14杯目 おばさんの旅立ち
あやかしの国に行く、と最初に聞いたときは、異世界の扉でも開いて旅立つのかと思っていた。
「それじゃ、部屋のエアコンは絶対に切らないでよ! あたしの魂は無事でも、体が死んだらおしまいなんじゃから!」
何度も息子に言い聞かせている由理子おばさんは、着物姿で布団に座っていた。彼女曰く、この日のために準備していた一張羅らしい。
人間である由理子おばさんが夫と一緒にあやかしの国に行く方法。
それは、「眠っている間に魂だけ旅をする」というものだった。要するに、幽体離脱である。
「基本的に途中で戻ってくることはできんけど、どうしてもってことがあればお父さんを呼ぶんよ!」
「分かってる。母さんこそ、気を付けて行ってきて」
布団の前に座ってそう言う紫遠は、少しだけ声に覇気がない。彼も、母親が幽体離脱することに不安を隠せないようだ。
部屋の隅に座っていた紫月が目を細め、息子をじっと見つめる。
「……ユリのことなら私が守るから大丈夫だ。おまえこそ、気を付けろ。今までのようにすぐに駆けつけてやることはできないからな。リリと協力するのだぞ。……リリも、息子を頼んだ」
「はい、もちろんです」
梨々花が答えて紫遠もうなずくと、紫月は由理子おばさんに布団に横になるよう言った。
「では、行ってくる」
「そんじゃあね、紫遠、リリちゃん」
紫月が布団に横たわる由理子おばさんの手を取り、ぎゅっと握った――瞬間、大柄な紫月の体はふっとかき消え、由理子おばさんの体からも力が抜けた。
「母さん……!」
分かってはいても、紫遠は焦ったように母親の顔を覗き込んだ。由理子おばさんは目を閉じ、すやすやと眠っていた。胸は上下しているし、吐息もちゃんと感じられる。本当に、ただ眠っているだけのようだ。
紫遠はしばらくの間黙っていたが、やがて枕元に置いていたエアコンのリモコンを手に取り、風量を「弱」に設定した。
「……無事に出発できたようですね。邪魔をするのも何ですし、下に降りましょうか」
「うん、そうだね」
紫遠に促され、梨々花は由理子おばさんの寝室を出た。とたんに廊下に満ちていた熱気がまとわりついてきたため、二人は慌てて冷房の効いている一階へ下りる。
紫遠がアイスコーヒーを淹れてくれたので、二人はカウンター席を挟んでコーヒーをすすった。
「まさかあんな形であやかしの国に行くとはね……」
「実は僕も、あやかしの世界へ続くドアか何かが現れるのだとばかり思っていました」
「あ、紫遠さんも?」
「母さんがなかなか教えてくれなくて」
そう言って紫遠は笑う。
会話がとぎれると、店内はしんと静まりかえった。これまでにもこうして二人で飲み物を飲むことはあったが、たいていは店内のどこかに由理子おばさんがいた。二人が黙っていても、由理子おばさんが準備をする音やテレビの音などが聞こえてきていたのだ。
夏休み真っ盛りだからか、壁越しに子どもたちの声がする。もうそろそろ宿題は終わった頃だろうか。
「……そういえば、梨々花さんはお盆に家に帰ったりしなくてよかったんですか」
「お盆時の飲食店は稼ぎ時だろうからって、今年は行かなくていいってさ。親戚の家には、九月に入って東京に帰る前にちょこっと顔を覗かせるつもり」
由理子おばさんがあやかしの国に行く日時はあらかじめ指定されていたので、家族にもお盆に帰ってこられない旨を伝えている。ちなみに母親と弟はずっと楽観的で、最初の頃はそわそわしていた父親も最近ではメールの返事も「そうか」で終わるようになっていたのため、梨々花も一安心である。
「……さて、ではそろそろ僕は準備を始めますね」
「ええ。……何か手伝えたらいいのだけれど」
「でしたら、簡単な調理補助だけお願いします」
立ち上がった紫遠はそう言ってシャツの袖をまくった。いつも思うが、男らしくがっしりしているのに白い腕である。さすがあやかしだ。
「果物をカットする作業や缶詰開封などを任せてもいいですか」
「もちろん! 私、こういう細々とした作業も結構得意なんだ!」
「……でも、トッピングなどの細かい作業は苦手だそうですね」
「うっ……それとこれとは別じゃない!」
自分の苦手分野をやんわりと指摘された気恥ずかしさで、ぱんっと紫遠の大きな背中を叩くと、「参りました」と苦笑いされた。
六日間、なんとか頑張っていけそうだ。