ぬるま湯で温まって。
もう1度あの人に会うことができるのなら私は、あの日の言葉をもう1度おどけながら言いたいんだ。
過ぎる日々は淡々と。意識しなければ流れてしまう。それを少しだけ忘れてしまうくらい大事だったあの数日間をどうか夢ではない私の静かな思い出を誰か覚えていて下さい。
台風の前で海は大きくうねっていた。海沿いに車を止めているお陰で荒れた海がよく見える。窓から見る海は夜と雲で黒に覆われどろりとした沼に見えてくる。車が小さく揺れた気がする。運転席の彼が動いたからか、風の仕業か。きっと風のせいね、波があれだけ荒れているんだもん。
「----------------」
そうして私はクスクスと笑いながらありふれた日常を非日常へと変える言葉を簡単に口にした。
彼は驚かない、だって知っていたから。口角を少し上げ笑いながら猫を撫でるように私の首元をくすぐったまま「そうか、どうしようか」って。なんてズルイ答えだと思うでしょう?
「どうしようか、困ったねぇ...」なんて私も充分にずるい答えを返しながらくすぐったい、って彼の手を叩いた。
静寂はこない。猫が戯れるように笑いながらくだらない冗談を口にしながら互いの肌に触れる。手に触れて、彼が私の太ももを撫でて、くすぐったいって笑いながら曖昧な愛撫をされていく。
「別にいいんだよ。貴方の想いは知ってるから。だからさぁ...ね?欲求不満者と寂しがり屋の利害の一致でいいよ」
曖昧な指の動きを感じながら彼の顔を見ないままそれでも笑いながら言う私の本心だって彼は知ってた、その事実を私は知った上で知らないふりをした。
「なにそれ、お前俺のペットにでもなるの?」
「あはっ、いいねぇそれ。いいよぉ?私は。...貴方はさ、私を自分の都合よく使えばいいんだよ。道具、おもちゃ、それでいいんだよ」
顎をつぅと撫でられ反射的に顔を上げさせられても、逆光で彼の顔は見えなかった。それでも、私の知らない、私以外の誰も知らない表情が薄く見えた気がしたんだ。
「お前に特ないじゃん。何がしたいの?」
「その罪悪感で一生私を覚えててくれればいいよ。罪の意識を死ぬまで持って苦しんでよ」
「お前...誰を相手にしてっかわかってる?」
指の動きが少しだけなくなった。私の反抗的な態度に彼は意地悪をする。彼の日常で見せることのない意地悪でとてつもなくサドスティックなその雰囲気に下腹部がぞわりと蠢いた。
「相手が大人だからって私が怯んだり遠慮するわけないでしょ?貴方は私を楽しませてくれそうだから...楽しい事のためなら罪や犯罪の一つや二つ犯さないと面白くないよ?」
「...お前ほんと怖いわ」
その言葉が本気だったことも、彼が本気で私ヘ恐怖の念を抱いた事も夜だけしか知らない。夜のあの台風の前夜しか。月ですら私たちの密かな歪んだそれを見ることは許されなかったんだ。
キスがしたい。
ふと、そう思った日も台風の前日だった。帰り道、スカートのまま海の近くの公園へ行くと案の定風が吹き荒れていた。
椅子に座って荒れる波と暗くなる空を見つめながら涙が出てくるのも無視して静かに静止していた。自分の嗚咽と波の音、風の唸りが耳の中に流れ込んでくる。
ケータイを手に取りLINEを開いた。
『今どこ』
彼へ送るとまたすぐに海を見た。色々なことがふわりふわりと沈んで行くようでどこか心地よくて、どこか自分の惨めさを見せつけられるようで複雑に絡んだ。
『仕事帰り。どうした?』
『キスしたい。会いたい。迎えに来て』
『今日は無理だよ(笑』
『なんだよ、バカ。』
気付けばもう空に明るさはなくなって、時折ランニングをする人が私を訝しげに見ている。彼はこない、ならばここにいても意味がないと立ち上がり帰り道を歩く。車が多くうるささに不快を感じるも顔には出さずすました顔で歩いていると、隣に車が来た。
「なんで居るんだよ...ほら、送るから乗れ」
ナイスタイミング。なんて内心思いつつありがと、とだけ口に出す。
家が近いのは以前から知っていたから、もしかするかもなとは思っていたのだが、ここまでうまくいくと笑えてきた。
「このまま送るとか言わないよね?私海に行きたい」
「はいはい、言うと思ったよ。なんだよ今日お前海の日?」
「んー...なんか、海に沈みたい日かな。あ、そうだ。一緒に心中する?」
笑いながら彼に話しかける。いつも通りを少しだけずれた日常。あまり表に出していない表情をお互いに晒したまま、いつもの、あの、海沿いに車を止めた。
「ね、キスしよ?ね?ね?しーよーうーよぉー」
駄々をこねる子供のように言う私を押さえながら完全に呆れている彼の顔は可愛くて私も必死に抵抗した。
彼は頑なに嫌がる。理由は明確だったけど、そんなのは知らない。だって私がしたいからするんだもん。そう言ったら彼は「どこの女王様だ!」って中々に的確な突っ込みをしてくれてそれもすごく楽しかったんだ。
30分程悶着し諦めた彼は「3秒目閉じててやるから、その間にできるならしろよ」って夜の意地悪な雰囲気でそう言って目を閉じた。
1、2。2を言い終わる前に触れた唇は、本当に、ただ触れるだけだった。柔らかく一瞬だけ。
彼の驚いた表情は忘れられない。目を丸くして動揺してるのもあるのか少しだけ笑ってたから私は心底やってやったって顔をした。
「やだなぁ。するって言ったらするよ?」って言うと「そういうやつだったな」って言いながら彼はハンドルを手に握ってアクセルを踏んだ。
怒った雰囲気はなく、すぐにいつものくだらない会話を繰り広げた。
家の近く、レンガの曲がり角のところで降りながら私は自然と言っていた。
「知ってる?貴方いつもあの子の話しかしてないんだよ。大好きなんだね。意地悪したくなっちゃう。んじゃ、送ってくれてありがとー」
返事を聞かないためにすぐにドアを閉めると車もすぐに進んでいって、それを見ながら私は、泣いた。
溢れる涙は止まらず嗚咽を漏らしていた。家までの数歩を泣きながら必死に声を殺して心も殺しながら。