押し寄せるハチャメチャと、ゆらぐ世界(2)
ゲーム――というより、奈弥文の愚痴を聞きだしてからどのくらい経っただろう。
聡は携帯の時計を見る。
時刻は午前一時を回ろうとしていた。
――もう寝たい。
そう思いながらも、悟はボイスチャットを打ち切ることは出来なかった。
生来、悟は助言を求められると答えずにはいられない人間だった。
いわゆる『放っておけない性格』なのだ。
なにより相手は昔から色々お世話になっている従兄弟の兄さんである。
「結婚相談所は?」
高校生の自分が『結婚相談所』だなんて言っていることに、違和感を感じつつも、悟は遠い目で自分のプレイ画面を見つめながら、奈弥文に聞いてみた。
「どうせそんなとこ行く女はロクな奴がいないんだよなぁ」
「伯父さんや伯母さんや、うちの親とかから見合いの話がきたりとかしないの?」
「縁故関係は断りづらいから嫌なんだよ」
とにかく、何を提案してもダメ、無理、イヤの連発である。
じゃあ、当分結婚無理だね、というと「お前は冷たい」とか言い出す。
「出会いが無い」
「周りにロクな女がいない」
「おっ、って思ってた人は既に結婚してる」
「こればっかりは縁だから」
カシュ、という缶のふたを開ける音をヘッドフォンから聞き、悟は奈弥文が酒をやり出したことに気づいた。
(いやいやいやいや、縁が無いなら、その縁を無理矢理にでも作り出すのが男の甲斐性ってもんだろ! コミュ力だろ! 以前の奈弥兄さんなら絶対自分でそう言ったぞ! フラれた前の彼女を引きずって、出会いの場をつくらないのもあんたなら、あんたの言う周りの『いい女』が結婚した後でグチグチグチグチ言ってるのもあんただからッ!)
思わずそう言いたくなるのを悟はグッとこらえた。
言えない。
そんなこと言えるはずがない。
なぜならこんな風に変わってしまった奈弥文は、それでもなお、悟より上の存在だからだ。
そもそも彼女いない歴=年齢の悟にとっては、先ほど心の中でぶちまけたことを口に出してしまえば、すべてブーメランになって自分に返ってくる。
そのダメージ量は奈弥文の受けるそれとは比べ物にならない。
なんだかんだいって、仁々木奈弥文は『できる男』なのだ。
奈弥文は小学生の時に母親を亡くしている。
大変な経験だったろうに、それにもめげず勉学に励み、大成した奈弥文のことを、親族は自慢してはばからない。
正月や盆に親戚連中で集まった席では、奈弥文は今愚痴ってるようなことは絶対に言わないし、『以前の奈弥兄さん』のままだ。
おそらく、職場でもそうなのだろうし、相変わらず仕事もバリバリで、広い交友関係を築き上げているのだろう。
愚痴り出すのは、ネットゲームの中で悟と会話する時だけだ。
それが悟にはたまらなく嫌で、悲しかった。
奈弥文が悟のことをよく知っているように、高校入学から一年半、奈弥文の愚痴をネトゲ中で聞くようになってから、悟も奈弥文のことをよく知るようになった。
奈弥文は悟のことをよく知っている。悟が奈弥文の悩みを、両親や伯父夫婦に報告するなんて事は絶対無いし、それでいてちゃんと話を聞いてくれる奴だということも計算しているのだ。
高校生である悟に、答えなんて求めていないのである。
ただ、「うん、うん」と話を聞いてくれる安全な相手が欲しいだけなのだ。
そして、話は彼女とか結婚の話に留まらない。
「――つまんねーよなぁ。最近、何一つ思い通りにならなくてさ」
ままならない現状、人生の意味、もう一度子供に戻って人生をやり直したいとか、そういった類のネガティヴな心情の吐露が始まる。
いつものことだった。
「なんか面白いこと起きねえかなぁ。でないとなんかもう、消えて無くなりたいって思う時があるんだよな」
「まぁ、元気だそうよ」
(やめてくれよマジで。怖いから)
悟は、奈弥文の愚痴の聞き手役になってからというもの、自分のこれから先の人生に暗澹たる不安と恐怖を抱くようになっていた。
……「彼女がいない」とか「結婚相手がいない」といっても、それはおそらく奈弥文が高望みしているか、あるいは前の彼女に未練を残しているからであって、奈弥文がその気になれば相手の一人や二人は見つかるはずである。
高学歴、高収入、ルックスもいい。
彼女にフラれたことを引きずっているとはいえ、それ以外の人間関係は良好。
就職難と不況が続く世の中で、成功を収めているといえる奈弥文でさえ、思い悩んでいる。
苦しんでいるのだ。
悟は思う。
自分も高校を卒業して、大学を出て、就職できれば、社会人だ。
自分には将来の夢とかは特にない。
ただ、大学でなにかやりたいこと、興味のあることでも見つけて、それと関係のある職に就ければいいな、などと漠然と思っているが……。
そもそも、ちゃんと就職できるのだろうか。
否、それ以前に大学受験で失敗しないだろうか。
逆にそれら全てをクリアしたとして、奈弥文でさえ難儀に思う世界でやっていけるのだろうか。
そして、仮にやっていけたとして、『やっていくこと』に意味を見いだせるのだろうか?
延々と奈弥文の話を聞きながら、悟はそんな思いに囚われ、そしてそれを振りほどきたくて、ボイスチャットの音声をミュートにして、声を出して叫ぶか、お気に入りの音楽をかけてガンガンに聴き入りたい衝動に駆られた。
おもわずボイスチャットの音量をいじろうと手を伸ばした時、奈弥文がいつもの話題とは違う事を言いだした。
「まあ、俺だって分かってるけどさ。何事も思い通りにいかねーのが世の中っつーもんだってことは。でも、じゃあなに? ってことになるんだ。思い通りにいかなかったら? そもそもそういう夢とか願望が見つからなかったら? ってことになるんだ」
「いやいやいやいや、それは極論でしょッ」
「よしんばそこそこいい線いったとして、もしくは別の道を見つけて、なんとかやっていけたとして『で?』っていうことになるんだ。『その先は?』ってことになるんだ」
(……彼女が出来ないとかで悩んでた話はどこいったんだ……)
悟の脳裏に、「だめだこいつ……」から始まる例のテンプレ台詞が思い浮かんだ。
しかし、「こんな話聞きたくない」と思いながらも、同時に身を乗り出してもいた。
知りたかったからだ。
「で、『その先』は?」
「わかんねーよ! ようするにこれ、突き詰めると人生の意味とか魂とかそういう類の問題になってくるんだ。誰もが納得できる回答なんて存在しねーんだ。昔は宗教がそういうことの『悩み相談室』だったんだろうけど、五十年前か? 百年前か? もう対応できなくなってるだろ。ただでさえ日本は宗教ってだけで拒否反応出すやつ多いし。それでいて漫画やアニメにでてくる妖怪とか幽霊とか、神様とか大好きなくせによ!」
「なに怒ってんの……。それに奈弥兄さんだってそういうの結構好きじゃん」
「そういやお前はどっちかってと、異星人の襲来物とかSF好きだよな。アメリカのSFドラマとか」
「いや、別に俺は特別ハマってるってわけじゃ――」
「おれらの趣味趣向はどうでもいい! とにかく、俺はある意味気づいたんだ。あー、やっぱそーゆーので悩んでるの俺だけじゃないんだってな」
「…………なるほど」
「でも、アレだよな。年間自殺者は異常に多いし、消えて無くなりたいとか。日本人って、とことんアレだよな。出来るだけ他人に迷惑をかけないようにする気質があるというか。変に繊細すぎるっつーか。溜めるだけ溜め込んで爆発しちまうっていうか」
「いやいやいやいや、日本人全部がそうってわけじゃないからね。全員がそんな風にネガってるわけじゃないからね」
「アメリカなんかむしろアレだぞ。何で俺が死ななきゃいけねーんだよ』ってノリだぞ」
「……どういうこと?」
「だからほら、この前貸したDVD思い出せよ。クソみたいな世界だってんならよ。むしろ世界の方が――」
奈弥文の声が途切れるのと、悟の視界がグラッと揺れたのは同時だった。
一瞬地震かと思った。
しかし、何かが違う。
悟は目を凝らして周囲を見回した。
最初、室内がビリビリと震えているのかと思ったが、違った。
パソコンラックの横に設置された勉強机。
壁に貼られたポスター、本棚、衣装ケース、ベッド。
枕元に設置してある、午前二時十四分を指し示す時計の針も――。
揺らいでいたのだ。
目を凝らせば凝らすほど、目の焦点があっていない時のように、世界は二重に見えた。
(なんなんだこれ?)
眠気でどうかしてしまったんだろうかと、悟は片目を瞑ってみたが、それでも視界は、目に映る物全ては二重にぶれていた。
しかも二重に見えている世界の片方は、モノクロ映像のように色彩のない灰色の世界だった。
「おい、悟」
奈弥文の戸惑った声を聞いて、悟はハッとした。
「奈弥兄さん、俺いま、周りが変な風に見えてるんだけど」
「お前もか。俺も、酒飲み過ぎて頭がグルグルしてる時みたいになってる。いや、それともちょっと違うな」
「俺は酒飲んだことないからわかんないけど――」
と、二人が会話をしている最中に揺らぎはピタリと止んだ。
二重に見えていた世界の片方――灰色の方――は唐突に、空気に溶け込むように消えていった。
「……止まったな」
「……うん」
「……」
「……」
悟はいつも通りに戻った室内をしばし無言で見回した。
おそらく奈弥文も同じ事をしているのだろう。
「はは、寝るか。あれだ。『泣き言ばっかいってんじゃねー』って神様かなんかが警告してくれたのかも」
ややあって、なにやらスッキリした苦笑いをする奈弥文。
「あはは……そうかもね。じゃあ俺、もう寝るね。おつかれさま」
悟はどっと疲れが押し寄せてくるのを感じながら、やっと解放されると内心安堵しながら返事した。
しかし――
唐突に起きた怪現象はなんだったのか。
何か釈然としない、狐につままれたような気持ちのまま、悟はゲームからログアウトし、PCの電源を落とすと、ベッドの中に潜り込んだ。
しかし仁々木悟は後に思い知ることになる。
――警告なんて生やさしいものじゃなかったんだ。