15杯目 夜彦は語る
午後十時、「たかはし洋菓子店」夜の部開始。
「そうかい。しばらくの間由理子さんは、あやかしの国に来ているのだな」
そう言って目を細めるのは、梨々花にとってもおなじみになった夜彦紳士。彼は今日も黒蜜たっぷりの抹茶パフェを注文している。
「倅君と二人、大変だろうが頑張るのだよ」
「ありがとうございます、夜彦さん。そのお言葉がとても力強いです」
「おお、嬉しいことだ。こんなよいお嬢さんと一緒に仕事ができる倅君がうらやましいことだよ」
「あはは、紫遠さんにも言っておきます」
今は夜彦以外の客が来ていないので、梨々花は彼の隣に立っておしゃべりに興じていた。一般的なカフェなら従業員と客との立ち話よしとしない店もあるだろうが、個人経営、しかも一癖もふた癖もあるあやかし相手のこの店なので、「お客さんと関わりを持つといいですよ」と紫遠からも言われているのだ。
夜彦がパフェのクリームをスプーンで掬うと、とろーっと蜜が糸を引く。
「……それにしても、あの紫月が人間の嫁さんをもらうとはな。そして、嫁さんを国主に紹介できるまでとなると……いやはや、長生きはするものだな」
「……紫月さんって、そんなにすごいあやかしなのですか?」
梨々花は夜彦に尋ねてみた。「紫月はとてもすごいあやかしだ」というのは由理子おばさんからも紫遠からも聞いていたが、具体的にどうすごいのかは知らなかった。
梨々花の問いに夜彦はスプーンを銜えた格好のまま――といっても、相変わらずシルクハットで口元は見えないが――小さく唸った。
「そうだな……お嬢さんにはピンとこないかもしれないが、あやかしの国は立場の差というものが大きくてな、紫月は若くして上階級に所属する将来有望株だったんだ」
「へえ、貴族みたいなものですかね」
「まあ、そういったところだな。このままいけば、紫月は国主様の右腕になるだろうと言われていた。それくらいなんだ」
「……右腕にならなかったのですか?」
梨々花が問うと、夜彦はしばし沈黙した。そして彼は調理場から聞こえてくる水音の方に視線をやった後、梨々花を見上げてきた。
「……短期雇用といえど、由理子さんも紫月もいない今、お嬢さんも知っておくべきだろう」
「……」
ごくっとつばを飲み、梨々花は夜彦の言葉を待つ。
「――単刀直入に言うと、紫月は由理子さんとの結婚によって昇格の道を断たれた。……いや、そうではないな。紫月は、昇格と――そしてあやかしとしての永き命を失ってでも、由理子さんと共に生きることを選んだのだよ」
「……え?」
梨々花は目を瞬かせる。
由理子おばさんと結婚したから、紫月は昇格できなくなった。
由理子おばさんと結婚したから、あやかしとしての命を失った。
「……それって、どういうことですか?」
「そのままだよ。……君も気づいているだろうが、我々の寿命は人間と比べものにならないほど長い。そうだな……ざっと千年くらいは見積もっているといい」
「千年――」
それは確かに、百年生きられるか生きられないかといった程度の梨々花たちからすれば途方もないくらい長い年月だ。以前、小春姫が「三百年間の思い」とか、千秋が「四百歳は超えている」と言っていたのは誇張などではなかったのだ。
「そんな長い年月を生きる我々と人間が共に生きるのは、非常に難しい。あっという間に君たちは死んでしまうのだからな。だから、たとえあやかしが人間に恋をしたとしても、諦めるのがほとんどなのだよ」
だが――紫月は違った。
「彼は、由理子さんと共に同じ時間を生きることを選んだ。要するに、自分の寿命を縮めることで人間と同じように年を取り、老い、由理子さんとほぼ同じ頃に死ぬことを選んだのだよ」
りん――と、どこからか風鈴の音が響いた。隣に建つ和雑貨屋の商品が立てる音だろうか。
「彼はね、由理子さんと結婚してから人間のように急速に年を取るようになった。本来ならば千年生きることで、国主様のお助けになるはずだったんだ。紫月の寿命は保って、あと五十年だろう。そんな短命な者が国主様の右腕になれるはずがない。そういうわけで、紫月はこれ以上の昇格が望めなくなったのさ」
「……そういうことが、あったのですね」
「……あやかしの中には、紫月の決断を愚弄するものもいる。そして、由理子さんや倅君を非難する者だっているのだよ」
確かに、あやかしの国のエリートが人間と同じ寿命になったことに幻滅し、紫月たちを責める者がいてもおかしくない。
きっと、由理子おばさんたちが旅立つ前に危惧していたのは、このことなのだろう。
調理場の方からトントントン――と、紫遠が果物を切る小気味のいい音が聞こえてくる。
「……紫遠さんは、このことを知っているんですよね」
「もちろん知っている。……あの子も長い間葛藤してきたようだ。自分が人間なのかあやかしなのか、迷っているのかもしれん。私はこの洋菓子店ができる前から由理子さんのお世話になっていたのだが……ここだけの話だがね、倅君は子どもの頃、なかなかのやんちゃ坊主だったのだよ」
「ええ……あの紫遠さんが?」
梨々花よりも三つ年下なのに落ち着いており、接客などで戸惑うことがあればさりげなくフォローしてくれる頼りがいのある彼。子どもの頃はかなりおてんばで両親を困らせてばかりいた自分とは、大違いだと思っていたのに。
夜彦はふふっと小さく笑い、黒蜜でとろっとろのコーヒーをすすった後、「本当だよ」とおもしろがるように言った。
「あの子が黒い鞄を背負って学舎に行っていた頃はしょっちゅう、由理子さんと言い合いの喧嘩をしていたのだよ。『ばーか』とか『うるせぇんじゃぁ』とか、顔を真っ赤にして怒鳴っていてねぇ」
「……想像できない」
「今は落ち着いた子になったからな。私たちも止めようかと思ったのだが、由理子さんは我々が仲裁に入ることをよしとしとらなくてな。二人で転げ回りながら喧嘩をして、最後には抱き合って仲直りしておったよ」
あの由理子おばさんならやりかねないと思うが、紫遠も同じように転がり回りながら喧嘩をしていたというのは、やはり想像がつかない。
「おお、そういえば十年くらい前の冬だったか。倅君は家の前の雪を食べて腹を下して――」
「……ちょっと、夜彦さん。何暴露してるんですか」
背後から不機嫌そうな声がしたため、梨々花はぎょっとして振り返った。
そこには、濡らした布巾を手に立つ紫遠の姿が。その整った顔に似つかわしくなく、眉間に深い皺を刻んでいる。
「千秋もそうですけど、僕の過去を梨々花さんに言いふらさないでくれませんか?」
「おお、倅君も一丁前に照れているな」
「照れてるのではなくて、恥ずかしいのです!」
「まあそう言うな。こうなったら私のとっておき、学舎からの帰り道に二輪車ごと川に転落した時の経緯を――」
「夜彦さん!」
「おお、おお、美男子の怒る顔は迫力があるなぁ」
夜彦はからりと笑い、残っていた黒蜜コーヒーをぐいっと飲み干すとステッキ片手に席を立った。
「それでは、爺は退散するかな」
「……毎度ありがとうございました」
「よいよい。また来たときに頼むよ」
代金代わりの赤い宝石を渡し、大きなため息をつきつつ紫遠が調理場に戻っていくのを見送った夜彦は戸を開けた後、ふと戸口の前で立ち止まった。
「お嬢さん。お嬢さんから見て、紫遠や紫月、由理子さんはどんな『家族』に見えるかね?」
紫遠が残していった布巾を手にした梨々花は、振り返った。
梨々花の腰ほどの身長の夜彦は、シルクハットで隠れた目を真っ直ぐ梨々花に注いでいる――と感じられた。
しばしの間、紫遠がシンクで洗い物をする水音が響く。
「……とても仲のいい、すてきな家族だと思います」
やがて梨々花がかすれた声で述べた答えに、夜彦は満足そうに微笑んだ――と感じられた。
「そう、それが一番なのだよ。誰がなんと言おうと、ね」
そうして小柄な紳士は一礼し、夜の美観地区へと溶け込んでいったのだった。