ピッツバーグ・キッド 世界ライトヘビー級王者 ビリー・コン(1917-1993)
ビリー・コンは全盛時代に日本とアメリカが一触即発の国際情勢にあったため、ボクシングが盛んだった日本ではほとんど紹介されることがなかったが、おそらく当時としては歴代最強のライトヘビー級王者だった。体格差があり、現在の井上尚弥なみの安定政権を築いていたルイスをあと一歩まで追い詰めたコンは、ヘビー級王者がルイスでなければ間違いなく二階級制覇していたはずだ。
全盛期のジョー・ルイスの王座を最も脅かしたボクサーとして知られるビリー・コンは、一九四〇年代きってのアイドルボクサーだった。
第二次世界大戦の真っ只中という暗い時代の中にあって、コンの洗練されたクリーンでスタイリッシュなボクシングは一服の清涼剤のごとき趣があり、いかなる相手にも正々堂々と向かってゆく姿は多くの人々に勇気と希望を与えた。
また、ボクサーらしからぬ美男ぶりと、爽やかな好青年というキャラクターが大衆受けし、一九四一年には、コンのニックネームをそのままタイトルにした映画『ピッツバーグ・キッド』が製作され、自身が主役を務めている。
コンは鉄鋼の町ピッツバーグに生まれた。製鉄所に勤務する父に連れられてモノンガヘラ川の沿岸にある父の職場を訪れた時、十三歳のコンはこの世の地獄といっても過言ではない、不潔で吐き気を催すような世界を初めて垣間見た。
そこはあたり一面粉塵が舞い、昼間と言うのに夕方のように薄暗かった。うだるような熱気と鼻腔を突き刺す臭気に満ちた世界にどっぷり浸かっているうちに、すでに健康を害していた父は、息子を諭すようにこう言ったという。「お前はこのような場所で終わってはいけない」と。
父の言葉を胸に留めたコンは、光のある世界での生活を夢見てボクサーになることを決意した。彼は煙と汗の匂いが充満したジムの独特の雰囲気が好きだったからだ。
最初は腕利きのトレーナーを探して幾つかのジムを転々としたが、やがて長身でスピードがあり顎が強いコンに将来性を感じたジョニー・レイの目に留まり、彼の指導を受けることになった。レイはかつて「人間風車」ハリー・グレブとトレーニングしたこともある元ライト級のボクサーだった。
グレブの強さを肌身で実感してきたレイは、スピードとフットワークの強化を主眼としたトレーニングを課し、左の使い方とディフェンスを徹底的に叩き込んだ。その甲斐あって、コンの左リードはまるでレピア(フェンシングの剣)のように鋭く正確な武器となり、最終的にヘビー級まで増量した後も、並みいるヘビー級ボクサーでさえ左一本で十分にあしらえるほどに磨き上げられた。
アマチュアで数試合こなした後、十六歳でウエルター級としてプロデビューしたコンは、年長者との対戦が多かったこともあってキャリア不足を露呈し、最初の二年間は十二勝六敗(一KO)一引分けという平凡な成績だったが、三年目には十八戦全勝と一気にメインエベンターの座に駆け上った。
中でも地元ピッツバーグの若手人気ボクサーとしての地位を不動のものとした名勝負が、一九三六年十二月二十八日に行われたフリジィ・ジビック戦である。
後に“三冠王”ヘンリー・アームストロングを倒して世界ウエルター級チャンピオンとなるジビックは、一流のテクニシャンであると同時に、「反則のデパート」と異名を取るほど油断も隙も無い相手だった。
対するコンはクリーンファイトに徹する正統派ということもあって、両者は互いに憎しみ合っていた。
敵意剥き出しのジビックが、一ラウンドからグローブの紐で瞼を擦り上げる反則攻撃を繰り返し、「どんな気分だ、アイルランド野郎?」と挑発すれば、コンも黙ってはいない。
二ラウンドにはお返しのローブローを股間に叩き込んで「お前こそどうだい、クロアチア人?」とやり返す。コンは反則は嫌いだが、やられたら躊躇なくやり返すほどの攻撃性も秘めていた。
これがこたえたのか、ジビックは以後反則を封印して正攻法で立ち向かったが、コンの鋭い左を攻略出来ずに僅差の判定に退いた。
キャリア、テクニックともに上と言われていたジビックに勝ち、中量級のトップクラスの一人に躍り出たコンは、翌一九三七年にはベイブ・リスコ、ビンス・ダンディー、テディ・ヤローズといった元世界ミドル級王者まで蹴散らしたが、この時まだ十九歳の若さだった。ハンサムなティーンエイジボクサーはいつしか「ピッツバーグ・キッド」の愛称で親しまれるようになった。
レイは伸び盛りのコンにさらなる強敵を次々とぶつけていった。
ヤング・コーベット三世(元ウエルター級チャンピオン)には連勝を二十七でストップされ、ソニー・クリューガーにも敗れたが、いずれも再戦では文句なしの判定でリベンジを果たしている。しかもクリューガーは再戦時には現役の世界ミドル級チャンピオン(NBA公認)だった。
一九三九年一月六日、MSGで行われたフレッド・アポストリ戦は彼の評価を決定付けるとともに、人生をも賭けた大一番となった。アマチュア時代から輝かしい実績を誇るアポストリは、ニューヨーク州公認の世界ミドル級チャンピオンにして、パウンド・フォー・パウンド最強と謳われる人気ボクサーである。
加えて、今をときめくニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオとは学生時代からの親友同士ということで話題性も十分だった。
片やコンも、この試合に関してはちょっとした話題を提供していた。というのも、ピッツバーグきっての美人と誉れも高いマリー・ルイーズとハイスクールの学友を試合に招待していたからである。
ルイーズの父、ジミー・スミスはニューヨーク・ジャイアンツ在籍中にワールドシリーズチャンピオンを経験したこともある元メジャーリーガーで、ニューヨークでも知名度が高かった。コンはルイーズと将来を誓い合った仲だったが、スミスはボクサーとの交際に反対だったため、何としてでも世界チャンピオンになって周囲を納得させる必要があった。
美男ボクサー同士の対決ということで、大いに注目されたこの一戦は、一ラウンド目から火を吹くような打ち合いで始まった。
コンに「今までこれほどのボディパンチャーには出会ったことがない」と言わさしめたアポストリのパンチは強烈だったが、身長とリーチで勝るコンはジャブと左フックをあらゆる角度から繰り出して現役王者を痛めつけた。
両者ともに休む間もなくパンチを交換した結果、判定はコンに挙がった。翌日のニューヨークの各紙は「ライトニング・レフト(稲妻の左)」とコンを絶賛した。あまりの熱戦ぶりにファンは十ラウンドでは物足りず、一ヶ月後に十五ラウンド制で再戦が実現したが、またも僅差でコンに凱歌が挙がった。
勢いに乗るコンは、同年七月十三日、メリオ・ベッティーナを判定で下して世界ライトヘビー級の王座を獲得すると、チャンピオンベルトを手土産についにマリー・ルイーズと結婚式を挙げた。
一年間で三度の防衛に成功し、ライトヘビー級歴代最強の声も聞かれるまでになったが、彼の究極の目標はライトヘビー級タイトルの防衛ではなかった。当時、世界最強の名を欲しいままにした「褐色の爆撃機」ことジョー・ルイスの持つ世界ヘビー級タイトルこそ、コンが長年抱き続けた夢だったのだ。
ライトヘビー級タイトルを返上してまでヘビー級王座挑戦に賭けたコンは、一年かけてヘビー級の身体を作り上げる一方で、ヘビー級世界ランカーにも連勝し、ついにトップコンテンダーとしてルイスへの挑戦権を手に入れた。時に一九四一年六月十八日、ニューヨークのポログラウンドに五万四千人余の大観衆を集めた注目の一戦が火蓋を切った。
試合の賭け率は十一対五でルイス有利と出ていたが、ルイスより三十ポンド軽量のコンはパワーを犠牲にしてスピードを生かす作戦が成功して、ルイスの強打を空転させ続けた。
ヘビー級では連打のスピードが抜群に速いルイスだけに、単発ではコンを捉えることはあったが、鉄の顎を持つ挑戦者には深刻なダメージを与えられなかった。逆にコンはルイスが接近するや、死角に回りこんでは左フックをダブルで上下に打ち分けるなど多彩なブローで無敵王者を幻惑した。
左ストレート並みの破壊力を持つジャブがガードの隙間を縫って顔面に突き刺さり、ルイスがスウェーすれば、ガードの外側から左フックが顎を襲う。十二ラウンドにはコンの左右のコンビネーションでルイスがふらつくシーンも見られ、観客席は歴史的な王者交代劇への期待に心躍らせていた。
ところが不吉な数字の十三ラウンド、ここまでポイントは明らかにリードしているにもかかわらず、KOへの色気が出たのか無謀にもルイスと打ち合ってしまう。ルイスのコンビネーションをまともに浴びたコンはたちまちグロッギーに陥り、追撃の右でキャンバスに沈められた。コンがテンカウントを聞くのは初めての経験だった。
いみじくもルイスが試合前に語った予想は的中した。
「ヤツは逃げられる。しかし、隠れることは出来ない」
試合の展開からして、ルイスはスピードでは勝てないことを悟ったに違いない。しかし、同時にコンのパンチでは自分を倒せないことにも気づいたはずだ。
シュメリングのパンチでKOされたことのあるルイスは、コンのクリーンヒットを幾度が浴びているうちに、この衝撃になら耐えうると判断し、コンを追いかけるより、打たせておいてから自分の間合いに入ったところで強打を叩き込む機会を待ち続けた。
もし、コンがリードを守るために足で掻き回してくれば判定で逃げ切られるだろう。しかしコンとは親友でありその性格を熟知しているルイスは、史上最強のヘビーウェイトをKOして歴史に名を刻む千載一遇のチャンスを逃すほどコンが保守的な男だとは考えていなかった。
ライトヘビー級チャンピオンの肩書きを捨ててまで、ヘビー級に固執してきたコンのこと、チャンスがあれば必ずKOを狙ってくると確信していた。
あとはコンの鉄の顎に自分のパンチが通用するかどうかだけだった。
ルイスは起死回生の逆転KOで王座を守り第一人者の貫禄を示したが、コンはこの善戦によってさらに株を上げた。プロモーターは早速リターンマッチを企画し、一九四二年七月二十五日に両者は再度激突するはこびとなった。
この間、ルイスが三度の防衛戦を全てKOで片付けたのに対し、コンも現役ミドル級チャンピオンのトニー・ゼールを判定で下した星を含めて三連勝と好調を維持。いよいよ再戦に向けて両者のモチベーションも盛り上がったところで、突如それに水を差すアクシデントが起こった。
以前から折り合いが悪かった義父ジミー・スミスと殴り合いになった結果、コンが拳を骨折したのである。やむなく試合は延期になったが、折しも太平洋戦争の戦火拡大の影響で、ルイスとコンは共に応召されてしまいこの再戦はご破算となった。
時は流れて一九四六年六月十九日。遅ればせながらファン垂涎のルイス対コンのリターンマッチがヤンキースタジアムで実現したが、歳月はコンに無慈悲だった。
往年のスピードとキレを失ったコンはルイスの猛攻をしのぐのが精一杯で、ほぼ一方的な展開の末、八ラウンドKO負けで再びルイスにの軍門に下った。
惨敗のショックで試合直後に引退を発表したコンだったが、二年後にカムバックし二試合KO勝ちしたのを最後にリングを去った。
コンはリング生活の中でウエルター級からヘビー級までのチャンピオン経験者たちと戦い、勝てなかったのはルイスだけだった。
ピッツバーグ市はこの偉大なる町の英雄にちなんで、通りの名の一つを「ビリー・コン・ブールバード」と命名し、長く栄誉を称えた。
引退して四十年後、久々にコンの名がピッツバーグの地元紙の見出しを飾る出来事が起こった。
コンビニ強盗をコンが鉄拳で打ち据えたのである。この時、コンは七十二歳だった。KOパンチは、ピッツバーグ・キッドのフィニッシュブロー「ライトニング・レフト」だったに違いない。
映画『ピッツバーグ・キッド』の封切は一九四一年八月二十九日である。製作はB級映画専門のリパブリックピクチュアズだが、スパーリングパートナーとして三冠王ヘンリー・アームストロング、元世界ミドル級チャンピオンのフレディ・スティールも本人役として出演するという豪華版である。残念ながら太平洋戦争前夜の日本では未公開だった。




