14 新たな春に
その後、放心状態で部屋へと戻った菖蒲はどう宴を切り上げたのかも覚えていない。
庭で絶叫した者がいたことは話題になったが、菖蒲であったことは伏せられ、酔った誰かの悪戯だろうとあまり騒ぎにもならなかった。
「慎みを持った方がいいんじゃないですか」
頭の中に反響する宝珠の言葉に、菖蒲は傷つき動揺している。
初めて宝珠を怒らせて嫌われたに違いないと、慎みがないと思われていた事もまた衝撃だった。
一晩中泣き明かし数日寝込むと、菖蒲はすっかり男の子が苦手になっていた。
宝珠とは謝罪の文を最後に文通も途絶えた。
遊びの会にも顔を出さなくなり、会の姫達とも数人と文を交わす以外は交流を持たなくなる。
以来、小栗を煩わせるような騒ぎも治まると、祖母の教えを素直に受けて教養を身につけはじめ、1日中部屋の中に引きこもるようになった。
初めこそどこか悪いのではないかと心配されたが、大人になったのだろうと皆が納得し気にされることも無くなった。
それから三年の月日が流れ、菖蒲は物静かな姫君へと変わっていた。
藤の花が咲き乱れる季節、都の東にある森ノ宮の神殿では大きなお祭りがある。
舞姫たちによる華やかな舞台や美味しい物が並ぶ屋台に、都中の人が押し寄せる。
道という道が牛車で込み合い、人や馬が細い路地を埋め尽くす。
しかし、菖蒲の乗る牛車だけは閑散とした通りを進んでいた。
この日久しぶりの外出をすることになった菖蒲は、浮き立つ女房達によって童女の正装と薄く化粧を施されている。
翠子として参内するようにとの正式なお達しに従い、都の中心である宮中へと向かう車の中では緊張する乳母の小栗が付き添っている。
「ようございましたね。いよいよ翠子の任を解かれるとのこと、この小栗も安心できます」
心底安堵した様子の小栗に、菖蒲はそうねと気のない返事をする。
母からの文にも、翠子の任が解かれることになったので素直に参内するようにとだけ書いてあった。
詳しい経緯は分からないものの、褒美として縁談を賜のだろうことは想像できた。
まだ初潮も迎えていない菖蒲にとってすぐに婚姻とはならないまでも、男の子とは関わりたくないと思っているので気が重い。
宮中に着くと、小栗とは離されて宮中の奥へと進み、やがて人気のない静かな部屋に案内される。
案内の者が座って待つようにとだけ話すと、菖蒲はひとり取り残された。
仕方なく部屋の隅すみに座り、縁談をどうやって断ろうかと思案する。
しばらくすると、神祇官から来たという男二人が一人の神官を伴ともなって現れた。
神祇官とは神々を奉り、神事に関する全てを司る機関である。
つまり翠子の選定も神祇官の中で行われる。
これから解任を言い渡すのだろうと菖蒲は黙って頭を下げた。
「そなたが左大臣家の孫姫である菖蒲殿か」
質問されたことに、はいとだけ答える。
「神祇官の翠子選定を任されている次官の七辻康友である。今まで、翠子の任、大義であった。本日をもって、橘家の菖蒲は翠子の役目を解任する」
ありがとうございます、そう小さく答えると頭を上げる。
「書面上の事とはいえ、恐ろしい思いもしていたであろう」
労いの言葉も、参内の文が来るまですっかり忘れていたお役目だったのでよく分からなかった。
「いえ……」
短く答えると、この中で一番偉いであろう初老の男が頭を下げた。
「いやいや、我らが至らないばかりに重大な役目を押し付けてしまった。申し訳なかった。よもや翠子の姫が神官の一人と駆け落ちするとは思ってもみなかったのだ」
菖蒲は慌てて頭を下げたが、話の内容に驚いて顔を上げてしまう。
「えっ……」
駆け落ちとは、結婚を反対された男女が一緒に逃げてどこかで一緒に暮らすというあの?
菖蒲が返事に困っていると
「夏房殿、細かい話は結構です。逃げた翠子も見つかったことですし、神官の処罰はそちらで決めていただくとして、用が済んだのなら菖蒲はお返しください」
強い口調で現れたこの女性こそ、菖蒲の母紅葉である。
年末に会って以来の母の姿に気圧されていると、夏房と呼ばれた男が頭を下げた。
「いやぁ紅葉殿、これはすまなかった」
神官も解任の儀を見届けたことで用も済んだとばかりに一礼し去っていく。
母は菖蒲の肩を掴むと
「この貸しは大きいですよ」
と神祇官への挨拶もそこそこに菖蒲を連れ出した。