初期症状…?
腕の傷の手当が終わると、悟は携帯を取り出した。
情報収集のためである。
さっきのコンビニ店員は正に化け物だった。
完全に正気を失っていた。
酷い傷を負っていたが痛がる気配も見せず、襲いかかってきた。
ゾンビパニック。
先ほど自分で言っておきながら、悟は「いやそんなはずはない」という相反する考えにもすがりついていた。
生ける屍などいるはずがない。死体が動くはずがない。
もしかしたら、狂犬病よりもっとひどいなにかの感染症にかかり、さっきの店員は正気を失っていたのかも知れない……。
悟は震える指で携帯を操作する。
――初期は狂犬病に似た症状という報告――
――世界各地で同時発生――
――動画サイトが軒並みダウンしてる――
――新興ウイルスによるパンデミックが発生した場合、日本には――
――つまり、もう死んでるんだろ?――
――発症までの時間には個人差があり――
――興奮状態、発熱、思考力の低下などが起こる――
――意識の混濁と同時に凶暴化――
――引っ掻き、噛みつくなどの――
――拡散希望! 熱で意識が昏倒した人は暴れないように手足を縛り――
――完全にゾンビだこれ――
――なんか、色々種類があるって――
――“変わる”前に、認知症みたいに同じ事何回も聞いてきた――
――動きが鈍いのと、めっちゃ機敏なのとかいるし――
(すべてはこうやって終わるのか)
断続的に妄想と独り言が脳内で沸き起こる。
(巨大隕石の衝突とか、氷河期の訪れや大規模な地殻変動でも、世界大戦による核の冬の訪れでもない。磁極が変動するポールシフトだとか、ましてやエイリアンの侵略でもなかった)
それよりももっともっと、あり得ない、酷いものだった。
奇妙なことに、ネットではすでに『ゾンビ』という言葉が横行しているのに、ラジオなどでは未だに『暴徒』というような言葉が使われていた。
ただ、ネットの情報は酷く錯綜していた。
東欧、北欧、ロシア圏、アジア、ありとあらゆるところで、まったく統一性のない怪現象の情報が飛び交っていた。
『世界の揺らぎ』の直後、オーロラに似た発光現象が空一面を覆ったとか。
濃霧に包まれたある都市の住人が殆ど消失しているとか。
他にもオーストラリアやニュージーランドでは全ての通信が完全に途絶しているとか。 はたまたUFOの大群を目撃したなど様々だった。
「おい、悟」
これで何度目だろうか。
「なに?」
「大丈夫か? 気分、悪くないか?」
「大丈夫だよ。意識はある」
「熱は?」
「ない」
悟の返事はひどくぶっきらぼうだ。
声音も低く、冷い。
自分が低く沈んだ声を出していることを、悟は何処か受け入れられずにいた。
奈弥文は数分おきに何度も何度も同じ事を聞いてくる。
悟は苛立ちを隠そうとはしなかった。
奈弥文も運転しながら悟や健吾から聞いた情報で、感染症の初期症状のことを知っている。
悟の怪我の具合を心配するように見せて、実は思考力の低下や意識の混濁を心配しているのはみえみえだった。
(意識ははっきりしている)
自分に言い聞かせるように悟は頭の中でつぶやいた。
しかし――。
先ほどから『あり得ないもの』が視界に映っているのもまた事実だった。
二つの国道の分岐点を過ぎた頃、遠くに見える浅間山を背に広がるなだらかな高原が見えてきた。
都内とはうってかわった、緑の豊かな美しい景観。
だが……。
これまでの間に、悟は何度も異様な光景を目撃していた。
交差点に差しかかると、二、三回に一回は横転していたり、正面衝突してぺしゃんこになっている車両に出くわした。
そしてその周囲を蠢く、ゾンビ達……。
民家の二階の窓から助けをこうように必死に手を振っている人間もいた。
マンションのベランダや渡り通路から人が飛び降りる――おそらくアレから逃げようと錯乱して――のも見た。
だが、『あり得ないもの』というのはそれらではなかった。
流れては遠ざかり、また視界に入り込んでくる地獄の景色の中に、悟は何度も同じ人物を見ていたのである。
さきほど、コンビニ店内で出会った、黒いインバネスの女だ。
何度も現れるその女は、阿鼻叫喚流の地獄の中で、それらを全く意に介した様子もなく、手に持った端末をチェックしながら、チラリチラリと悟を見つめてくるのだ。
今もまた、服がぼろぼろになっていたり、惨たらしい肉体の損傷をさらしているゾンビ達が、逃げまどう人々に襲いかかっている光景が通り過ぎる。
そして駆け抜けるシボレーにも向かってくる中、手を伸ばせばふれる距離のところに佇むその女にゾンビ達はなぜか目もくれない。
悟もうこれまで何度もバックミラーで確認した。
すると、逃げまどう人々やゾンビは見えても、そこにいた女の姿は消えているのである。
そして、しばらくすると、また前方から女の姿が見えてくるのである。
シボレーはかなりのスピードで走っている。
それをあの女は生身でずっと、追いかけてきているとでもいうのか。
あり得ない。明らかにおかしい。
まるで、怪談ホラーの幽霊だった。
ついに、感染症のせいで幻覚を見だしたのか。
しばらくすれば、意識がなくなってゾンビに変わってしまうのかと。
悟は恐怖に駆られた。
大丈夫だ、大丈夫だ、と必死に自らに言い聞かせる。
体が熱っぽいということもない。
意識もはっきりしている。
携帯から得た情報を奈弥文に口頭で伝えるときも、ろれつが回っていないとか、そういうこともない。
自分はまだ、大丈夫なはずだ。
だから、自分以外の人間には実際に見えているかもわからない女のことを、奈弥文や両親に話すのは、やめておいた。
奈弥文はというと、歩道に逃げまどう人の姿が増え、こちらに助けを求めて、手を振る人もいたが、それらをことごとく無視していた。
むしろ速度を上げて通り過ぎていった。
異を唱える者はいなかった。
「なあ、奈弥文。悟をどこかの病院に連れて行った方がいいんじゃないか?」
後ろから健吾の固い声が聞こえた。
「……」
奈弥文は無言。
「なあ、ネットではウイルスの感染症にかかった人間が凶暴化したといっているんだ。もし噛まれて……その、悟が病気を移されてたら、症状が出る前に――」
「わかってますよ。でも、さっきのコンビニ店員が病気であんな風になったとして――うわ、くそ!」
奈弥文は急ブレーキをかけながらハンドルを切り、車線変更した。
ラフな格好をした男のゾンビが車道にフラフラと躍り出てきたのだ。
「キャアアア!」
遠心力で体が傾くのを感じながら、悟は母のかん高い悲鳴を聞いた。
間一髪でシボレーは衝突を避け、大事には至らなかった。
荒い息を吐きながら、奈弥文は顔を真っ赤にして、ものすごい形相でバックミラー越しに、伊津子を睨みつけた。
「叔母さんうるさい! 大丈夫だから!」
悟はビックリした。
奈弥文が怒りを露わにして怒鳴り散らすところなど今まで見たこと無かったからだ。
「ご、ごめんね」
「まったく……悲鳴あげてもどーにもならねーだろ……」
涙ぐみながらあやまる伊津子に、しばらくの間、奈弥文はブツブツと小声で悪態を吐き続けた。
健吾はやや非難めいた視線を奈弥文を向けた後、携帯をしまい、「とにかく落ち着こう。大丈夫だから」となだめながら伊津子の肩をポンポンと軽く叩いた。
そんな両親を助手席から見つめていた悟は、奈弥文が苦しげな息を漏らすのを聞いた。
見ると、片手で頭をおさえて顔を歪めている。
先ほど真っ赤だった顔が今度は血色の悪い白い顔になっていた。
「やばい……徹夜のせいか頭が痛くなってきた」
「運転かわろうか」
「え、ああ。まだ大丈夫ッスよ。いよいよもってきつくなってきたらお願いします。あ、叔母さん、栄養ドリンク取って貰えます?」
硬い声で申し出た健吾に対し、奈弥文は妙に明るい声だった。
「はい、これ……」
「あざーす♪」
戸惑いながら伊津子が差し出したドリンク剤を受け取る奈弥文は不気味なほどにご機嫌だった。
つい先ほど、あれだけ激昂したにもかかわらず……。
(どうしたんだ奈弥兄さん……)
人の機微に長けた奈弥文らしからぬ様子に、悟はいいしれぬ気持ち悪さを覚えた。
「あ、悟。大丈夫か。気分悪くないか?」
なにやら我に返ったような真顔で、奈弥文は唐突に同じ質問を繰り返してきた。
「大丈夫だよ。熱もない」
「そっか……」
「……奈弥兄さんは?」
「えっ、俺は大丈夫だよ」
「でも頭痛がするんでしょ? 熱とかあるんじゃない?」
「……」
「奈弥兄さん、さっきからずっと同じ質問を繰り返してるよ。わかってる?」
「……」
奈弥文は無言でドリンクを飲み干し、空の瓶をダッシュボードのドリンクホルダーに置くと、自分の額に手をあてた。
「ネットの情報だと、初期症状は発熱や思考力の低下、とかだったよ、な?」
奈弥文の声は震えていた。
悟は「うん」と、答えようとしたが、口に物が詰まったかのように声が出なかった。
悟は自分の腕の傷を見た。
全世界で同時に発生した感染症。
そもそも本当にウイルスや細菌による物なのかも判明していないのだが、仮に感染症だとしても、どのように感染するかはまったく不明だ。
ネットの情報も何がホントで嘘なのかまったく分からない。
感染者に噛みつかれ、傷を負わされた自分には何の異常もないのに、まったくの無傷の奈弥文に、なぜ疑わしい兆候が現れているのか……。
「ネ、ネットではそんなこといってるけど」
奈弥文は車の速度を落とし、しきりに目を瞬いて、手の甲で額を小突いたりしながら、必死に何かを思案していた。
健吾も伊津子も、ただ黙って、悟と奈弥文のやり取りを聞いていた。
「おじさん。運転かわってもらえますか?」
「……わかった」
「悟、俺は一番後ろの座席に移るから、お前は叔母さんと席をかわってくれないか? やってもらいたいことがあるんだ」
奈弥文は何かを決心したような顔つきになっていた。
悟はただ、頷くしかなかった。