四
その日も森永のおじさんは会社に向かった。三月三十一日通りを進み、いつものように負けず嫌いのおじいさんをぬかして駅にたどりつく。朝の満員電車の中で、いつものようにおじさんは右手に持った文庫本を読んでいる。大きな駅につくと、ぽんと本を閉じておじさんは違う線に乗りかえをした。そして草原のど真ん中にある駅に降りる。
草原のど真ん中にある駅で降りるのはいつもは森永のおじさんと二人の女子高生だけだ。しかし今日はその女子高生が一人しかいなかった。二年前からその二人はずっと一緒に登校していたので森永のおじさんは一人欠けてしまったことを意外に思った。何か用事があったのかそれとも体調をくずしたのか。いつもより一人少ない二人の乗客は改札口をぬけると駅前の小さなターミナルにあるバス停に向かった。そのバス停に一脚だけ置かれた椅子にはいつものようにおばあさんが座っていた。おばあさんは一人だけしかいない女子高生をちらりと見たがすぐに視線を戻してしまった。おばあさんはじっと目を閉じてバスを待ち、森永のおじさんはうっすら笑顔でバスを待つ。そして一人しかいない女子高生はただぼんやり空を見ている。
いつもより一人少ない三人はバスに乗った。そしてバスは駅前のターミナルをぬけて県道を進んでいく。途中の高校前バス停で一人しかいない女子高生は降りた。そして病院前のバス停でおばあちゃんは降りた。これはいつものとおり。そしてバスは森永のおじさんだけを乗せて進み、草原の中の丘をゆるゆるとのぼっていく。
「今日はエンジンの調子がいいみたいですよ」
運転手さんはとつぜんそんなことを言った。森永のおじさんはいつものようにしずかに笑ってうなずいた。そして丘の上のバス停でバスは止まり、森永のおじさんはバスから降りる。誰も乗っていないバスが丘を降りていく。
おじさんはいつものように白い壁にとりつけられたボタンを押した。ビィィィとベルがなり宇部さんが出てくる。いつものように挨拶をして帽子と背広を渡した。木の廊下を通って部屋に入るとまたいつもの三人がいた。あいさつを交わした後で年かさの男が言った。
「森永さんの仕事が今日から少し増えました」
「そうですか」
森永のおじさんは右手で机の上の書類をあさった。
「いつものように何の仕事かは分かりませんけれど、とりあえず仕事は仕事です」
「なるほど。ありがとうございます」
そう言うとおじさんは椅子に腰かけてさっそく仕事にとりかかった。その新しい仕事が書かれた紙には数字がただただ縦に羅列してあった。そして紙の一番上、少しずれた所には「45、963」と印字されてある。どうやらこの「45、963」という数を下に書かれた数字の割合ごとに分けていくらしい。そして分けるときには絶対にそれぞれが小数になってはならないとのこと。そして小数点以下を調整して整数にし、それらを全部足したら「45、963」にもどさなくちゃいけないようなのだ。そしてその作業には「一貫した原則」が必要なのだって。何だ?その一貫した原則とは?とりあえず作業の手順を理解するとおじさんは計算にとりかかった。数時間その仕事に熱中した。なに、そう難しい仕事ではない。ただややこしいだけだ。もともとここ会社の仕事はそういう仕事が多いのだから。
「みなさん、お昼休みですよ」
宇部さんのいつもの合図でお昼休みになった。森永のおじさんは仕事を中断した。そして実夏さん手作りの愛妻弁当を食べる。眼鏡の男は相変わらず宇部さんからお茶をもらっていた。彼の奥方はお茶が嫌いなのだろうか?
「そういえばどうして今日から仕事は増えたんですか?」
森永のおじさんは年かさの男にたずねた。
「わからない。ただ私たちの仕事もそれぞれ増えている」
「何かあったんでしょうか?」
と眼鏡の男が口をはさむ。
「会社が倒産の危機だったりして」
小太りの男の笑えない冗談に部屋の中の空気が凍りついた。その冗談は彼らにとっては死活問題なので本当に冗談にならない。
「ま、まさかそんなことはあるまい」
と年かさの男は否定した。もちろん彼だってこの会社について何かを知っているわけではなく彼の言葉も憶測に過ぎない。ここの会社には何も真実は置いていない。ここで交わされる彼らの会話は不思議の国で交わされる話くらいの真実味しか持たないのだ。この会社には何も真実はない。あるのは限りなく抽象名詞に近い普通名詞と数字だけである。紙も鉛筆も机も椅子もそこにあるのにそこにないようで、海の中にひたっているようにあやふやな境界しか持っていない。丘の上に建つこの白い家は海の底に沈む難破船のようである。そして一面に広がるこの野原は海底のようで、森永のおじさんたちは難破船に潜む魚たち。この会社は周囲と隔絶されている。空間だけでなく時間も。
昼休みが終わると仕事を再開した。午後にはいつもは午前にやっていた仕事をした。午後四時になると宇部さんが帰宅の時間を告げた。森永さんと三人の同僚は帽子と背広を受け取ると宇部さんに別れを告げた。帰ろうとした四人を宇部さんはひきとめた。
「そうでした。明日は仕事がありません」
四人は振り返った。
「あれ、明日は木曜日じゃありませんでした?」
と眼鏡の男は言った。他の三人もいぶかしげにお互いの顔をみやった。四人の顔には「何でだろ」と書かれていた。そんな四人に宇部さんは説明した。
「はい。そうなんですけれど明日はこの会社は開かないことになっています。みんな有給休暇となります」
「それは社長の指示なんですか?」
と年かさの男
「はい、そうです」
と宇部さん。四人には休みと言われて無理に会社に行く理由はない。明日は休日という宇部さんの話に納得して、森永さんと三人の同僚は白い家をはなれた。宇部さんは四人の背中に小さく
「さようなら」
と声をかけた。さようなら、もともと「そういうことで」という意味しか持たなかったこの言葉はどうしてこうも寂しさを持つにいたったのだろうか?そんなことを考えながら森永さんは自分の乗るべきバスに乗った。
森永さんが寄り道せずに家に帰ると娘さんが出迎えた。
「パパ、お帰りなさい」
でも、娘さんの顔はどうにも浮かない様子である。いつもの笑顔が浮んで保内娘の顔を見ておじさんは言いようの無い不安にかられた。
「どうしたんだ?友だちと喧嘩でもしたのか?」
「ううん」
と娘さんは首を横にふる。娘さんは言いにくそうに、上目遣いでぼそぼそとつぶやいた。
「テストの点が悪かったの」
ほっと、おじさんは安心した。こういうところが素直で良い娘なのだ。おもわず応援してあげたくなった。
「そうか。次はがんばるんだぞ」
とおじさんは娘さんの頭をなでた。
「うん、もう晩ご飯の用意できてるよ」
「そうか。ありがとう」
森永のおじさんは帽子を娘さんに渡し、自室に着替えに行った。その日の晩御飯はじゅるじゅるのピーマンの肉詰めとぴりりと辛い金平ごぼうだった。
翌日、森永のおじさんは会社が休みなので娘さんを小学校まで送っていった。娘さんは、お父さんが学校まで来てくれるなんてすごいね、と朝からはしゃいでいる。目玉焼きがメインディッシュの朝ご飯を三人で食べて、娘さんは宿題と教科書とノートと筆箱、それに連絡帳、ハンカチ、ティッシュを確認する。そして娘さんはランドセルを背負っておじさんにかけよった。
「うん、お父さん!用意できたよ」
「そうか、じゃあ行くぞ」
おばさんは玄関まで見送る。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「いってくる」
おじさんは娘さんの手をにぎった。娘さんはうれしそうに手をぶるんぶるんと振って歩き出す。そして娘にとってはいつもの通学路を、おじさんのとっては久しぶりの道を重ねていく。おじさんはいつもの長い足を小刻みに動かして、娘さんの歩みに合わせて歩いている。娘さんはいっぱい話をする。最近見ているアニメのこと、ちょっと変なお友だちのこと、休み時間に遊んでいる新趣向の鬼ごっこのこと。おじさんは娘さんが楽しそうに学校のことを話すのを聞いてうれしくなった。娘さんのはいている運動靴はお父さんゆずりの愉快な音をタンタンと出している。それにお父さんもあわせた。親子の足歌の合奏は校門まで続いて、横断歩道を守る緑のおばさんの前で別れて、二人はだんだんと遠ざかっていった。
おじさんが家に帰ると玄関には見知らぬ革靴がそろえてあった。それはあきらかに男物であって、おじさんの靴ではない。いぶかしみつつおじさんは家の居間に入った。こんな朝にお客さんだろうか?見知らぬ背広姿の男が食卓に腰かけて、おばさんがお茶を出していた。その男がおじさんの気配に気づいて振り返る。
「おじゃましております」
初老といっていい感じの男だったけれどなでつけられた髪や気の強そうな鼻っ柱に若さを感じた。一目見るなりおじさんはいけすかない奴だと感じた。男の勘である。
「どちらさまですか?」
おじさんは我ながら少し険のある言い方をしてしまったと反省した。しかし男は特に気にした様子はなく
「どうも、はじめまして。内務省の役人をしている工藤と申します。奥さんが勤務なさっていたときに上司をしていました」
と座ったまま答えた。実夏さんの上司だった人ということを聞いておじさんは頭をさげた。
「こちらこそはじめまして。存じ上げず失礼しました」
「いえいえ全くかまいません。私のことをあなたが知っているはずはないのですから」
「はあ、それで今日は妻に会いに来たんですか?」
とおじさんは台所でお茶請けを用意しているおばさんを見ながらたずねた。
「いいえちがいます、あなたに用があって来たんです」
「私ですか?」
「そうです」
そこまで言うと男はお茶をすすった。おじさんは男の真向かいの席に腰かけた。
「私に何の用ですか」
「とても大事な話があります」
大事な話と言われても妻の元上司から持ちかけられる話なんて想像できなかった。それになぜおじさんに話があるのだとしたら、連絡の一つくらいよこさないのだろう?今のこの日本はかなり整備された電子情報社会である。そんなの簡単なことじゃないか。
「大事な話とは?」
「あなたは内務省の下請け会社で働いていますね。たぶんあなたはその会社を奥さんに紹介されたと思っているのではないでしょうか?」
「はい、そうです」
とおじさんはうなずいた。おばさんがお茶請けを二人の間においた。甘口醤油をぬったお煎餅だった。おじさんはおばさんの顔を見ようとしたけれどおばさんは顔をそむけた。
「しかし、実際にあの会社にあなたを紹介したのは私なのです」
「そうだったのですか。」
しかし特に意外なことではなかった。入社して一年もたたない女性官僚が仕事を紹介できる人脈なんてもっているはずがない。ある程度そういう事情もあったのだろうと想像していたからだ。
「そうでした。これからの話はたとえどんな内容であっても冷静に聞いて下さい。」
男は真剣な目つきでをおじさんにらんだ。
「内容にもよりますけど、なるべく冷静にしているように努めましょう」
「ありがとうございます。実は私と奥さんは、実夏さんが大学生だったころに愛人関係にありました」
森永のおじさんの首より上から血の気がひいて地の底に落とされたような気分になった。その顔色を見て男は訂正した。
「愛人関係と言っても肉体だけの関係です。私も、多分奥さんもお互いを愛していませんでした。見返りに少々の金銭と内務省の職をあたえたくらいです、それだけの関係です。この浅い関係は奥さんが大学を卒業するまで続きました。」
「浅い関係?」
「はい?それほど深くはありませんでした。さてここから本題です。その仕事はどんな仕事だか気づきましたか?」
悲しそうにおじさんは首をふった。
「いいえ」
「そうですか?ではこれには気づきましたか?奥さん、ちょっとこちらに」
おばさんが男のそばに立った。おばさんは絶対におじさんの顔を見なかった。
「ちょっとかがんで耳を見せなさい」
おばさんは男の前にかがんだ。男はその手で優しくおばさんの右の耳を裏返して、森永のおじさんに見せた。
「奥さんの耳の裏にはこのような○印があります」
「知っていました。でもそれと私の仕事とどう関係があるのですか?」
男の指はおばさんの耳からはなれ、おばさんは台所にひっこんだ。
「そう急かさないでください。知っていたのなら話は早いでしょう。ちなみに私の耳の裏にも○印が刻まれています」
と男は自分の右耳をびらびらとゆらした。
「そしてあなたの右の耳裏にも記号が刻まれていますよね。どんな記号が刻まれていますか?」
おじさんは眉をひそめた。この男は何を言っているのだろうか?
「その顔はどうやら知らないようですね。奥さんの耳に記号があるのに自分にもあるかどうかを疑わなかったのは推理力不足だと思います。そうです。あなたの耳の裏にも記号があります。どんな記号だと思いますか?」
「○印ではないんですか?」
質問に質問で返した。
「ご明察です。あなたの耳の裏に刻まれているのは○印ではありません。●印です。このようにこの国の人間にはほぼ全て耳に○か●が刻まれています。もちろんあなたの娘さんにもです」
「うちの娘にも?」
「はい。例外なく」
森永のおじさんはくいっと目を見開いた。娘のことだけを考えていたのではない。○と●、どこかで見覚えのある。○と●の羅列、いつもやっていた午前中の仕事。あの退屈で代わり映えの無い仕事。
「私の仕事は耳裏の記号を整理していく仕事だったのですか?」
男は両手の掌を見せながら首をふった。
「そう結論を急ぐのはよくありませんね」
「では何だと言うのですか?」
男は座る姿勢を直した。
「その○やら●は何を表していると思いますか?」
おじさんはしばらく考えた。しかし分かるはずがない。
「○は優秀なほうの人間を、●はあまり出来のよくない人間を指しています」
森永のおじさんは思わず身を乗り出した。
「なんですか、それは?この国は人間を上と下に分けるのか?」
「落ち着いてください。森永さん。これは学業成績、技術、気質、性格、容姿、体力などを基準に厳正に診断しているのです。つまり社会に役立つ人材は○、役立たない人材は●ということです。残念ながら、あなたは●なんですよ」
と言うと男はにんまり笑った。死刑執行を宣言する意地悪な看守のような笑い方だった。
「では、私は何の仕事をしてきたというのですか?」
「あなたの仕事は●印の人間を収容し、管理し、労働させるための仕事をしていたのです。あなたの会社の同僚はみな●印でした。内務省はあなた方のような●の人間に●の人間から自由を剥奪するための仕事をさせていたんですよ。これは一つの鉄則でした。夷を以て夷を制するということですね」
「人間は人間の自由を奪うことができるのですか?」
「ときとして奪うこともできますよ。どちらかが奪うか、または奪われるか。人生とはそのようなものです」
「そうですか」
「そして今度は私があなたから自由を奪う番のようです。私についてきてください。あなたをしかるべき所につれていきます」
「どれくらいそこにいるのですか?」
「死ぬまでです」
森永のおじさんは男の目を見た。
「拒否することはできるのですか?」
「できません。それにたとえできたとしても、あなたが分類した●の人間たちはどう思うでしょうか?自分たちを分類した男がぬけぬけと普段の暮らしを続けているとしたら」
そこで男はいったん語を区切った。
「だからおとなしく私についてきてください」
「そこで妻や娘と暮らすことはできますか?」
台所で物音がした。
「娘さんとは会うことができます。あの子は●印ですから。」
「そうだったんですね」
男は席を立った。
「では行きましょうか」
そう言って玄関に向かった男は立ち止まった。
「森永さん、最後に一つだけいいですか?」
「はい」
「私と奥さんが肉体関係にあったと聞いて、奥さんに対してどういう感情をいだきましたか?」
森永のおじさんも立ち上がった。
「感情、ですか。そうですね。それでも実夏のことを愛しています。心の奥底から、彼女を愛しています」
台所で何かが崩れる音がした。おばさんが台所に突っ伏して泣いていた。
「やはり、あなたは●ですね。私ならそんな女は見捨てます。他人の肉欲を満足させるために使われた女など、そんなことが分かった時にはすぐに捨てますね」
「他の女性だったらどうかはわかりません。しかし実夏であればそんなことは気にしません」
「とんだ●だ。では外で待っています。早く来てくださいね」
そう言うと男は玄関に向かった。靴を履き、玄関から外に出て扉がしまった。
森永のおじさんは台所に向かった。そこではおばさんが泣き崩れていた。おじさんはおばさんの肩を強くだきしめた。
「じゃあ、いってくる」
おばさんの声は嗚咽にかき消されて聞こえない。おじさんに届かない。しかしおじさんは立ち上がり、台所をあとにした。おばさんは手をのばした。しかしその手は何もつかまずに宙をひっかいた。
その手を、おじさんは振り返りざまに握った。
門の外で待っていた男とおじさんは合流した。
「じゃあ、車を用意してありますのでそこまでついて来てください」
三月三十一日通りから一つ入った小さな道に黒塗りの車がおいてあった。運転手が扉をあけた。男は助手席に乗り、おじさんは後部座席に腰かけた。車は発進して、三月三十一日通りを駅とは反対方向に進んだ。そして幹線道路を進んで流れていく。
隣の車線を大型トラックが通っていく。男は後部座席を振り返りつつそのトラックを指さしながら森永のおじさんに説明する。
「あれも●印の人間を載せています。こういう効率的な輸送ができるのもあなた方の会社の仕事のおかげです」
おじさんは放心したように尋ねた。
「いったいどのくらいの人間が運ばれるというのですか?」
「この一週間でその数は四万五千九百六十三人になります。あなたもその一人ですね」
どこかで聞いたことのある数字だった。
「彼らは、そして私もですけれど、どこに運ばれていくんですか?」
「それは教えることはできません。教えてしまうと帰り道がわかってしまうので」
「では、私はどうなんですか?」
「あなたは一旦、ある場所に来てもらいます。そこからは車ではなくトラックに乗ってもらいます」
「そう、ですか」
車は流れていく。車はどこか電車に似ている。車は電車のように線路にしばられていないし、道だって選べる。だけど電車に自由がないように車にだって自由は無い。
車はとある建物の敷地に入っていった。それは白い壁にかこまれた三階建てくらいの建物だった。窓が無いので正確な階数はわからない。森永のおじさんを乗せた車はその建物の駐車場で止まった。
運転手はおりず、男だけがおりた。そして森永さんの座っていた座席のとなりの扉をあけた。
「さあ、降りてください。そしてついて来てください」
森永のおじさんは男についていった。その白い建物の扉は閉まり、森永のおじさんはもうそこから出てこなかった。一週間のうちに四万五千九百六十三人の人間がこの地上から消えた。
三月三十一日通りに面した家、そこの呼び鈴が鳴った。
「森永さん、郵便です」
中から初老の女性が出てきた。
「毎度ご苦労様です」
と女性は丁寧に挨拶して配達夫から黄色の封筒を受け取った。裏返してみると送り主は彼女の昔の上司だった。
玄関にもどった女性はゆっくりと居間にむかい、椅子に腰かけて封筒の封を切る。中には三つ折りにされた紙が一枚だけ入っていた。女性はとまどいつつ、紙に綴られた文章を一行目から読み始めた。
森永のおじさんが死んでしまったという通知だった。実夏さんははらりと手紙を落とした。
翌日、黒い喪服を着た実夏さんは集団墓地に向かった。電車を乗り継いで郊外の駅に降りてずいぶんと歩いた。秋のころで葉は色づき、空気はどこか物悲しい音をたてて街をただよっている。入り口には同じような黒服を羽織った高齢の男性が柱によりかかって待っていた。内務省の官僚だった彼はすでに退職し、娘夫婦や孫に囲まれておだやかな老後をくらしている。かつては実夏の愛人だった男だ。そして実夏の夫を連行していった男でもある。頭は脂っこくはげあがり、髪の毛は一九四四年の東部戦線のように後退していた。
「やあ、ずいぶんと久しぶりだな」
「そうですね」
実夏さんの声には少しの緊張と、はねつけるような弾力があった。その声に少し男はひるんだようだった。
「大学のころのことを旦那さんに言ったことをまだ起こっているのか?」
下を向きながら
「いえ、怒ってなんかいません。私のしたことですし。でも最後くらいあの人に悲しい思いをさせたくなかった」
と言った。
「そうか。でもわからないな。おまえみたいに美人で頭の良い女があんなどうしようもなく、そしてくだらない男に魅かれるなんて。つきまとわれて本当は嫌だったんじゃないのか?結婚したのも脅迫されたからか?」
それには答えずに実夏さんは一人で勝手に歩き出した。
「はやく、あの人のお墓に連れて行ってください」
「ああ。いいだろう」
男は寄りかかっていた柱から離れて墓場へ向かった。実夏さんはいったん立ち止まり、男のあとについていった。墓石のある区画はすでに通りぬけて平らな見晴らしの良い土地に出ていた。そこにあるのは一メートル間隔で置かれた、掌の大きさの円盤形の白石だけだった。そんな白石が碁盤の上の碁石のように並んでいた。そこは墓石が建てられることのない●印の人間の墓地区画だった。実夏さんは白い円盤の一つの前でしゃがんだ。そこには「北村一誠」と名前だけが刻まれていた。
「ここに来たのははじめてのようだな。●印の人間の墓に立派な直方体の石を使う余裕は無い。彼らの魂の階位からして白円盤で充分なのだ。内務省は良い仕事をしているだろう」
実夏さんは立ち上がった。
「内務省としては立派な仕事だと思います」
男は歩みを進めた。秋のさわやかな日差しと風のただ中を実夏さんは歩いている。
男はある白円盤の前で立ち止まった。そして足元のその円盤を指さした。
「ここです。ここがあなたのご主人、森永駿介の墓です」
実夏さんが立ち止まった。離れた所から男が指さした白い円盤を見ている。
「遺骨は入っているんですか?」
「何も入っていない。空の墓で、円盤と名前だけしかない。彼らは地中深くで、野垂れ死んだんだ。記録上の死なのだが、それはあの世界では確実な死を意味する。」
「そう」
実夏さんは白い円盤に近寄った。そしてしゃがみ、白い円盤の表面をなぞった。人差し指が名前の彫られた跡をなぞる。男が去った。実夏さんは一人、その円盤の前にしゃがみこんでいる。




