それは突然に
一般国道をシボレーのSUVが走っていた。
時刻は午前十二時を回っていなかった。
車に搭乗しているのは、悟と奈弥文、そして悟の両親だ。
奈弥文に説得されて皆、N県にある奈弥文が所有している別荘に避難することになったのだ。
「想像以上にやばいことになってるね……」
スマホで知り合いとメールのやり取りをしながら、助手席の悟は低い声でそう言った。
「な、よかったろ? 早めに行動して」
運転席でハンドルを操りながら、奈弥文はそう言ってチラリと悟を見てから、すぐにまた視線を前に戻した。
その表情は引き締まっていたが、声は興奮気味だった。
早朝、奈弥文との電話を切ったあと、ややあって事態は急変した。
例の、視界が二重にダブる現象が再び起こったのだ。
放送局では番組の予定が変更され、臨時ニュースに切りかわっていた。
最早、テレビでもネットでも『幻覚』という言葉は使われなくなっていた。
世界中の人間が同時体験している、『現象』とみなしていた。
『世界の揺らぎ』などと称する局もあった。
二度目の『揺らぎ』で日本国内でも交通事故が多発していた。
カーラジオから聞こえるニュース内容では、一部の高速道路は既に事故で麻痺している。
だが交通量そのものは意外に少なかった。
各報道が外出を控えるように促したためだろう。
ネット界隈でも自宅待機派の声が大多数だった。
奈弥文はカーナビを駆使し、事故で交通規制がかかっているところを避けてはまた一般国道に戻る――といった進路を選択していた。
「だめだ。電話はつながらんなぁ。メールも送ってるんだが……」
後部座席から間延びした声がした。
悟の父、仁々木健吾である。
先程から何度も旅行中の奈弥文の父に電話をかけているのだ。
「ありがとう、叔父さん。もうちょっと時間おいてまた電話してみよう。メールは打っておいたし」
「伯父さんはどこに旅行してるの?」
「神社巡りとしか聞いてないんだよ。こんな時に間が悪いったらねーよ」
早くに妻を亡くした奈弥文の父は、一人息子の奈弥文の就職後、自らは早期優遇退職して悠々自適な生活を送っているのだ。
悟は後部座席を見た。
悟の母・伊津子はシートにもたれかかってうたた寝をしている。
その横で健吾は携帯をいじくり回していた。
普段、「携帯は通話とメールが出来れば充分」と言ってはばからない父が、どうやらネットニュースを色々見て回っているようだ。
早々に東京を脱出した悟達だが、最初は両親はかなり渋っていた。
当然であろう。
親戚が日曜の朝早くから車で来訪してきていきなり、「N県の別荘までドライブしよう」と言ってきても普通は困る。
二度目の“揺らぎ”があった時も、悟の両親はまだ寝ていたのだ。
悟が「疫病が蔓延するかも」などといっても健吾は一笑に付していた。
それでも、奈弥文が海外の都市部での混乱を伝え、何とか説得してのけたのである。
「まあ、他ならぬ奈弥文が言うのなら」
車に乗り込む前、そう言って健吾は苦笑していた。
(奈弥兄さんの言うことなら何でも聞くんだからなぁ……)
しかし、そんな半信半疑だった健吾も今は緊張した面持ちで、窓を流れる景色を時折見つめながら携帯をいじくっている。
「はぁ、えらいことになっとるな。新宿や渋谷で暴動だとさ。奈弥文の言う通りになったな」
朝九時に出発してからここまで、シボレーは走行中、幾つもの消防車やパトカーとすれ違っていた。
国道に面した雑居ビルが火事になっているのも一度見た。
ハンドル操作を誤って建物に突っ込んでいた車両も一台あった。
通り過ぎて行くファーストフードチェーン店、スーパー、個人経営の店など、臨時休業しているところも多かった。
「ちょっと、あそこのスタンドで給油するわ」
そう言って奈弥文はセルフスタンドで車を止めた。
隣にコンビニが並んでいるタイプのガソリンスタンドだった。
悟はコンビニをちらりと観察した。
何の変哲のない大手チェーンのコンビニだった。
普通に営業しているようだ。
窓ガラスなどが割れた形跡もないし、駐車場にもスタンドにも一台も車は止まっていない……。
父の言っていた「暴動」というのが気になったのである。
しかし外から見る限り、店内も荒らされている形跡はなさそうだった。
「俺、ちょっとコンビニ行ってくる」
そう言って悟は奈弥文と同時に車を降りた。
「あ、悟。んじゃついでに買い物頼む」
奈弥文はそう言って、財布から一万円札を数えもせずに数枚、無造作に悟に差し出した。
「いやいやいや、何買うの?」
「水と缶詰とか携帯食。ケチんなくていいからな。並んでるの全部買っていけ。あとなんか好きなもの買っていいぞ」
「えー、買い占めですか」
給油機のノズルを手に取りながら奈弥文は「あとエナジードリンク系も頼む」と付け加えてきた。
「りょーかい」
(そういや徹夜してるんだっけ)
運転している最中、徹夜で疲弊してる様子は微塵もなかった。
アウトドアベストを着た姿で給油しているのが妙に様になっている奈弥文を見て感心しながら、同時に普段通りのシャツにジーンズといった姿をしている自分がなぜか少し恥ずかしかった。
そんなことを思いながら、悟は小走りでコンビニ店内に入っていった。
自動ドアの開く音ととともに入店音が鳴り響く。
悟以外、中に客はいないようだ。
BGMの流れておらず、「いらっしゃいませ」の声もなかった。
カウンターを見ると無人だった。
訝りながらも、悟は買い物かごを二つ持つと、まずコミックコーナーに向かった。
長らく休載状態だった人気コミックの最新刊や、他にも何冊か興味を引いた文庫本やサブカル本をかごに放り込んだ。
万が一に備えてである。
しばらくの間、避難生活が続くかもしれないからだ。
暇つぶしになる物は多い方がいい。
と、こちらに向かって一人の女性がやってくるのに悟は気づいた。
(あれ、人いたんだ?)
百八十センチ近い悟の身長とほぼ同じくらいの背丈の女性だった。
モデルのように均整のとれた肢体。
日本人離れした中性的な顔立ち。
黒いインバネスコートがよく似合っている。
高価そうな細眼鏡をかけていて、スマホとタブレットPCの中間ぐらいの大きさの端末を操作していた。
ふと女性はすれ違いざまに一瞬だけ悟を見つめ、口の広角を上げて、にっこりと悟に微笑んだ。
「あ、ども」
咄嗟に悟はそう言って、ちょこんと頭を下げた。
女性はそれには目もくれず、すぐに端末に視線を戻すと、外へ出ていった。
悟は何処かであったことある人なのかなと思わず記憶を辿る。
(いや、全然知らない人だ)
自動ドアの開く音とともに、悟は後ろを振り返った。
女性の姿はもうどこにもいなかった。
(なんだろ……まあ、いいや)
妙に印象深く記憶に焼き付いた女性の姿を頭の中で反芻しながらも、悟は早く買い物を済ましてしまおう気を取り直した。
携帯栄養食や缶詰、そして栄養ドリンクコーナーで、紙箱に入っているタイプの高価な栄養ドリンクを、陳列されてある分全部、買い物かごに入れた。
「ヒャッハー」
これまで経験したことのないドカ買いだ。
小気味よくなった悟はそんな声を漏らしながら、最後にペットボトルの水を入手するために、飲料水コーナーへと向かった。
ちらりとカウンターを見るが、店員はまだいなかった。
品物で満杯になった重い方のかごを床に置き、悟は二リットルタイプのミネラルウォーターが陳列してある扉を開けた。
瞬間、冷たい空気と共に――。
思わず息を止めたくなるような臭いが鼻をついた。
「……ッ」
実際に息が詰まった。
猫か鴉が散らかして、しばらく放置された生ゴミの横を通り過ぎたような、ひどい悪臭だった。
浮ついた気分が一気に萎縮した。
(なんだよ……この臭い)
顔をしかめながら、悟は身を屈め、ミネラルウォーターをかたっぱしからかごに入れ始めた。
――ゴトリ。
陳列ケースの奥から物が落ちる音が聞こえた。
思わず顔を上げた。
悟はコンビニの内部構造に詳しいわけではない。
しかし飲料水コーナーの奥は飲み物や冷蔵商品を置くスペースがあり、中から陳列ケースにペットボトル商品を補充できるようになっていることぐらいは知っていた。
暗がりの中、陳列ケースの隙間から奥にある在庫棚の商品がひどく散乱しているのが辛うじて見えた。
そして――
そこから手が突き出てきたのは殆ど同時だった。
「うわっ!」
悟はビクリと上半身を仰け反らせて後退った。
身の毛がよだつ唸り声が奥から聞こえた。
手はなにかを手繰り寄せるような動きをしていた。
陳列ケースの商品がメチャクチャになる。
悟が手を離したので、ケースの扉が自動的に閉まろうとするが、腕はペタペタとガラスの扉を押し返したり、引っ掻いたりした。
「なんなんだよおい!」
最初の衝撃から立ちなおった悟はそう怒鳴ったが、すぐに顔色を変えた。
悟の怒声をまったく意に介さず暴れ回る手は異様に青白く、所々が紫や赤黒に変色していた。
『感染症』
その言葉が脳裏に浮かび、悟は頭が真っ白になった。
そしてなぜか反射的に床に置いていた買い物かごを持つ。
ギィ――
別の物音がする。
飲料品コーナーの横のドアノブのない押して開くタイプの扉――
スタッフルームと書かれてある扉だ。
それが開きかけている。
別の誰かがいるのか。
「あの――」
思わず声をかけかけて、ハッとした。
悟は息を殺して炉ビラを凝視した。
スタッフルームから声が聞こえる。
飲料品コーナーの奥から発せられるのと同じ唸り声が。
扉が開くのを、最後まで見ようとはせず、悟は駆けだした。
コンビニの入店音に混じって聞こえる唸り声を聞きながら、悟は店の外へ飛び出した。