第1話 金食い虫の勘定
「料理長」
「……何でございましょう、お嬢様」
「その油代で、この屋敷の床でも揚げるおつもりですか」
火の落ちた厨房が、そこでしんと静まり返った。
夜明け前の厨房だった。
竈はぬるく、洗い場には前夜の水気が残り、食糧庫からは油と小麦の匂いが滲んでくる。
その中で、料理長バルドの額にだけ汗が浮いていた。
「何を、仰っているのか」
「では、言い方を変えます」
私は作業台の上に帳簿と、焼け残った紙片を並べた。
「上等油三樽、先週仕入れ。帳簿上はそうなっています。けれど、食糧庫にあった新品は一本でした」
「古い樽から使っているだけです」
「その古い樽を開けました」
「……」
「二本とも酸化していました。新品の蝋封をやり直した跡つきで」
バルドの喉が動いた。
「お嬢様は、厨房の現場をご存じない」
バルドは低く言った。
「高級油は晩餐会まで温存することもあります。封を直したのは品質を守るためです」
その声を聞いた瞬間、昨夜の応接間の匂いまで戻ってきた。
「前はもっと穏やかでした」
公爵夫人はそう言った。
夜の応接間はよく整っていた。
暖炉の火は強すぎず、香の匂いは薄く、椅子は向かい合うには少し遠かった。
私はそこに座らされ、来月いっぱいでこの家を出るよう告げられた。
「承知いたしました」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
私はこの家の娘ではない。
本家の令嬢がいなくなった時、その空いた席へ置かれた娘だ。
席を返す日が来ることくらい、最初から知っていた。
「理由は分かっているな」
公爵が言う。
「本物のお嬢様が戻られるから、でしょうか」
「それもある。だが、それだけではない」
彼は机上で指を組んだ。
「お前はこの家に金を使わせすぎた」
「……私が」
「厨房、備品、洗濯、灯油、使用人配置。何にでも口を出し、“必要経費です”“数字が合いません”と止めようとする」
「はい」
公爵夫人が続けた。
「前はもっと穏やかでした。あなたは何でも問いただし、減らし、締める。この家の格に必要な“余裕”まで削ってしまった」
「余裕、ですか」
「貴族の家には、数字に出ない体面があります」
「申し開きはあるか」
公爵が問うた。
私は首を振った。
「いいえ」
立ち上がり、一礼する。
それで終わるはずだった。
その時、公爵夫人が書類を閉じるように言った。
「部屋の整理は先に進めておきます。あなたの私物も来週には別棟へ移すよう指示しましたから」
私は振り返った。
「来週、ですか」
「ええ。どうせ長く置いても仕方がないでしょう」
「そうかもしれませんね」
私は来月いっぱいで出る。
それなのに、私物整理は来週。
今日の通告より前から、私がいない前提の屋敷の形が決まっていた。
応接間を出て、自室の前を通った時、それは確信に変わった。
扉の脇に、カーテンの見本帳が置かれていたからだ。
薄青。
灰銀。
象牙色。
どれも私の趣味ではない。
住んでいる人間の部屋の前へ置く色でもない。
扉の下には、荷札用の細い紐までまとめて置かれていた。
誰かが、ここをもう空く部屋として扱っている。
私は自室へ戻らず、そのまま厨房へ向かった。
昼の厨房は、人の声と火の音で埋まる。
夜は違う。使われたものと、隠し損ねたものだけが残る。
火の落ちた竈。
切り屑。
洗い残しの鍋。
油の匂い。
明日の下拵え。
その中に、料理長バルドがいた。
「お嬢様」
彼は腕を組んだまま言う。
「こんな時間に何のご用で」
「最後の確認です」
「確認?」
「ええ。私は来月、この家を出ますので。少なくとも、自分が本当に“金食い虫”だったのかくらいは確かめてから出たいと思いまして」
バルドは笑わなかった。
視線が食糧庫へ流れた。
私は食糧庫を開けた。
小麦粉。
塩。
砂糖。
干し肉。
保存酒。
油樽。
品は揃っている。
棚も整っている。
油樽の並びだけ、床の埃が薄かった。
私は一番手前の油樽へしゃがみ込み、蝋封に指を触れた。
新品ではない。
「何をしている」
バルドが言う。
返事をせず、封を切った。
匂いが立つ。
古い。
酸化した油の、鼻の奥に残る匂い。
隣の樽も開ける。
さらにもう一本。
新品は一本しかなかった。
私は作業台の灰へ戻った。
薄い一片を裏返す。
焦げた縁の向こうに、まだ字が残っていた。
――灯油。
厨房の作業台に、灯油の紙が燃え残るはずがない。




