梨々花はふすまを開けた。ふすまなので当然、鍵は掛かっていない。
紫遠の部屋は、梨々花が借りている部屋よりも少し広かった。半分くらいは畳だがもう半分はフローリングになっており、大きめの本棚が据えられている。
部屋の中はほんのりと暖かい。エアコンは設置されているが、ついていなかった。紫遠はあやかしの血を引いているだけあり、体感温度が梨々花とは違うのだろう。梨々花なら間違いなく、エアコンを入れている温度だ。
紫遠は、ブランケットにくるまって眠っていた。長めの銀髪が畳に散らばっており、なんだか幻想的な光景である。
「……紫遠さーん。お休み中悪いけれど、ちょっと急用があって」
「……すいよーびは、てーきゅーびですー」
紫遠からの返事は、いつものぱりっとした声からは想像できないほど気の抜けたものだった。そして梨々花が不意打ちを受けている間に、彼は寝返りを打って梨々花に背を向けてしまう。
「……ごよーのあるかたは、えーぎょーびにおかけなおしください……」
「うん、気持ちは分かるんだけど、あやかしのお客様が来ているの。小さな子だし、事情があるみたいで追い払うこともできないの」
「……あやかし?」
「そう」
「……。……え、ええ!? り、梨々花さん!?」
ようやくお目覚めのようだ。
紫遠はそれまでの怠惰な態度から一転して跳ね起き、ふすまの前で腕を組んで立つ梨々花を見るとさっと赤面した。
「ちょっ、どうして入ってきているのですか!」
「ごめん、ふすまの前で呼びかけたけど返事がなくて。……紫遠さんって、夜は上を着ない派なのね」
梨々花はついでのように一言付け加えた。
紫遠の上半身はやはりというか白く、それでいて引き締まっていた。大学の運動サークルに所属する男子学生たちが上半身裸で水浴びをしている場所を見たことが何度もあるが、彼らに負けないくらいいい体をしている。運動は好きではないと言っていたのに、これも血のなせるわざだろうか。
平然として意見を述べる梨々花に対し、紫遠の方が真っ赤になった。
「っ! けろっとして言わないでください! あなたに恥じらいはないのですか!?」
「ごめん、うちの弟も夏は上半身裸系男子だから慣れてた」
「……はぁ、分かりました。それより、あやかしのお客が来ているですって?」
紫遠が着替えを始めるので、梨々花は廊下に戻った。会話がしやすいようふすまは少し開けたままで、顔は階段の方を向いておく。
「そう。イチョウのあやかしで、文ちゃんって言うそうなの。お母さんのためにパフェを買いに来たらしくてね」
「……なるほど。そうなると、追い返すわけにはいきませんね」
まもなく着替えを済ませた紫遠が出てきた。その頃には彼もだいぶ普段の調子を取り戻しており、真面目な顔で梨々花の話を聞く。
「付き添いもいなかったのですか?」
「いなさそうだった。店の前に佇んでいて、どうしようか迷っている感じだったから声を掛けたんだけど……」
「それはありがたいことです。まだ自分の力がよく分かっていない子どものあやかしの場合、同伴者なしに長時間人間界をうろうろしていると、体調を崩してしまうことがあるのです」
「えっ……病気みたいな?」
「一種の病気ですね」
急いでホールに向かうと、文はおとなしく待ってくれていた。水を入れていたグラスが空になっているので、ひょっとしたら彼女ものどが渇いていたのかもしれない。
文は、紫遠を見て自分の仲間だと気づいたようだ。目を丸くして紫遠を凝視している。
「おはよう、文ちゃん。僕はこの店の料理人の紫遠だよ。父親がオオカミのあやかしなんだ」
柔らかい口調で紫遠が言うと、文はおそるおそるうなずいた。
「……はじ、めまして」
「うん、はじめまして。……早速だけど、文ちゃんはお母さんのためにパフェを買って帰りたいんだって?」
紫遠に優しく尋ねられ、文はこっくりうなずいた。
「……おかあさん、ずっとここのぱーふぇがたべたいっていってたの。だから文、おこづかいもってきたの……たりる?」
そう言って文が差し出した小さな宝石を、紫遠はしばらく黙って見つめていた。彼の背中を見守っていた梨々花だが、なんとなく、やはりあの宝石ではパフェ一つ分の代金を支払えないだろうということが察せられた。
「そうだね……ちょっとこっちのお姉さんと相談してくるから、文ちゃんは待っていてくれるかな?」
「……うん」
けなげにうなずいた文の頭を撫で、紫遠は梨々花を連れて調理場に引っ込んだ。
梨々花は動じない