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森永のおじさん  作者:
1/5

 ある冬の日、森永のおばさんはおじさんのためにタートルネックの白いセーターを買って来た。でも、セーターを渡されたおじさんはそれを手に持ちながら言った。

「知らないと思うけれど、俺はタートルネックを着られないんだ」

「なんで?」

「首がちくちくして絞められているような気になるから」

そう言っておじさんはセーターをおばさんに返した。おばさんはつき返されたセーターを見ながら言った。

「ほんとうに変わった人ね」


 森永のおじさんは勤め人だ。毎朝、若草色の背広をびっちり着込んで、若草色の帽子をかぶって会社に通う。

朝の玄関で、おじさんは森永のおばさんのぷっくりふくらんだほっぺたにキスをする。森永のおじさんとおばさんは仲良しだ。どうやら恋愛結婚なんだって。

そしておじさんはまだ小学生の娘さんの、ふわふわな髪がのった頭をぐいぐいなでまわして、左手にかばんを持って

「じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい」

 とあいさつを交わして家を出る。森永のおじさんは足が長い。だから歩いている時もすたすたと速い。駅まで続くまっすぐな道、三月三十一日通りをどんどん人をぬかして歩いていく。

毎朝同じ時刻、同じ道を散歩しているおじいさんが森永さんには負けまいと顔を真っ赤にしてがんばるけれど、けっして追いぬけない。負けず嫌いのおじいさんが小走りになっちゃってもかなわない。それくらい森永のおじさんは歩くのが速いのだ。

 森永のおじさんは電車に乗る。朝の満員電車の中で、おじさんはずっと右手に持った文庫本を読んでいる。左手にかばんを持って、右手の親指を器用に動かしてページをめくる。

何を読んでいるのかはわからない。でも読んでいる時のおじさんはご機嫌良さそう。革靴のつま先でとんとんと宙をけって足の鼻歌。これって足歌かな?

電車は十駅くらいで大きな駅につく。ぽんと本を閉じておじさんは乗りかえをする。人ごみをするりとぬけてさっそうと階段をのぼったりおりたり。違う線のホームにたどりつく。この駅発だからこの電車はまちがいなく座れる。

森永のおじさんはかばんから文庫本をとりだしてまた読書、足では足歌。電車の窓がすかす風景は都会から郊外にうつりかわり、あっという間に田園風景、それから一面に草っぱらを見わたすようになる。それが見えたあたりでおじさんは本をとじる。さあ降りる用意だ。

 草原のど真ん中にある駅で降りるのはいつも森永のおじさんと二人の女子高生だけ。その三人は改札口をぬけると、駅前の小さなターミナルにあるバス停に向かう。ターミナルには小さな雑貨屋とバス停しかない。そのバス停に一脚だけ置かれた椅子にはいつも腰のまがった、だけど品のいいおばあさんが座っている。

二人の女子高生はいつもおしゃべりをしているけれど森永のおじさんと椅子にすわったおばあさんは会話に加わらない。四人とも何回も顔を見合わせているけれど一度も話したことはない。

おばあさんはじっと目を閉じてバスを待ち、森永のおじさんはうっすら笑顔でバスを待つ。

 いつも五分くらいでバスはやって来る。

 バスは黄色とオレンジのペンキで塗られた古いバス。屋根も車体も丸味をおびて温かい感じ。おばあさんは運転席のすぐ後ろ、二人の女子高生は一番後ろのロングシート、そして森永のおじさんは真ん中くらいの席に腰かける。これがいつもの指定席。そしてこの四人を乗せるとバスはすぐに動き出す。それ以外のお客さんは乗ってこない。

 バスは駅前のターミナルをぬけて県道を進んでいく。自動車は少なくすいすい進む。途中の高校前バス停で二人の女子高生は降りる。これはいつものとおり。

そして病院前のバス停でおばあちゃんは降りる。これもいつものとおり。

これまたいつものように、バスは森永のおじさんだけを乗せて進んでいく。バスは住宅地をぬけてあたり一面草だらけの景色、その中にすっと伸びた一本道を進んでいく。そして草原の中の丘をのぼっていく。

「最近、エンジンにガタがきてましてね。なにしろこのバスは三十年も動いていますから。坂道がきついんですよね」

運転手さんはとつぜんそんな言い訳のようなことを言う。森永のおじさんはしずかに笑ってうなずいている。

バスのエンジンは精一杯にうごいて丘の坂道を登っていく。そして丘の上のバス停でバスは止まり森永のおじさんはバスから降りる。誰もいない空っぽのバスが丘を降りていく。

 バス停の前には小さな白い一軒家がある。濃い緑色の草原の中、青空の下にぽつんと白い家。もう何百年も前からそこにあるような家だ。三角形の赤い屋根のある家にはガラス窓が一ヶ所だけついている。そのガラス窓には白いカーテンがつけられていて外から内を見ることはできない。

森永のおじさんは白い壁にとりつけられたボタンを押す。ビィィと何百匹ものスズメ蜂が袋におしこめられたような音のあとで扉が開いた。中から出てきたのは小ぎれいな女性だった。髪がさっぱりとまとめられて、かしこそうな顔。

「森永さん、おはようございます。いつものとおりですね。」

「宇部さんもおはようございます。いつものとおりです」

ここは森永のおじさんの勤める会社なのだ。宇部さんと言う女性は会社の受付の女性だった。森永のおじさんは帽子と背広をぬいで宇部さんにわたす。

「帽子と背広をお願いします」

「はい、わかりました」

そう言って宇部さんは森永のおじさんから帽子と背広をうけとると、背広のしわを直しながら奥にひっこんでいった。

 森永のおじさんはかばんだけ持ったまま木の廊下を通って部屋に入る。そして扉を開けると

「おはよう」

とあいさつ。

「おう」

「おはよう」

「おはようございます」

森永のおじさんのあいさつに三つの返事が返ってきた。おじさんの同僚さんたちだ。部屋には五つの机があって、どれも黒檀色に塗られてぴかぴかに光っている。そのうちの三つにすでに男性が座っていて鉛筆を持っていたり、紙をたばねたり、ハンコを押したりしている。

「あなたの今日の仕事は机の上の紙に書いてあります」

すこし年かさの男の人がそう扉をしめた森永のおじさんに言った。

「ありがとうございます。ところで今日は、社長はいらっしゃるんですか?」

すると三人の男はおたがいの顔を見た。でも顔を見たって何も書いていない。その間に森永のおじさんは自分の椅子にこしかけて机の上の紙を読み始めた。そして、間があいてすまなそうに、年かさの男の人が答えた。

「今日も社長はいらっしゃらないみたいだ」

「そうですか」

眼鏡をかけた男の人がわきから言った。

「ここ数年来ていない」

少し小太りの男の人もわきから口をはさんだ。

「この会社に社長がいるのかどうかさえ、もうあやふやだ」

みんな何も言うことがなくなってだまってしまった。紙と紙がすれる音、鉛筆が紙の上でさらさらと流れる音だけが聞こえる。

「でもいいじゃないか、仕事があって給料も出るんだから」

と少し年かさの男が言ってその話題はうちきられた。

 森永のおじさんが会社でしている仕事は主に二つである。まず午前中に数を数える仕事をする。まず何枚もの白紙に○印と●印とが何個も印字されている。その○と●の数を数えてその紙のわきにメモしていくのだ。二種類の丸の数が偶数の場合には○と●の数はたいてい同じになるけれど奇数の時は白丸か黒丸かのどちらかが多くなった。

「○十四個、●十三個」

「○十六個、●十六個」

「○十個、●十一個」

 森永のおじさんはそうやって数をつぶやきながら鉛筆で算用数字を書きこんでいく。しかし紙にはその○と●の他の文字や数字はまったく印字されていない。だから森永さんは意味もわからないままに、ただ○と●の数を数えていく。それはとても質素で単純な仕事なのだ。そして仕事がだいぶ済んで正午になると宇部さんが部屋に入ってくる。

「みなさん、お昼休みですよ」

その合図で四人はかばんの中からお弁当箱と水筒を出す。近くにお店がないのでみんな奥さんや妹さんが手作りしてくれたお弁当を持参している。

「お茶のいる人はいますか?」

と宇部さんが言うと眼鏡をかけた男が手をあげる。

「お茶をお願いします」

眼鏡の男はいつも水筒を持ってこない。水筒を持っていないのか、それとも単に水筒を持ってくるのがいやなだけなのかは誰にもわからない。そして誰も眼鏡の男に理由をきかなかった。

宇部さんは急須をかたむけて白いお茶碗に緑茶を注ぎ、眼鏡の男の前においた。

箸が弁当箱にあたり、口で食べ物を咀嚼する音だけが室内に反響していく。

 一時間の昼休みのあとで四人は仕事を再開する。森永さんの午後の仕事は午前にくらべて少し頭を使う仕事である。

 白紙にはいくつかの楕円形が島のようにちりばめられていて印刷されている。そしてそれぞれの島の中にはさまざまな色でぬられた丸印や三角や四角の記号がいくつも印字されているのだ。

そして森永のおじさんは添付された紙に指示されたとおりにそれぞれの丸印や三角や四角の記号を島から島に運ぶ計画をたてていく。赤い丸印を「ア三」の島から「コ九」の島に移さなければならないときは、その島から島へなるべく短い順路を選び、赤い丸印ではじまり矢印で終わる線をひいていく。その線引きにはいくつか決まりがある。それはこんな決まりだ。


なるべく無駄なく、なるべく早く、そしてなるべく少ない人数で。


その決まりになるべく沿うように森永のおじさんは計算したり線を引いたりする。森永のおじさんは大学で幾何学を習っていたから図形と計算は得意なのだ。それに単純作業は好きだ。だからけっこう、この固有名詞のまったくない、普通名詞もほとんどないこの仕事が気に入っている。

 午後四時になるとまた宇部さんが部屋に入ってくる。

「さあ、みなさん、仕事は終わりですよ。」

 そう言われると同時に四人は鉛筆や紙をおいてあと片づけをはじめる。その間に宇部さんは四人分の帽子と背広を持ってきていた。

 若草色に土色に紺色に灰色。みんなそれぞれ違う色の帽子と背広と受け取って木の廊下を出口まで戻っていく。そして一人ずつ扉から外に出て行って最後に森永のおじさんが扉から出た。

「お疲れ様です。ではまた明日」

と扉から上半身だけひょっこり出して宇部さんは言うけれど、三人と森永さんはにやにや笑いながらふりかえる。年かさの男が言う。

「明日は土曜日ですよ」

そう言われて宇部さんは

「あちゃあ」

と頭を右の平手でぽんとたたく。

「すっかり忘れてた。明日はお休みね」

その宇部さんのおちゃめな仕草に四人は笑い声をたてながらバス停に向かった。三人は白い家側の車線にあるバス停、森永のおじさんは向かい側のバス停に並ぶ。草原を気持ちの良い風がかけぬけて、森永のおじさんは思わず帽子をおさえた。遠くまで見わたす限りの草原、遠くに森のすそや街の病院の高い時計塔が見える。そして気のいい同僚たち。本当にここは良い職場だ。

 三人が待っているバス停にバスが来た。三人はバスに乗りこんで森永のおじさんを見下ろせる席に腰かける。三人がそろって帽子をちょいとつまみ上げて森永のおじさんにあいさつする。

森永のおじさんも帽子をつまみあげて、それにあいさつを返す。バスは行ってしまった。十分もたたないうちに森永のおじさんの乗るバスが来た。バスに乗りこむとまたいつもの席に座る。誰も他に乗客はいない。そしてバスは丘を降りて駅を目指す。森永のおじさんはふりかけり、白い家にはまだ灯りがついているのを見る。そしてつぶやく。

「宇部さんはいつ帰るのだろう」

高校の前で朝の二人の女子高生が乗りこんできた。二人とも部活動をしてきたのか朝と髪形が違っていた。そんな違いや風景を楽しみながら森永のおじさんを乗せたバスは駅に向かう。そして駅からは朝、会社まで来たのと同じ路線をたどって最寄の駅につき、三月三十一日通りを、街灯をたどって家に帰る。もうそのころにはすっかり日が沈んで暗くなっている。

そして森永のおじさんは晩ご飯を、おばさんと森永さんの三人と食べる。おばさんの料理はまだまだ初心者だけれどなかなかおいしい。

森永の娘さんが学校のおもしろい友だちや先生の話をする。森永のおじさんはうんうん、そうだね、とうなずいて聞いてあげている。

最近の娘はだんだんお母さんに似てきたな、話すときの眼の動きなんて本当にお母さんにそっくりだ、なんてことをおじさんは思っている。ご飯がすむとおじさんはお風呂にはいった。湯船の中で森永のおじさんはつぶやく。

「それにしても」

反響する自分の声におどろいて、いったんそこで言葉はとぎれる。そしてもっと小さい声で言葉をつなげる森永のおじさん。

「いったい俺は何の仕事をしているのだろう」

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