10杯目 傷心のお姫様
その後、ぱらぱらとあやかしたちが来店してきた。
「……だからさぁ! あいつ、ちょーっとあたしの鱗が欠けたからって絶縁絶縁言ってくるのよぉ!」
そう言ってカウンターテーブルをダンッと叩く女性あやかしの腕は、薄緑色の鱗で包まれている。
「あの完璧主義男め! 鱗くらいすぐに生え替わるのに、一度気になったらもう無理なんて言うのよ! どう思う、あんた!?」
「えーっと……」
「お待たせしました、わかめ入り抹茶パフェです」
女性客への返答に困っていた梨々花と客の前に、すっとパフェが差し込まれた。抹茶パフェの神が唸ってしまいそうな、磯の香りたっぷりのパフェである。
それまで恋人の愚痴を延々と語っていた鱗を持つ女性客は、紫遠が持ってきてくれたパフェを見ると、ぐすっと鼻を鳴らしながらもスプーンを手に取った。そして紫遠はというと、カウンターの下をちょいちょいと指で示してから調理場に戻っていった。今の間にスケッチブックを見ろ、ということだろう。
女性客がわかめ抹茶パフェを食べている間に、梨々花はカウンターの内側にしゃがみ込んで例のスケッチブックを開く。開店前に紫遠と一緒にぱらぱら見た程度だが、緑の鱗の女性の項目は中程にあったはずだ。
「……あった」
名前は小春姫。髪の毛はマリンブルー。全身緑色の鱗で覆われている彼女は、フナのあやかしだ。感情の起伏が激しく、怒ったり泣いたりすることが多いが大好きなパフェを食べると一気に落ち着く。彼氏の愚痴は日常茶飯事なので、理解を示しつつ聞いてあげればいい。好きなトッピングはわかめ。
「う、うう……桃の甘みが胸に来る……」
スケッチブックを閉じてカウンターから顔を覗かせてみると、フナのあやかしである小春姫は半分以上パフェを食べており、スプーンでサックサックとコーンフレークをかき混ぜていた。
「あたしは、毎日あいつのために鱗を磨いているのに……ちょーっと怪我をしただけよ? ちょーっとだけなのにもうおしまいなんて……」
「小春姫さんは、恋人のことが大好きなのですね」
「もちろんよ! あいつのために何百年鱗を磨いたと思っているの!?」
「なんびゃく――」
どうやら、あやかしの寿命はとてつもなく長いらしい。
「ああ……やっぱり鱗のきれいな若い子が好きなのかしら。あたしたちが愛を育んだ三百年間は、何だったのかしら――」
「さんびゃ……えっと、鱗のお怪我はもう大丈夫なのですか?」
「……ええ、もう元通り生えたわ」
ほら、と小春姫は纏っていた着物の袖を大胆にまくり上げた。彼女は、「ここの鱗が欠けていたの」と一点を示すが、梨々花には欠けた鱗なんて分からない。
「……確かに、どこもとてもきれいな緑色の鱗ですね」
「そうでしょう?」
「小春姫さんは毎日、恋人のために鱗のお手入れをしているのでしょう? きっとその成果ですよ。小春姫さんが一生懸命鱗のお手入れをするくらい、愛情が深いってことですね」
「……ええ」
小春姫は着物の裾を直すと、ふーっと息をついた。
「……あいつ、あたしのことをもう一度見てくれるかな」
「お話ししてみたらどうですか? 聞いたところ、鱗が治ってからまだ会われていないのでしょう。小春姫さんの思いを聞けば、恋人も小春姫さんのことを理解してくれると思います」
「そうかしらぁ」
「だって小春姫さん、とってもおきれいですし」
これはリップサービスでも何でもない。小春姫は美人だ。
着物を着ているため体型は分かりにくくなっているが、腕や足は細いのに女性らしい柔らかさを孕んでいる。緩くうねって腰まで伸びているマリンブルーの髪は手入れがされているし、勝ち気そうな顔立ちは梨々花もうらやましくなるほど整っていた。
小春姫はまんざらでもないのか、顔を上げて梨々花を見た。
「そう? あたし、きれい?」
「はい、とてもおきれいです」
某都市伝説の妖怪女とのやり取りのようだ、と思ったのはここだけの秘密だ。
小春姫は梨々花の真摯なほめ言葉が嬉しかったのか、ふっと目元をゆるめるとカップに残っていたコーンフレークを一気に掻き込んだ。
「……そっか、あたしきれいなのね」
「はい、ですから恋人さんもきっと――」
「……きれいなあたしなら、あんな男にいつまでも執着しているわけにはいかないわ!」
突如声を上げたため、他のあやかし客たちも何事かとこちらを見てくる。
小春姫はぐっと拳を握り、薄暗い天井をきりりと見上げた。
「こうなったら、あいつをぎゃふんと言わせてやるわ! 見てなさい、あたしはあんたよりずぅーっといい男を見つけてやるんだからね!」
「え? あの、小春姫さん――」
「梨々花だっけ、ありがとう! ……三百年が何さ! あたしはまだまだピッチピチの乙女なんだ! これから返り咲いてやるわよぉ!」
そうして小春姫は勢いよく席を立つと、オーッホッホッホと高笑いしながら店を飛び出していった。もちろん、無言でレジの前に立っていた紫遠に、代金として金色の宝石を渡すことは忘れなかった。
「……おお、小春姫の嬢ちゃん、ご機嫌だのぉ」
「あたしも若い頃は、ああやって男を泣かせてたかのぉ」
「よきかなよきかな。若い者は恋をするとええよぉ」
近くの四人席にいた老女あやかし三人組が、ほっほっほ、と上品に笑った。ちなみに、倉敷川の脇に生える柳のあやかしだという彼女らは、トッピング追加を注文せず普通の抹茶パフェを食べている。
「あたしらぁもあんな頃があったかしらねぇ」
「嫌だね、麻代さん、何百年前の話かえ?」
「そうさな、七百年くらいかのぉ」
「ほっほっほ、当時が懐かしいのぉ」
やはりあやかしは、とてつもなく長命であるようだ。
午前一時、「たかはし洋菓子店」閉店。
「つ、疲れたぁ……」
「お疲れ様、リリちゃん」
テーブルにべったりと伸びる梨々花に、由理子おばさんがそう言って快活に笑った。
「お客の入りは昼間ほどじゃないけど、慣れないうちは精神的に疲れるじゃろ?」
「はい……あやかしって、個性豊かですね」
本日のあやかし客は、約十五名。
一番個性が強かったのは小春姫だったが、人間相手とは違って梨々花も精神をかなりすり減らした。幸い、皆愛想がよくて梨々花の態度もかなり大目に見てくれた節がある。
「明日――いや、今日も十一時から開店だからね。お風呂が沸いているから、先にお入りよ」
「えっ……おばさんや紫遠さんは?」
「あたしは長風呂だから最後。紫遠はシャワーだけで元々あまり入りたがらないんだよ。旦那が北国に住むオオカミのあやかしだからかしらねぇ」
そういうことで梨々花は最初に風呂に入らせてもらうことになった。
二階の自室に上がって布団を敷き、ぽすんと敷布に仰向けになる。LED非搭載の和風電灯の紐がゆらゆら揺れている。
「……あやかし、かぁ」
つぶやき、布団の脇に置いていたスマホをちらっと見る。
今日一日、ほとんど触ることのなかった文明の利器。バイトをやめ、前期試験も終わって就活に失敗しまくっていたあの頃とは真逆の日だ。
ひとまず梨々花は両親にメールを打ち、トークアプリを確認して友人たちから送られていたメッセージにも返信をした。そして目覚ましタイマーを掛けると、部屋の明かりを消した。
その日、梨々花は人魚のような姿の小春姫と一緒に倉敷川を泳ぎ、釣りをしていた紫遠に釣り上げられる夢を見た。