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森永のおじさん  作者:
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 森永のおじさんが森永のおばさん、つまり実夏さんと結婚したのは大学を卒業してすぐのことだった。ちなみにおじさんとおばさんと言っても二人ともまだ三十四歳だけれども。

 二人が初めて出会ったのは大学の授業だった。おじさんは国立大学の理学部、実夏さんは同じ大学の経済学部の学生さんだったけれど、一年生の授業で同じ英語の授業をとっていた。

最初の英語の授業が終わったあと、まだ十代だったおじさんは、とある女子大生が帰り仕度をしている姿を一目見るなり、宇宙から降ってきた何かが自分の脳天をつらぬいたような気がした。

その何かは「将来おまえはあの子と結婚することになるだろう」とだけおじさんにつぶやくとどこかへ飛んで消えてしまった。

しかしおじさんは得体の知れない何かが残した言葉だけをずっと一週間もくりかえしつぶやいて自分の心に刻みつけていた。「将来俺はあの子と結婚することになるだろう」「将来俺はあの子と結婚することになるだろう」「将来俺はあの子と結婚することになるだろう」…

 その次の週の英語の授業にもその女子大生は最初の授業の時と同じ席に座っていた。おじさんは女子大生の二列後ろの席に座った。そして英語の授業なんてそっちのけで、ずっと女子大生のつややかな黒髪をながめていた。ずばり恋である。女子大生の服装はまわりの学生に比べると地味だった。しかしおじさんにとって服装とかそういったことはどうでも良かった。その女子大生がそこにいる、その女子大生と同じ空気をすっている、それだけで幸せだった。

その次の週も女子大生とおじさんはその前の週と同じ席に座って、おじさんは女子大生の方を眺めていて、英語の授業なんてそっちのけでため息ばかりついていた。この授業のために買った大学ノートにはいまだ何も書かれていなかった。そしておじさんの頭の中の真っ白なノートにはその女子大生がこの授業で友だちを作っていない、という情報が書きこまれた。

四回目の授業で初めておじさんはその女子大生に接触した。友だちがいないのなら自分が友だちになってやろうという、おじさんのよくわからない方程式が作動してしまったのだ。授業が終わって女子大生が立ち上がる前に、おじさんは少しかけ足で女子大生の席の前に立ちはだかった。そしておじさんは自分の携帯アドレスと名前が書かれたノートの切れはしをひらりと、女子大生の机の上に置いたのだ。おじさんにとってそれは一大決断であった。

そして自分の携帯アドレスと名前、それが、おじさんが英語のノートにはじめて書いた文字だった。


自分の携帯アドレスと名前が書かれたノートの切れはしを見知らぬ女子大生の机の上におく。この人類がはじめて地球外知的生命体と接触したかのような感動的な場面のあとで、女子大生は目の前に置かれた紙片を、まるで宇宙人が提示した、人類全滅計画の全貌をあかした書類を見ているような目つきで見つめていた。反応が何も返ってこないので不安にとらわれたおじさんは説明を加えた。

「それは僕のアドレスです、あとでいいからメールをください」

女子大生は何も言わずにその紙をながめていた。おじさんは言うことだけ言うと帰り仕度のために自分の席にもどった。そしてうしろから女子大生の様子をわくわくしてながめていた。

しかしおじさんの期待とは裏腹に、女子大生は自分の帰り仕度をすませると、紙片をそのままにして振り返ることもなく足早に教室から出て行った。

おじさんが置いた紙片は女子大生が座っていた机の上で、ただただ蛍光灯を浴びながら存在していた。おじさんは内臓から何かがこみあげてくるような気がした。

 教室から出るとき、おじさんは女子大生が座っていた席に行き、自分が置いた紙片を回収して、それを何か恥ずかしいもののように教室のゴミ箱に投げ入れた。

廊下に出ると視野がせまばって目の前が真っ暗になっているのが分かる。おじさんの生きている希望がうすれてきて、感情の糸が今にもぷちりと切れてしまいそうだった。おじさんは遠のく意識の中でぶつぶつと「将来俺はあの子と結婚することになるだろう」「将来俺はあの子と結婚することになるだろう」「将来俺はあの子と結婚することになるだろう」とだけうわ言のようにつぶやいていた。まわりにいた学生が気味悪そうにおじさんから離れていった。

そういえばおじさんはまだその時、その女子大生の名前をまだ知らなかった。おじさんは名前も知らない娘に恋をしたのだった。


 おじさんにとって生きているのか死んでいるのか実感できない日々がすぎていく。恋わずらいに五月病を併発したのかもしれない。おじさんはこの一週間ほとんど眠っていなかった。大学にも行っていなかった。外を出歩ける精神状態にはなかった。誰とも会わず、家からも出ずに同じ本を何度も何度も読み返していた。

今までおじさんは文学書をまとも読んだことはなかった数学人間だったけれど、この一週間でその『白夜』という洒落た題名の本を生協の本屋で見つけてきて二十三回は読んでしまっていた。そしておじさんは自分をその本の主人公に、そして女子大生を美少女ナースチェンカにあてはめて紫色の空想にふけっていた。あぶない。そして頭をかかえ、こんなことをぶつぶつとつぶやいていた。

「ぼくはばかでした。ぼくはばかでした。ぼくはばかでした。ぼくはばかでした。ぼくがばかでした」

 そして次の英語の授業の一日前になった。大学一年生の五月なのにおじさんはもう大学に行く気がしなくなっていた。いっそのこと大学なんかやめて退学しようと思っていた。単位をとるとか試験を受けるとかバカらしくなっていた。

でも、もしかしたらがあるかもしれないとケータイの「新着メール問合せ」を押してみた。長らく画面がちらちらと動いた。おじさんはいらいらしてきた。そしてやっと結果が出た。「新着メールはありません」だった。またやってみた。結果はやはり「新着メールはありません」だった。二十三回「新着メール問合せ」を押してみた。結果はいつも「新着メールはありません」だった。そりゃそうだ。あの女子大生は紙を持っていかなかったんだ。おじさんのアドレスを知っているはずないのだ。常識で考えろ、そうすればわかるはずだ。しかしその時のおじさんは常識で考えられるほど冷静ではなかった。

一度はあきらめたけれど、やっぱりあきらめきれずにもう一度「新着メール問合せ」を押してみた。すると今度は長いタメのあとで「受信できませんでした」と出た。胸が高まった。何が受信できなかったというのだろうか。おじさんの親指がふるえた。祈るように願うように親指でもう一度だけと「新着メール問合せ」を押した。結果は

「新着メールはありません」だった。

おじさんの全身から気がぬけた。「ぽえ〜」と気の抜けた声を出しながらおじさんは仰向けに倒れた。天井を見上げて、自分が今までやっていたくだらない行動の数学的意味について考えてみた。これは確率論なのかそれ以前なのかについて思考し始めたとたんにケータイのバイブ機能がブルルンブルルンという音をたてた。

おじさんはとび上がった。仰向けに寝たままの体勢から本当に五センチくらいはとび上がった。そしてあわててケータイを開いた。液晶画面には

 「新着メール一件」

と表示してあった。おじさんの全身がわなないた。ぷるぷるとふるえる指をなんとかなだめて動かして受信ボックスに移動した。そしてメールを開いてみた。

 母親からだった。


 翌日、大学には行きたくないけれどあの女子大生を見たいからという理由でおじさんは大学に行くことにした。一週間も外を出歩いていなかったので、何も荷物を持っていなくても駅から大学まで歩くのさえつらかった。手ぶらのおじさんは英語の授業の教室に入った。少し時間が早かったようでまだ教室に人はまばらだった。おじさんは誰とも、特にあの女子大生と目を合わせないようにじっと天井の蛍光灯を見ていた。ああ蛍光灯!なぜ君は蛍光灯なの?

そのときである。おじさんは誰かに肩をたたかれた。横を向くとあの女子大生がたっていた。肩をたたいたのはあのアドレスが書かれた紙を放置したおじさんの思い焦がれる女子大生だった。おじさんはあまりのことに窒息寸前の魚のように口をぱくぱくさせた。

「あ、あの、その」

するとそれをさえぎるように女子大生が落ち着いた声で用件を告げた。

「メールアドレスを教えてください」

おじさんは女子大生の顔をまじまじと見た。状況をよく理解できなかったからだ。そんな叔父さんの態度を見ていらいらしたように女子大生は言葉をつづけた。

「私のアドレスを知りたいんじゃないの?早く教えなさいよ」

びくーんとおじさんの頭のどこかの回路とどこかの回路とがつながって、あわててリュックの中からケータイを取り出した。そしておぼつかない手つきで自分のアドレスを液晶画面に表示させた。

「こ、これです」

「ちょっと待ってて」

と女子大生は表示されたアドレスを自分のケータイに登録しはじめた。おどおどしながらおじさんは上目遣いで女子大生を見ながら尋ねた。

「どうして、アドレスを聞こうと思ったんですか。先週はことわったのに」

するとキッと女子大生はおじさんのことをにらみつけた。

「先週はいきなり声をかけられて恐かったから逃げただけよ。変質者かと思ったわ。それでよくよく考えたらそのままにしていたらいつか粘着質のあなたにつけねらわれて殺されるかもしれないと思って、今日こうやってアドレスを聞いたってわけ。悪い?」

ひどい言われようだった。

「大丈夫ですよ。僕は人を殺したりなんかしません」

それを聞いてその女子大生はあきれたようだった。

「何言っているの?冗談にきまってるじゃない。私の名前は鳴門実夏。漢字はあとでメールに書いておくから」

「あ、僕の名前は森永駿介です。」

「その漢字もメールで書いておいてね」

「はい」

ものすごい速度で親指をタッタッタと動かして実夏さんはおじさんのアドレスと電話番号を自分のケータイにたたき込むと、自分のケータイを折りたたみ、おじさんのケータイをつきかえした。

「じゃあ、あとでメール送るから」

「あ、はい」

実夏さんはすたすたと自分がいつも座っている席に行き、そこに座った。そして振り返ることなくなにやらケータイをいじくっていた。おじさんは自分がどんな状況に巻きこまれたのかをしばし考えたけれど、心臓の高鳴りをおさえながら自分のケータイに残った実夏さんの体温を右手の掌で感じていた。おじさんの世界の何かが変わろうとしていた。


 それから一ヵ月後、おじさんと実夏さんは大学の近くのラーメン屋くきくき亭でつけめんをすすっていた。五回目の授業でアドレスを交換してからこのかた、実夏さんとは授業が始まる前と終わった後で会釈をかわすだけでしか何も動きがなかったので、おじさんは何か動きが欲しかったのだ。しかし手引書も先例も何もない。だから思いつくままに、思い切っておじさんが実夏さんを食事にさそったのだった。

「何が食べたい?」

とメールで尋ねたところ実夏さんから

「なんでもいい」

とかえってきたので大学で待ち合わせておいしいと評判のくきくき亭で食べることにした。おじさんはこのデートの成功を疑わなかった。なにしろ「なんでもいい」なのだ。なんだって成功するに決っているさ。おじさんは大学の校門を待ち合わせ場所に指定した。その日、待ち合わせ時間の十分後に実夏さんは校門にやってきた。おじさんの前にあらわれた実夏さんはいつもより少し華やかに見えた。おじさんの心は浮かれた。二人はそれぞれの学部の話や授業のこと、高校時代のことについて話しながら商店街にむかった。横断歩道を渡り商店街に入ったところで

「今日はどこで食べるんですか?」

と実夏さんはおじさんに聞いた。

「つけめんでおいしいくきくき亭ってところだよ」

とおじさんは答えた。それを聞いた実夏さんはすっぱいものを食べたような顔をした。しかし特におじさんは何も考えなかった。単純なのだ。

きくきく亭はすいていた。二人はカウンター席にすわってみそつけめんを注文した。おじさんは言った。

「この店はみそつけめんがおいしいんだよ」

二人はみそつけめんを注文した。注文してからずっと実夏さんはおし黙っていた。だからおじさんも黙っていた。特にそのことについておじさんは何も考えなかった。鈍いのだ。みそつけめんが来た。実夏さんはひたすらに黙って麺をすすっていた。無言のままで食べる実夏さんの圧迫感におじさんの心ははじめてざわついた。そのざわついた心をかかえておじさんはどうしても実夏さんに話しかけずにはいられなかった。

「おいしいね」

「…」

「麺によくからむね」

「…」

「けっこう味がこいかも」

「…」

すすっている間、おじさんに話しかけられても実夏さんはずっと無言だった。おじさんはなんだかとても不安になってしまった。何かこの世界は間違っているのだろうか、それとも。まずはおじさんが食べ終わり、つづいて実夏さんが食べ終わった。伝票を手に取ったおじさんが実夏さんに言った。

「じゃあ別々に払おうか」

すると実夏さんはキッと見開いた目でおじさんを見た。そして立ち上がるとひとりでつとつととカウンターに急ぎ、代金を支払って店を出た。おじさんはなぜ実夏さんがそんなに急ぐのかがわからず、後を追うようにカウンターで代金を支払って店を出た。店の前で待っている実夏さんに「待たせて悪かったね」と言おうと思った。

 だけど、店の前にもどこにも実夏さんの姿はなかった。


 あわてておじさんは実夏さんにメールを送った。しかし返信は無かった。おじさんはそのままとぼとぼとひとりで駅の方に向かった。その頬には涙が伝っていた。

 次の英語の授業に実夏さんは出席した。おじさんは椅子に腰かけた実夏さんの横にやってきた。そして平然と隣に立つおじさんを無視して、実夏さんは授業のノートやら教科書やらを読み返していた。おじさんはそんな実夏さんに話しかけた。

「あれからどうしたの」

実夏さんは答えなかった。おじさんはずっと実夏さんの隣に突っ立っていた。そしてじっと実夏さんを眺めていた。でも実夏さんはずっと教科書を見たり何やらノートに書いたりしておじさんのことを無視し続けた。先生が入ってきた。そして女子大生の横でいつまでも突っ立っている男子学生を見ると注意した。

「ほら、君。早く座りなさい」

おじさんは自分の席に戻って、机の上においた両腕の中に顔を埋めた。そして声を押し殺して泣いた。

 一年が過ぎて、おじさんと実夏さんは大学二年生になった。あのくきくき亭の一件以降、二人は一切会話をしなかった。授業で会ってもキャンパス内ではちあわせても一切会話をしなかった。おじさんはそれでも仲直りしようと努力した。でも実夏さんはそれを無視した。おじさんにとっては砂を噛み鉄をなめるような日々が続いた。何をするにも気力が出なかった。授業のほとんどに出なかった。いくつかの単位を落としてしまった。この一年間ですっかりおじさんは顔色が悪くなり、陰気な雰囲気をまとうようになった。そんなひきこもりの悪魔のようなおじさんの顔色を見かけても実夏さんはおじさんを無視した。無視して無視して無視し続けた。それでもおじさんは一年生の間、ずっと実夏さんのことだけが好きだった。

 二年生の四月、おじさんと実夏さんは一つも同じ授業をとらなかったことが分かった。そもそも学部が違うから同じ授業なんてそうはいるものではない。この一年間、もしかするとお互いに一切出会わないかもしれない。おじさんは仲直りを絶望しかけた。そんな絶望的な状況の中でおじさんはあることに気づいた。それは実夏さんと仲直りする方法である。それは確かに名案だった。しかし実行に移すにはかなり勇気がいる。おじさんは考えた。やらないで後悔するよりもやって後悔した方がいいと。

 幸運なことに四月二十五日は実夏さんの誕生日であることをおじさんは覚えていたのだ。だからおじさんは四月十五日の午前零時になった瞬間に実夏さんにお誕生日おめでとうメールを送った。予想はしていたが、返信がなかった。おじさんは一年前と同じように「新着メール問合せ」ボタンを押し続けた。でも一週間返信がなかった。

 そして一週間後、実夏さんからの返信があった。

「ありがとうございます。今度つけめんをおごってください」

おじさんは実夏さんが何を考えているのかわからなくなった。でもそんな実夏さんがますます好きになってしまった。

 メールで待ち合わせの時間と場所とを決めた。おじさんは待ち合わせの十分前に来て、実夏さんは待ち合わせの十分後に来た。先例をふまえて、おじさんは実夏さんをくきくき亭ではなく陽華軒に案内した。店に入り、前と同じように二人でみそつけめんを注文した。みそつけめんが来るまでの間、二人は大学の授業や高校時代の話をした。とりとめのない話だった。おじさんは、実夏さんが話をひっちゃかめっちゃかな方向に飛ばすことに気づいた。映画のことを話していたのにいつのまにか扇風機での遊び方の話になり、しまいには新興宗教の話になった。おじさんはそんなとりとめのない話し方をする実夏さんのことが好きなことに気づいた。つけめんが来て、話を続けながら食べた。そしてまずおじさんが食べ終わり、続いて実夏さんが食べ終わった。少し腹を休めてから店を出ようとした。くきくき亭のことを思い出して、おじさんがさっと伝票をつかみ、言った。

「まとめて払うよ」

「あ、はい」

 男性が女性におごるなんて慣習がどこの国の誰がはじめた慣習なのかは知らないけれど、とりあえず実夏さんと食べる場合にはおごらないとまずいことになるって、おじさんはようやく理解したのだ。くきくき亭でのことは実夏さんは何も言わなかったけれど、それはきっと実夏さんが自分に与えた試練なのだとおじさんは勝手に結論づけた。だからおじさんは考えて考えぬいた。そして実夏さんに全面的におごることにしたのである。

 それでも実夏さんは先に店を出た。おじさんは手がふるえながらも小銭をとりだしてお会計をすませた。店の引き戸を引いた。そこには実夏さんが立っていた。奇跡かと思った。おじさんは思わず実夏さんの立ち姿に見とれてしまった。

「どうしたの?」

と実夏さんは不思議そうに小首をかしげて言った。

「いいや、なんでもない」

その日はそれだけで、二人は家路についた。おじさんは幸せでいっぱいだった。幸せのかたちをつかみかけていた。

 二人は大学四年生になっていた。陽華軒以降、それまでの間に二人は全くどこにも食べに行ったりはしなかった。どうして?おじさんがいくらさそっても実夏さんは「忙しい」「その日は予定があって」「その日は微熱があるから」という理由をつけてことのごとく断っていたからだ。おじさんはいくつかの理由については納得できなかったけれど、すでに実夏さんのこと全てを受け入れるつもりになっていたのでどんなに納得できない理由であっても我慢して受け入れた。あくまでも我慢しよう、そして納得のしようはいくらでもある。おじさんはこう言い聞かせるだけでいいんだ。「将来俺はあの子と結婚することになるだろう」

 そんな時、おじさんの友人の平戸さんは、おじさんから実夏さんの話を聞いていた。

「おまえら、それってつきあっているとは言わないだろ」

でも森永さんはこう返した。

「この地球がある限り、俺たちはつながっているんだよ」

それきりそのことについて平戸さんは何も言わなかった。

 大学四年生の慣わしとして二人はお互いに会わないまま就職活動を始めていた。おじさんはことのごとくどこの会社も落ちまくった。たとえ筆記試験で受かったとしても面接で落ちた。どうやってもどう努力しても面接を受けたあとに会社から電話がかかることはなかった。

 五月になった。おじさんは実夏さんにメールで就職活動の様子を聞いてみた。

「きまったよ」

と返事が返ってきた。

「どこに?」

「内務省」

「すごいな省庁か」

実夏さんは国家試験二種に受かったのだという。もともと頭の良い、できる娘だとは思っていたけれどそこまでだとは思わなかった。おじさんは負けないようにがんばろうと決意した。そしてたくさんの履歴書を書いた。

 しかしその努力もむなしく、卒業する一ヶ月前の二月になってもおじさんは内定をとれなかった。大学院試験にも落ちた。

 二月、おじさんは大学の卒業は決定していたけれど、就職先はまだ決まっていない状況にあった。そんな状況のおじさんであったけれど大事な話があるからと実夏さんを呼んで一緒につけめん屋に行こうと誘った。まだまだ冬の真っただ中で一週間前にこの街にも雪が降ったばかりだった。大学の校門で待ち合わせて、待ち合わせ時間の十分前におじさんが来て、待ち合わせ時間の十分後に実夏さんが来た。おじさんは大学二年生のときに二人で行った陽華軒に実夏さんを連れて行った。

そして二人は大学二年生のときにその店で二人が話したことをもう一度くりかえして話した。二年前と全く同じ話を全く同じようにくりかえし、おじさんは実夏さんの同じ話の同じ間合いでうなずいて相づちを入れた。確かに二人の服装も顔つきも二年前とは全く変わっていたけれど、その会話だけはまるで再生テープを流したようだった。そして実夏さんが全ての言葉を二年前と全く同じに繰り返して最後の言葉「でもそんなことになったらもう生きていくのはいやかもね」を言うと、いったん唾をごくりと飲んでからおじさんは言った。

「卒業したら僕と結婚してください。仕事は無いけど、卒業したらまた就職活動するから。いいかな?」

しばしの間合いのあとで小さな返事があった。それは間違いなく実夏さんの心からの言葉だった。

「はい。うれしいです」


 四月、おじさんと実夏さん夫婦は小さなアパートで暮らし始めた。それは築十年の、おじさんの叔父さんが経営しているアパートだった。だからといって決して家賃が安いわけではない。叔父さんはお金にはうるさい人だったから、ちゃんと正規の家賃を払わされた。その家賃は実夏さんの性格を見越しておじさんが大学時代の貯金をくずして支払った。

昼は二人とも出払ってアパートを空にしていた。実夏は内務省に勤務し、おじさんは就職活動である。おじさんはあちこちの会社に履歴書を送りつけてがんばった。しかしおじさんが考えていたよりも既卒者の就職は難しかった。世間はそうは甘くない。おじさんの就職先はなかなか決まらなかった。


 そういえば話は変わる。おじさんが結婚した後、最初に実夏さんとともに寝た夜、四月一日の夜。おじさんはすでに眠ってしまった実夏さんの耳たぶを鈴のように指先で鳴らして遊んでいた。そしてその遊びのじゃまになる豊かで長い髪を頭頂部のほうにのけてみた。すると、海からあげられてすぐの貝殻のようにういういしい実夏さんの右の耳殻があらわになった。おじさんはその実夏さんの右の耳殻の裏の奥まったところに小さな○印の傷跡があることに気づいた。いいや、それは傷跡なのだろうか?人工的で誰かに意図的につけられた印のような気もする。一瞬だけ、おじさんはどこかの男の実夏さんへの愛の印なのでは?と実夏さんを疑ったけれどすぐにそれを否定した。そんなところに印をつけるなんておかしいと考えたからだ。見なかったことにしようと思った。

そしておじさんは実夏さんにその○印について尋ねることもしなかった。実夏さんがそれを気にしていることかもしれないからだ。ただ、一つの気がかりとして常にその○印はおじさんの心の中でいつまでも、しこり続けた。

 初夏のある晩、実夏さんとおじさんは二週間ぶりに一緒に夕飯を食べた。そのとき、実夏さんは突然におじさんの就職活動について聞いた。

「もう二ヶ月は探しているみたいだけれど仕事は決まったの?」

「いや、まだだ」

奥歯にササミがはさまっているような物言いでおじさんは答えた。

「なら、あなたの仕事を紹介できるんだけど」

「仕事?君がか?」

「そう、私があなたの仕事を紹介できるの」

「俺の仕事を紹介してくれるというのか?」

「そう。いやかしら?」

「まさか。ありがたい」


 実夏さんはおじさんと日曜日に出かける約束をした。日曜日、アパートの前には似つかわしくない黒塗りのハイヤーがとまっていた。その黒光りに足のすくむおじさんを尻目に、実夏さんはそのハイヤーの開かれた扉の中にすたすたと入っていった。

「さあ、早く」

おじさんがハイヤーに入り腰を落ち着かせると、運転手はアクセルを踏んだ。おじさんは周囲を見渡す。

「これはどこに行こうとしているんだ?」

それには実夏さんが答えた。

「あなたの新しい職場」

「それは知っている。でもその職場はどこにあって、それはいったいどんな仕事なんだ?ずっと答えてくれないじゃないか」

「場所は行けばわかる。それに内務省の下請けをする民間企業よ」

「それは前に聞いた」

「残りはそこで聞いて」

おじさんは黙った。ハイヤーは街を進んでいき、郊外に出た。そして郊外にある住宅街を抜け、打ち寂れた工場地帯をぬけると広がったのは一面の田園風景だった。

「すばらしい職場のようだね」

とおじさん。

「あなたにぴったりよ」

と実夏さん。田園風景をぬけると辺りは一面の野原になった。そして実夏さんはハイヤーの運転手に自分の側の窓をあけるように頼んだ。シュルシュルと窓が開く。初夏の香ばしい若草のにおいが車内までたちこめてくる。おじさんも自分の側の窓を開けてくれるように頼んだ。車内にさわやかな風が通る。実夏さんはすばらしいリズムと音程で鼻歌を刻み始めた。実夏さんは高校時代に吹奏楽部でフルートを吹いていたのだ。その鼻歌に合わせるようにおじさんも足でリズムを刻んだ。ささやかな初夏の二人の合奏の間、おじさんはずっと実夏さんの耳裏にある○印の傷跡について考えていた。

 ハイヤーは丘をのぼって小さな白い家の前で止まった。実夏さんは開いたハイヤーから外に出た。続いておじさんも外に出た。ハイヤーが去っていくと実夏さんは白い家の前に立った。そんな実夏さんにつれられるようにおじさんもその白い家の前に立った。

実夏さんは白い壁にとりつけられたボタンを押した。ビィィという蜂の巣がつつかれたような音とともに白い扉が内側から開いた。小ぎれいな三十代すぎくらいの女性が家の中から顔を出した。

「こんにちは、森永さんですね」

それに実夏さんが答えた。

「こんにちは。そうです森永です。」

それでおじさんの就職が決まった。おじさんの仕事が決まるとすぐに実夏さんは家を購入しようとおじさんに言った。おじさんは最初は渋っていたけれど、大好きでたまらない実夏さんの頼みということもあって、ローンを組んで一戸建ての家を建てた。その家は街のほとんど真ん中を通る、三月三十一日通りという素敵な名前の通りに面していた。そして新しい家が完成してそこに引っ越した次の週に実夏さんが妊娠していることがわかった。おじさんはとても喜んだ。出産予定日の六ヶ月前に実夏さんは勤めていた役所を退職した。そして三月三十一日に森永さん夫妻の最初の子どもが産まれた。女の子だった。名前を春実と名づけた。お母さんの名前の実夏から一字をとったのだ。

 あとで聞いた話だけれど、森永のおじさんの同僚三人もいずれも彼らの妻の紹介で今の仕事についているのだという。三人とも就職活動に失敗して大学を卒業し、いずれも学生時代からつきあっていた女の子たちと結婚して、その女の子から今の仕事を紹介されたのだ。同じ境遇の者同士ということもあって彼らは仲良く仕事をしていた。お互いに生きてきた人生は違うけれども何か通じるものを感じていたのである。


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