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竜の涙

作者: 暗黒の儀式
掲載日:2026/03/01


選択肢は三つ


空が赤く燃えていた。


山の向こう、竜の住まう峰が、夕焼けに染まっているわけではない。あれは火の粉だ。竜が火を吹き、村が燃えている。


「お父さん!」


背後から幼い声がした。振り返ると、七歳の長女・鈴が、五歳の次女・琴の手を引いて立っていた。二人とも、母に似た大きな瞳を涙で濡らしている。


「お母さんは?」


訊くまでもなかった。妻は三年前、流行病で死んだ。この子たちがまだ小さかった頃だ。


「お父さん、山が、山が光ってるよ」


琴が震える指で山を指す。竜が舞い上がるのが見えた。黄金の鱗が、夕陽を受けて眩しく輝いている。あの竜だ。間違いない。


十年前、俺はあの竜を裏切った。


「隠れていろ」


二人を家の床下に押し込む。かつて戦士だった頃の剣は、もうとっくに錆びて売った。手元にあるのは薪割りの斧だけだ。


外に出ると、風が変わった。


熱気と共に、竜が舞い降りた。その巨体は村の広場を覆い尽くし、一対の黄金の瞳が、まっすぐに俺を見据えている。


「久しいな、勇者よ」


声は頭の中に直接響いた。かつて共に旅をした、あの頃と同じ声音で。


「村の人たちを……」


「殺してはいない。今のところはな」


竜の尾がゆるりと動く。村人たちは広場の隅に集められていた。泣いている子供、震える老人。どの顔も見知っている。十年間、この村で共に生きてきた人々だ。


「お前の望みは何だ」


俺は斧を握り締めた。


竜が笑った。人間で言えば、苦笑いに近い表情だった。


「単純な話だ。お前に、選択を迫ろうと思ってな」


「選択?」


「そうだ。お前は昔、俺を裏切った。俺の卵を奪い、巣を焼き、仲間を殺した。だがそれは、お前の主君の命令だった。お前に個人的な恨みはない。だから、こうしよう」


竜の爪が、二つの家を指した。一つは俺の家、もう一つは隣の老夫婦の家だった。


「お前の一番大事なものを差し出せ。そうすれば、村は救ってやる」


一番大事なもの。


俺の家には、鈴と琴がいる。隣の家には、いつも俺たちに野菜を分けてくれる老夫婦がいる。


「選べ。お前の娘たちを寄こすか、隣の老人たちを寄こすか。どちらかを差し出せば、残りの村人は全員助けてやろう。その命をもって、かつての罪は帳消しだ」


「ふざけるな!」


斧を構えた瞬間、竜の尾が一閃した。俺の身体は吹き飛び、家の壁に激突した。肺の空気が全て絞り出される。


「戦うという選択肢もあるぞ。ただし、お前が負ければ、村人は全滅だ。それでも戦うか?」


竜は首を傾げた。その瞳に、残酷な遊び心が光っている。


俺は膝をついたまま、考える。


選択肢A:娘たちを差し出す。

そうすれば村は助かる。でも娘たちは死ぬ。そして、もし助かった村人が知ったら、俺は「娘を売った父親」として生きていくことになる。俺自身も、その事実に押しつぶされるだろう。


選択肢B:隣の老夫婦を差し出す。

娘たちは助かる。でも老夫婦は死ぬ。あの人たちは、妻が死んだ時、泣き暮らす俺たちを毎日支えてくれた。琴が生まれた時、一番に祝いに来てくれたのはあの人たちだった。


選択肢C:戦う。

確率はゼロに等しい。かつての相棒だ。どれだけ腕が衰えたか、俺が一番知っている。負ければ村人全滅。娘たちも死ぬ。


選択肢D:何もしない。

時間だけが過ぎる。やがて竜が業を煮やし、全てを破壊する。結果は戦うのと同じだ。


どの道も、詰んでいる。


「どうした。元勇者様よ」


竜の声が遠くから聞こえる。


膝をついたまま、俺は地面を見つめた。土の上を、アリが一匹這っている。必死に、どこかへ向かっている。あのアリには、ちゃんと行く先があるんだな。


「お父さん!」


家の方から声がした。鈴だ。


「お父さん、出して! 戦うなら、私も戦う!」


琴も泣き叫んでいる。


振り返りたい。でも振り返れない。あの子たちの顔を見たら、きっと俺は正気を失う。そして無謀な戦いを挑み、負け、全てを失う。


「選択肢は三つしかないのか」


俺は呟いた。


「四つ目はないのか。正解は、これじゃダメなのか」


竜が答えないのをいいことに、俺は考え続ける。


現状維持が一番いい。このまま時間が止まればいい。決断しなくていい世界があればいい。


でも時間は止まらない。空は赤く燃え、娘たちは泣き、竜は待っている。


「頼む、誰か教えてくれ……」


声が震えた。


「俺は、どうすればよかったんだ」


その時だった。


家の床下から、小さな影が飛び出した。


琴だ。


「竜さん! 私が行く!」


五歳の娘が、両手を広げて竜の前に立ちはだかった。


「お姉ちゃんは、お父さんと一緒にいてあげて! 私が行けば、全部解決するんでしょ!」


鈴が床下から飛び出し、妹を抱き締める。


「バカ! あんたが行くわけないでしょ!」


「だってお姉ちゃんは、お父さんのこと支えないと……私は、私なんていなくても……」


「このバカちんが!」


鈴が妹の頭を叩いた。そして、姉は妹の手を握り、妹は姉の服を掴んだ。二人揃って、震えながらも前に立つ。


「私たち、二人で行く」


鈴が言った。


「それなら、竜さんの言う『一番大事なもの』は、二人で一つでしょ?」


琴がうなずく。


「姉妹は、セットです」


その時、竜が声をあげた。


笑っているのか、咆哮なのか、わからない声だった。巨大な身体が震え、鱗が擦れて金属音を立てる。


そして竜は、ゆっくりと、語り始めた。


十年前、俺は勇者だった。


いや、正確に言えば「勇者と呼ばれていた」だけだ。本当はただの村人で、たまたま剣の腕が人より少し良かっただけ。それがある日、王都から来た使者に「勇者候補」として召喚され、気づけば「竜討伐の旅」に駆り出されていた。


俺のパーティーには、三人の仲間がいた。

老魔術師のガルシア。

聖女のリリア。

そして、人語を解し、共に戦ってくれた相棒——黄金の竜、アウラ。


そう。アウラは、最初から「討伐対象」なんかじゃなかった。


王国が「竜の巣」と呼んだ場所は、実際にはアウラの家族が暮らす洞窟だった。老いた父竜と母竜、そして生まれたばかりの卵が二つ。アウラは最後の生き残りで、家族を守るために人間と共に旅をしていたのだ。


なのに。


「勇者よ、竜を倒せ。さすれば、お前に褒美を取らせる」


王都に戻った時、王はそう言った。アウラはすぐ側にいた。その言葉を、全て聞いていた。


「なぜだ……」


アウラは呟いた。


「俺は、ずっとお前たちと戦ってきた。人間を襲う竜どもを、共に倒してきた。それなのに……」


老魔術師ガルシアが、杖を構えた。


「王命だ。従え、勇者」


聖女リリアが、祈りを捧げた。


「竜は呪われし存在。人の世に仇なすもの」


違う。そうじゃない。


叫ぼうとした瞬間、アウラが空へ舞い上がった。そして、一筋の火を王都に向けて放った。


狙いは王城じゃない。王城の前に立つ、巨大な像だった。


像は燃え落ち、中から無数の骨が転がり出た。人の骨だ。子供の骨も混ざっている。


「見るがいい」


アウラの声が、街中に響いた。


「これは、この国が『竜討伐』と称して虐殺してきた、私の仲間たちの骨だ。私は最後の生き残り。家族を全て殺され、ただ一匹で逃げ延びた。そして私は思った——人間を憎み、復讐するよりも、人間を知ろうと。なぜ、私たちが殺されるのかを理解しようと」


その目が、俺を見た。


「お前たちは優しかった。ガルシアは魔法を教えてくれた。リリアは癒しの祈りを捧げてくれた。そして勇者よ——お前は、私を『相棒』と呼んでくれた。私はお前たちと旅をするうちに、人間を許せるかもしれないと思い始めていた」


「なのに」


アウラの声が、初めて震えた。


「お前たちもまた、私を殺す側の人間だった。王命とあらば、相棒すら殺す。それが人間なのか」


俺は何も言えなかった。言い訳なんて、何もなかったから。


その夜、俺は決断した。


王命に従い、アウラを裏切ることを。


違う。正確に言えば——逃げたのだ。あの場でアウラを庇い、王に刃向かう勇気がなかった。ただ、黙って従った。


ガルシアが放った魔法が、アウラの翼を焼いた。

リリアが唱えた呪文が、アウラの鱗を割った。

そして俺は、剣を握ったまま、ただ立ち尽くしていた。


アウラは逃げた。満身創痍で、空へ消えた。最後に残した言葉は、


「いつか、お前に選択を迫る日が来る。その時、お前はどうするのか、見せてもらう」


だった。


---


「それが、全てだ」


アウラは静かに語り終えた。


村の広場には、いつの間にか静けさが戻っていた。村人たちは皆、竜の言葉に聞き入っていた。泣いている者もいる。でも、それは恐怖の涙じゃなかった。


「私はお前を恨んでなどいない。お前が弱かったからだ。弱さは罪ではない」


アウラは俺を見下ろした。


「だが、お前はその後も弱かった。村に逃げ込み、名を変え、剣を捨て、ただ生き長らえた。娘たちには、かつて自分が勇者だったことすら話さなかったそうだな。『弱さは罪ではない』——だが、弱さを隠し続けることは罪だ」


俺は膝をついたまま、顔を上げられなかった。


「だから、今回の選択だ」


アウラの声が、静かに続く。


「娘を差し出すか、隣人を差し出すか、戦うか、何もしないか。どれを選んでも、お前は失う。どれを選んでも、お前は傷つく。どれを選んでも——後悔する」


「だが」


アウラの声が、ふと優しくなった。


「お前の娘たちは、違ったようだ」


俺は顔を上げた。


鈴と琴が、まだ立っていた。二人で手を握り合い、震えながらも、アウラを見上げている。


「お姉ちゃん、怖い…」

「大丈夫、私がいるから」


鈴が琴の手を握り締める。琴が鈴の服を掴む。


「あの、竜さん」


鈴が、震える声で言った。


「私たち、まだ小さいけど、わかることがあります」


「ほう」


「お父さんは、ずっと私たちを守ってくれました。お母さんが死んだ時、お父さんは毎晩泣いてました。でも、私たちの前では絶対に泣きませんでした」


琴が続ける。


「お姉ちゃんが熱を出した時、お父さんは三日三晩、寝ないで看病しました。私が転んで怪我した時、一番に飛んできたのはお父さんでした」


「だから」


二人が同時に言った。


「私たちが、お父さんを守ります」


アウラが、初めて笑ったように見えた。いや、本当に笑ったのかもしれない。竜の顔で笑うのは難しいが、その黄金の瞳が、確かに和らいだ。


「十年ぶりにお前の顔を見て、がっかりしたよ。あの時の勇者は、どこへ行ったのかと。だが——」


アウラはゆっくりと、その巨大な頭を下げた。鈴と琴の目の前に、黄金の顔が近づく。


「お前の娘たちは、お前よりずっと強いな」


そして、アウラは言った。


「選択肢は三つじゃない。四つ目がある。いや、五つ目もある。だが、それはお前が自分で見つけろ。私はただ——」


アウラの目から、一筋の雫が零れ落ちた。


それは、黄金に輝く涙だった。


涙は地面に落ち、瞬く間に小さな花を咲かせた。光を放つ、見たこともない花だ。


「これは何だ」


「竜の涙だ。昔、お前が探していたものだ」


アウラはそっと、鈴と琴の頭を大きな鼻先で撫でた。


「娘を助けるために、私を殺しに来ると思っていた。そうしたら、私はお前を殺し、全てを終わらせるつもりだった。それが五つ目の選択肢だ」


「だが、お前は娘を差し出そうともせず、戦おうともせず、ただ悩み続けた。弱いまま、悩み続けた。そして娘たちが、自ら前に出た」


「これが四つ目の選択肢だ」


アウラは俺に向き直った。


「娘たちがお前を救った。これからも、娘たちはお前を救い続けるだろう。そしてお前は、娘たちのために強くなる。それが、この十年お前ができなかったことだ」


涙が、まだアウラの目から零れ続けている。


「竜の涙は、心の傷を癒すという。だが本当は、違う」


アウラの声が、かすかに震えた。


「竜の涙は、癒す力を与えるのではない。癒されたいと願う者の前に現れる。ずっと昔、私が父から聞いた話だ」


「私はお前に、選択を迫ったのではない。お前に、十年間目を背け続けてきたものと向き合わせたかっただけだ。そして——」


アウラが、ゆっくりと空へ舞い上がった。


「私自身も、お前との決着をつけたかった。憎しみのままで終わりたくなかった」


「アウラ……」


「これで終わりだ、勇者。いや、ただの男よ」


アウラは、燃える山の方へと去っていく。


「竜の涙は、お前にやる。使い道は、自分で考えろ」


その姿が、山の向こうに消えるまで、俺はただ見送っていた。


鈴と琴が、走り寄ってきた。


「お父さん!」


二人が同時に抱きつく。小さな身体が、震えている。


「怖かった……すごく怖かった……」


琴が泣きじゃくる。


「でも、お父さんを守りたかった……」


鈴も、声を詰まらせている。


俺は、ただ二人を抱きしめた。言葉が出なかった。ただ、涙が止まらなかった。


村人たちが、少しずつ近づいてくる。誰も何も言わない。でも、その目は優しかった。


老夫婦が、竜の涙が咲かせた花を、そっと手に取った。そして、俺の前に差し出す。


「これ、お前さんに必要なもんだろ」


受け取った花は、温かかった。命の温もりがする。


「お父さん」


鈴が、俺の顔を覗き込む。


「竜さん、もう来ないの?」


「さあな。でも……」


俺は、まだ温かい花を見つめた。


「もし来たら、今度はちゃんと話をしよう。逃げずに、向き合おう」


琴が、俺の袖を引く。


「お父さん、泣いてる?」


「ああ、泣いてるよ」


俺は、二人をしっかりと抱きしめた。


「お父さん、もう逃げない。約束する」


空は、いつの間にか暗くなり始めていた。夕焼けが消え、星が一つ、二つと現れる。


竜の涙は、静かに花を咲かせ続けていた。



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