色褪せない世界
水が入った陶製のコップと絵皿をもって、敷居をまたいだ桐生の鼻孔をイグサの香りがくすぐった。板張りの廊下とは違う、やわらかな畳の感触が足になじんでいる。
畳が敷き詰められた一室。障子で区切られた空間が桐生は好きだった。薄い障子紙が太陽の光を透かして、無色透明な影を落とす空間には、余情を感じさせる深い趣がある。
おぼろげだが、心に染み込んでくる明かり。直接、日が当たることなく創りだされる淡い影。これらに、桐生は一種の儚さを見ていた。
やりたいことがなく無気力状態にあり世を儚んでいる自分、を投影して切なさを感じる。時折、桐生は風景に自分が溶け込んでいくような感じを覚えることがある。
陶製のコップと絵皿を畳の上に置く。手慣れた仕草だ。次に、天袋に収納してある画仙紙と箱を取りだす。蓋をあけると、墨の匂いが辺りに広がった。
深みがある無彩色の箱内で、下敷きの上にひっそり、硯・筆・文鎮・墨が佇んでいた。おもむろにそれらを取りだして、墨を磨る。
透きとおった水に、墨が溶けていく。墨は自身を削って水を染める。墨の匂いがさっきよりも色濃く感じられた。
——ああ、空ろだね。
世界は空ろで無情なものだ。世界は他者を必要としない。世界は誰が死のうとあり続ける。それでも、自分に存在意義を感じたいならば、自分自身を削って世界を塗り替えるしかないのだ、きっと。
桐生はひょろひょろの細い腕で、書道の筆より固く、毛が短めの長流を手にする。独特の墨の匂いが、桐生の感覚を研ぎ澄ませていく。桐生は今、真剣な面持ちで画仙紙に向かっていた。
筆を墨に浸す。光り輝く純白を濡らすのは、艶のある漆黒。絵皿で墨を薄めて筆につける。硯でつくった墨を、筆の先だけにつける。筆をねかせながら一筆。豊かな諧調で表現されるのは富士の山並み。
さらさらと流れるように、描かれていけばいくほど、余白が色を帯びていく。葉を滲ませるように。遠景は薄くぼやけるように。
時に点。時に線。墨の濃さ、穂に含ませる墨の量、筆の速さ、筆圧、それらを全て考えながら描き進めていく。
薄墨で何度も重ねて描いた山の表情は、どこか憂いを含んでいた。濃淡のある黒が描くのは白雪が積もった世界。
筆は黒によって白を濡らし、白を濡らして、黒を染める。黒を染めて白に沈み、白に沈んで黒を欲する。
カラスの濡れ羽色で描かれる白雪は、黒が織りなす独特の世界を象徴していた。純潔ではない異端な白。それは漆黒の闇に包まれて降る雪の淋しさを思わせる。
でも、白があるから黒があり、黒があるから白があるのだ、きっと。
——ナンバー1にならなくていい。もっともっと素敵なオンリー1、というフレーズがあったね、そういえば。
出来上がった水墨画を見て一息。かすれより滲みが多く、黒を主張させることで白を際立たせたその水墨画は、桐生らしい作品だった。だから、それは桐生の存在証明書。
「人間は弱くて儚いね」
閑散とした一室で、桐生は小さく呟いた。