プロローグ
ごきまるというユーザーネームでハーメルンにも投稿しています。
少年は懸命に走っていた。
少年の知識ではこの世界の重力は地球の六分の一。
そして大気は限りなく真空に近い。
日光がまともに差せば最高表面温度は百℃を超え、逆に最低温度は地球南極のブリザードが可愛く思えるほどの極寒地獄。
だが少年は特殊な装備など身につけていない。
生身の、シャツにジーンズとスニーカーという姿だ。
一応、ここに送り届けられた直後に、肺にたまっている空気が肺胞を破裂させないよう、少年は思いっきり息を吐いたが、数十秒経過した今も、窒息死する気配すら微塵もなく、少年の意識はハッキリしている。
どうやら少年の体は、『窒息する』ということを忘れてしまっているようだった。
しかしながら、走り続けている少年の体は自然と酸素を求めて喘ぐ。
取り込む酸素など無いのだが。
トランポリンで飛び跳ねているのに似た足から伝わる感触。
そして、全身で感じている浮遊感。
忌々しいSFで得た忌々しい半端な知識のせいで、様々な疑問が次々と湧いてくるが、少年はそれを必死に押しとどめ、ただただ、灰色の砂が積もった地面をがむしゃらに走り続けた。
少年は追いかけていた。
視界に映る、一人の少女を。
服装は、漆黒の空に映える、白い薄手のトレンチコートに、ショートプリーツスカート。
靴は履いていない。
裸足である。
少女は空中に浮かんでいた。
少年が近寄ればその分、少女は少年と距離を取る。
地面の数十センチ上をスーッと水平移動して、遠ざかる。
その度に、トレンチコートの肩ボタンの部分ついている羽衣のような布がふわりと揺れた。
少女が空中を飛翔している事も相まって、少年にはそれが天女――否、天使の羽のように思えた。どれだけ追いかけても、決して、絶対に手の届かない存在のようにも……。
「ちょっ! 待てって!」
少年は叫ぶ。既に何度も呼びかけているが、その度に、返事が彼の頭の中に響いてきた。
――いや!
振り返った少女の艶やかな黒髪に縁取られた少女の面立ちは、少年が今まで見たこともないほど美しかったが、その顔は青ざめていた。
瑞々しいブルーベリーのような青みがかった黒い瞳には涙が潤み、下唇は震えていた。
少女は明らかに怯えていた。
「とにかく止まれ! 話を聞いてくれッ」
――お願いだからほっといて!
少女はその場で、舞うようにくるりと身を翻した。
少女の姿は揺らぎ、黒い空と灰色の大地に溶け込んで、姿が消えた。
少年は呆然と立ちつくした。
「おい!」
……返事はない。
少年は両手で頭を抱えて周囲を見渡す。自分以外誰もいない、何もない、無機質な世界を。
「……おい」
ドクンドクンと、脈打つ己の心臓の鼓動だけが頭の奥で響く。
猛烈な孤独感に襲われ、少年は空を仰いだ。
過去に写真で見たことがある。
NASAが公開していた『月から見た地球』的な光景が頭の中をよぎる。
だがそんなものが見えるはずもなかった。
ここは月の裏側だからだ。
ここからでは、地球は永遠に拝めない。
少女は消えてしまった。
少年は言われてきたのだ。
「彼女に説得してみろ」と。
そして、こうも言われてきたのだ。
……助けが得られなければ、人間世界は破滅したままだ、と。