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悪化ー5

 日も傾き、窓の外はすでに暗くなり始めていた。誰もいない食堂の一角…瑠唯の何時もの指定席。

 この時間、清掃のおばちゃん達も行き交う事はない。


「何だか、落ち着く場所だねぇ?ここ…原田先生のお気に入りの場所なの?」


 山川は両手に自販機で購入したコーヒーのカップを持ってその席にやって来た。左手のカップを瑠唯に渡すと


「はい…君は相変わらず甘いカフェオレ?」と微笑む。


「ありがとうございます。」そう言って瑠唯はカップを受け取った。


 山川は壁側のソファーに腰を下ろすと向かい側に瑠唯を促す。


「今日は、すみませんでした。」


 改めて瑠唯が頭を下げて俯く。


「その謝罪はもう受け取った。…さて…少し話そう…」


 それから、コーヒーを一口すするとゆっくりと口を開く。


「…あの後…僕が大学病院を辞めた後…大変だったね…」


 その言葉で思わず瑠唯は顔を上げ山川の目をみた。昔と同じ…優しくて温かい眼差しに泣きそうになる。駄目だ…絶対泣かない…涙なんか流す資格はない…唇を噛み締める。


「残りの研修期間の話は聞いた。随分苦労したようだと…その後、アメリカに渡って大野先生の元にいたのも知ってたよ。」


「…っ…」


 瑠唯は目を剥く…言葉は出ない。

 山川は続ける。


「僕は、君に会いたかった…アメリカまで会いに行こうかとも思った…でも、出来なかった…僕はずっと君に謝りたかったんだ…僕の不用意な行動で、君の医師としての始まりを台無しにした。本当に…申し訳なかったと思っている。だけど…あの時…」


「先生に!先生に…謝っていただく必要は、ありません。先生は…何も悪くありません。」


 瑠唯が山川の言葉を遮るように言葉を重ねる。


「あの時、診断を誤ったのは私です!ちゃんと確認を取らなかったのも…そして…患者さんを死なせてしまったのも…私なんです。」


 膝の上で拳を握りしめ、俯く。


「それは違うよ!あの時の君に責はない…そもそもあれは誤診などではなかったよ!仮に僕が診断していたとしても結果は同じだった。現にご家族もきちんと説明して、納得してくださった。」


 山川は強い口調で瑠唯を諭す。


「でも…あの時、先生への事前確認を怠ったのは私の責任です。そのせいで、先生は責任をお取りになったんですよねぇ?」


 今にも目から熱いものが溢れ出してしまいそうだった。けれど、泣かない。絶対に泣いてはいけない。瑠唯は掌に爪が食い込むほど更に硬く拳を握りしめる。


「違う!」


 山川の悲痛な声が誰もいない食堂に響き渡った。


「違うよ!僕が…僕が責任を取りたかったのは…君にしてしまった、あの…行いだ…指導医として、決してあってはならないあの…だけど…僕は…僕は…」


 その先が言葉にならない…


「ご家族は…息子さんは、多分お父様の死を納得していらっしゃらないと思います。」


 瑠唯がポツリと漏らす。


「どう言う意味?」


 山川は顔を歪めた。


「研修医の三ツ矢健人くんと手術室の三ツ矢優子さんをご存知ですか?」


「この春からの研修医の事は知らない。僕は二月の終わりからドイツで研修を受けていたから。でも…手術室の三ツ矢さんは知ってるよ。何度かオペで一緒になった。優秀な機械出しだと思う。その二人が…?」


 そこで山川は何かに気付く。


「お二人はおそらく姉弟で…亡くなった三ツ矢彰人さんのご遺族です。そして…少なくとも、三ツ矢健人くんは…私の事を恨んでいます。」


 瑠唯がそう答えると


「そうか…なら僕がもう一度きちんと説明を…」


「いいえ!いいえ!…どんなに説明を尽くしても、どんなに…私が悔やんでも、謝っても…どれ程の手術をして、どれ程の人の命を救っても…失われた「三ツ矢彰人」さんの命は戻りません!」


 そう叫んだ瑠唯は居た堪れず、席を立って立ち去ろうと後ろに踵を返す…と…突然、大野とぶつかった。


「先…生…」


 何も言葉が出なかった。瑠唯は顔を背けてその場から走り去った。


 大野は一人取り残された山川に歩み寄る。テーブルには少しも口を付けられる事なく冷めきったカフェオレが残されていた。


「大野先生…」


 気付いた山川が顔を上げる。


「ここ…ちょっといいか?」


「あっはい……聞いて…いらっしゃったんですか?」


「ああ…悪いな…長谷川からちょっと聞いたんでな…」


 山川は無言で俯く。


「で…山川…君は…瑠唯に、何をした?指導医としてあってはならない、何をした?」


 大野は山川にこらえ兼ねた憤怒の目を向ける。

 その視線を真っ直ぐに受け止め


「すみません…それは…言えません。ですが…この贖罪は生涯背負って行きたいと思っております。」


 そう山川が言い切った。

 大野は奥歯をギリっと噛み締める。どちらも一歩も譲らないとばかりに、視線を逸らさない。空気がビリビリ音をたてるように張り詰める。


 やがて大野が深く息を吐き出すと


「そうか!その言葉…忘れるな!」


「はい!」


 山川はそう一言答えた。






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