9杯目 小さな紳士
その後、スケッチブックを相棒に紫遠から接客のポイントを教わっているうちに、時計の針が午後十時を指した。
「そろそろ開店ですね」
そう言って紫遠は立ち上がり、カウンターを回って店の入り口に向かう。彼に「来てください」と言われた梨々花も椅子から降り、一緒に店を出た。
夜のとばりの降りた美観地区の町並みは、昼間の活気が嘘のように静まりかえっている。大通り沿いに等間隔に並んだ街頭が、ぼんやりとした黄色い明かりを浮かび上がらせていた。夜の十時ともなれば気温も下がり、人気がなくなるのも当然である。だが――
「……なんだろう。やけに静かすぎない?」
不安になった梨々花は、隣に立つ紫遠に問うてみた。
夜になったら閑静になるのは分かる。だが、それにしても不気味なほどの静けさだった。夜間とはいえ、少しくらい人の声や物音がしてもいいのに。川の水面に映る丸い街灯の明かりでさえ、幻想的というよりは怪しげな雰囲気を醸し出していた。
梨々花の耳に届くのは、夏の夜風を受けて川沿いの柳が立てるかすかな音のみ。それも、涼しげというよりは不気味な音色に感じられ、ぞわっと背筋に悪寒が走った。
「……あやかしの時間になった証拠です」
「あやかしの時間?」
「そうです。……それじゃあ、開店作業ですね」
そう言って紫遠は、「本日閉店」となってた看板をひっくり返した。
「営業中」。
その文字は昼間も同じように見えていたはずなのに、全く違った印象を受けた。
すると。
「……人?」
梨々花は弱々しく零す。
つい先ほどまで、人っ子一人いなかった夜の美観地区の町並み。だが今、店の前にある石造りの橋の上に、ぽつんと一つの人影が浮かんだのだ。
橋の欄干に手を掛けて川を眺めていたらしいその人は、紫遠が看板を「開店中」に変えたことに気づいたようだ。はっと顔を上げ、こちらに向かって橋を渡ってくる。
「お客様が来ました。どうやら、開店待ちをしていたようですね」
「あ、あの人もあやかしなの……?」
「常連さんですよ。たぶん夏の間もしょっちゅう来るでしょうから、挨拶しておきましょうね」
無意識のうちに紫遠のエプロンの裾をぎゅっと握っていた梨々花の背に、ぽんっと大きな手のひらがあてがわれた。
そうしているうちに人影は橋を渡りきり、店の前までやってきた。
それは、黒いシルクハット、黒い燕尾服姿の紳士だった。
シルクハットのサイズが大きいのか、つばで目元まで完全に隠れてしまっているので表情を見ることはできない。紫遠の言うとおり人間の形をしているが身長はかなり低く、シルクハットの先端が梨々花の胸元に届くか届かないかといったところだ。
着ている服も手にしているステッキも上質そうな彼は梨々花たちの前で立ち止まると、ひょこっと小粋な仕草でお辞儀をした。
「こんばんは、倅君。今日もよい夜だな」
「こんばんは、夜彦さん。いつもお越しくださり、ありがとうございます」
「いやいや、由理子さんの甘味は、毎日食べたって飽きないくらいだよ。……で、そちらのお嬢様は?」
シルクハットがひょこっと動く。シルクハットのつばに隠れて見えないが、どうやら梨々花を見ているようだ。
紫遠は微笑み、先ほどから梨々花の背中にあてがったままの手を軽く押して梨々花を前に出させた。
「こちらは、僕のはとこにあたる梨々花さんです。彼女もあやかしの姿を見ることができるのですよ。夏の間だけ、うちで働いてもらうことになりました」
「は、初めまして。高橋梨々花と申します」
声が裏返りそうになりながら、梨々花は夜彦と呼ばれた小さな紳士に挨拶をした。
夜彦は「ひょっ」と小さな声を上げ、こくこくと首を横に傾げる。
「おお、おお、これは珍しい。……そうか、由理子さんの親戚ならば我々が見えるのも当然かもしれぬ。よろしくの、梨々花さん」
「はい。よろしくお願いします、夜彦さん」
梨々花に挨拶をする夜彦の声は穏やかで、梨々花は緊張でがちがちになっていた体を少しだけほぐすことができた。
そうして紫遠と梨々花は、最初の客である夜彦を店内に通した。夜彦は背が低くて脚も短いからかカウンター席ではなく四人用の席に座り、ステッキを空いている椅子に立てかけた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
ポケットから注文用紙を取り出した梨々花が緊張しつつ問うと、夜彦は大きくうなずいた。
「いつものだ。季節のフルーツパフェに、黒蜜をたっぷり掛けておくれ。あとは黒蜜ソース入りのアイスコーヒーを」
「季節のフルーツパフェ、黒蜜たっぷり掛け。そしてアイスコーヒーの黒蜜ソース入りですね、かしこまりました」
とんだゲテモノになりそうだな、と思いつつ梨々花は夜彦の注文内容をメモする。そういえばスケッチブックに「夜彦」なる項目があった気がする。そこに「全てに黒蜜ソースを掛けたがる」などのメモがあったのかもしれない。
あやかしたちは味の好みがはっきりしているらしく、「甘い」「辛い」だけでなく、トッピングや味に様々な注文を付けてくるのだという。よほどのものをオーダーされない限りは彼らの注文に従うのが由理子おばさんの主義ということで、調理場には昼の客相手には絶対に使用しないような調味料が大量に置かれているらしい。梨々花は開ける機会がなさそうだが、様々なトッピングが入ったタッパーを冷蔵庫に保存しているそうだ。
「いやぁ、それにしても由理子さん以外にも、我々の姿が見える人間がいるとはねぇ」
調理場にいる由理子おばさんと紫遠に注文を伝えた梨々花がホールに戻ると、足をぷらぷらさせていた夜彦が呟く。
「お嬢さん、年は倅君と同じくらいかな?」
「紫遠さんより三つ年上です」
「そうかいそうかい。……夏の間だけとはいえ、若い女の子がいるのも癒しになっていいものだなぁ」
夜彦はジェントルマンといった風貌ではあるが、なかなか親しみやすい雰囲気を醸し出している。
『ちょっと別の世界、時間軸を生きとるだけで、あたしらと何ら変わらんよ』
由理子おばさんの言葉が、すとん、と梨々花の胸に落ちてきた。
この小さな紳士も、昼間来店した女子高生たちと何ら変わりはない。ちょっと見た目が違うだけで、どちらも「たかはし洋菓子店」のお客様なのだ。
「……その、夜彦さんは何のあやかしなのでしょうか」
スケッチブックを見れば分かるのだろうが、あえて梨々花は夜彦本人に尋ねることにした。
夜彦は少しだけ顔を上げ、テーブルの脇に立つ梨々花に視線を合わせた――のだと思う。
「私か? 私はカラスのあやかしだよ」
ほれ、と夜彦が自分の肩をつんつん突くと、彼の肩胛骨の辺りからふわっと漆黒の羽根が生えてきた。燕尾服を破って服の下から現れたのではなく、そのまま背中に現れた、という感じだ。
「わあっ……羽根!」
「ふふ、お嬢さんのような新鮮な反応をもらうのも久しぶりだな。私は他のあやかしと同じく普段はあやかしの国で暮らしているのだが、こちらの人間界で暮らすカラスたちと交流しているのだよ」
「カラスの言葉が分かるのですか?」
「もちろん。彼らはなかなか有益な情報をくれる。実は、この『たかはし洋菓子店』の存在を教えてくれたのもカラスたちなのだよ」
夜彦曰く、美観地区を縄張りにしているカラスたちが新しくできた「たかはし洋菓子店」に気づいて彼に報告してくれた。さらにそこの女主人の息子があやかしと人間のハーフということで、夜彦も興味を持ったのだという。
「我々もたびたび人間界に降りるのだが、人間がびかんちくと呼んでいるこの辺りしか姿を現すことができんのだ」
「あやかしによって、人間界でも降りられる箇所が決まっているということですか?」
「そうそう。確かお嬢さんや由理子さんたちの一族も、この近辺のあやかしのみ見られるとのことだな。私たちは他の地域に行くことはできないのだが、きっと世の中にはさまざまな地域、さまざまなあやかしがいるのであろう」
夜彦がしみじみと言ったとき、調理場ののれんを片手で持ち上げた紫遠が顔を覗かせた。
「梨々花さん、これを夜彦さんに持って行ってください」
「あ、はい!」
紫遠が差し出したお盆には、昼間も見た季節のフルーツパフェ――の上にたっぷり黒蜜が掛かったものと、アイスコーヒーにしてはかなりどろっとした見た目のものが載っている。これが夜彦の味覚に合っているのだろう。
予想通り、梨々花が運んだパフェを一口口にした夜彦は、「そう、これだよこれ! 果物の甘酸っぱさと黒蜜のこってり甘さが何とも言えん!」と大喜びである。相変わらずシルクハットのつばのせいで口元を見ることもできないが、どうやら夜彦は口も小さいらしく、少しずつパフェを口元に運んでいた。
「いやぁ、今日もおいしかった。ほれ、これが代金だ」
パフェとアイスコーヒーを完食した夜彦は紙ナプキンで口元をちょちょっと拭った後、懐から小さな丸い物体を取り出した。梨々花が差し出したお会計トレーに載せられたそれは、小指の爪ほどの大きさの真っ赤な石だった。
「……これは?」
「おお、そうか、お嬢さんは知らないのかもしれんな。これは人間も好む宝石の一種だ。由理子さんがどこぞやで換金すると言っていたので、これで支払うよ」
「いつもありがとうございます、夜彦さん」
宝石の価値がいまいち分からずとまどう梨々花の代わりに、調理場から出てきた紫遠がそう言った。
満足そうな夜彦を見送った後、梨々花はトレーに載っている赤い宝石を紫遠に見せる。
「紫遠さん。私、あやかしたちの支払い方法がよく分からないけれど、どうすればいい? お釣りとか、そういうのは考えなくていいの?」
「大丈夫ですよ。先ほど夜彦さんも言われていましたが、これらは母が知り合いの伝で換金します。そもそもあやかしたちはお金の価値にそれほど頓着しないので、物々交換だと思ってくれればいいです。心配なら、会計だけは僕がしますね」
「……ごめんなさい、お願いします」
紫遠はけろっとしているし夜彦紳士も対価を払うことに躊躇していなかったが、やはり梨々花にはハードルが高い。「ぼったくり」とか「不当請求」とか「ニセ金」のようなことばかり考えてしまうのだ。
赤い宝石をレジ下の引き出しに入れた紫遠は振り返り、トレーを持ったままその場に立っていた梨々花に微笑みかけてきた。
「一人目の接客、お上手でしたよ」
「……ありがとう。夜彦さんが気さくな方でよかったわ」
「まあ、確かに癖の強いお客も多いですからね。でも、今みたいな感じで接客してくれればいいですよ。あやかしたちは興味津々であなたのことを聞いてくるかもしれませんが、原則は人間相手の商売と同じです。あなたが笑顔でいれば、きっとあやかしたちも喜ぶでしょう」
「笑顔……頑張るわ」
「ええ、梨々花さんは笑顔がとてもきれいですからね。僕もあなたの笑顔が好きですよ」
……お世辞と分かっていても、そういうことをさらっと言わないでほしい、と梨々花はこっそりとため息をつくのだった。